第95話「外部業者でお願いします」
三月十七日、二次募集の結果が出た。
篠原ゼミに追加で申し込んだ学生は、一人もいなかった。
「追加申込はゼロです」
教務課の杉田は、申し訳なさそうに言った。
杉田が悪いわけではない。篠原にも分かっていた。それでも、数字を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
「合計で、ゼロですか」
「はい」
「第二希望からの繰り上げも」
「ありません」
杉田は手元の一覧を確認した。
「来年度の篠原ゼミは、所属者なしという扱いになります。卒論指導の割り当てもありません」
所属者なし。
その言葉が、研究室の空気を少し変えた。
ゼミがなくなるわけではない。来年また募集はできる。授業も研究も続く。准教授としての仕事がその日から消えるわけではない。
だが、人気ゼミだと思っていた場所に、新年度は誰も来ない。
「四月五日の講演会は」
篠原が言う前に、杉田は少し声を落とした。
「学生スタッフ六名程度で組んでいた件ですよね」
「はい」
「新四年生には頼めませんね」
分かっていることを他人に言われると、問題が急に形を持つ。
篠原は机の上の進行表を見た。受付、会場案内、控室対応、来賓誘導、質疑マイク、資料補充、記録、予備。
一月は、それぞれの欄に名前が入っていた。
今度は、最初の一つも埋まらない。
「在学生のアルバイトを募集することはできますか」
「大学として募集するなら、手続きが必要です。謝金を出す場合は申請もいりますし、年度をまたぐので少し時間がかかります」
「無償で協力してもらうのは」
口にしてから、篠原は自分で言葉を止めた。
杉田も、そこには乗らなかった。
「四月五日ですから、新年度の履修登録も始まっています。急に声をかけて集めるのは、難しいと思います」
篠原はうなずいた。
学生なら、受付と案内くらいできる。
そう思っていた。
だが、その学生がいない。
「四年生は、卒業後ですしね」
杉田が言った。
「ええ」
卒業式は三月二十二日の予定だった。
卒業生として来てもらうことはできるかもしれないが、新生活の前に、篠原の講演会のために一日拘束することになる。
それでも篠原は、研究室に戻ってから森下にメールを書いた。
頼む文章ではなく、予定の確認という形にした。
『四月五日の記念講演会について、卒業後で難しいと思いますが、もし都合がつくようなら短時間でも協力可能か教えてください』
送ってから、すぐに後悔した。
都合がつくようなら。
短時間でも。
そう書けば、相手は断りにくくなる。
返事は夕方に来た。
『先生、すみません。四月三日から就職先の宿泊研修で、五日も終日参加できません。中沢くんと大槻さんにも確認しましたが、二人とも引っ越しと入社手続きで難しいそうです。一月の進行表と共有フォルダのメモは、見やすいように整理しておきます』
最後の一文で、篠原は画面から目を離した。
協力できないことを謝りながら、まだメモを整理すると言っている。
そこまで求めていない、と返そうとして、指が止まった。
求めていないわけではない。
自分は、そのメモを必要としている。
篠原は短く返信した。
『ありがとう。無理はしないでください』
送信ボタンを押したあと、しばらく何もできなかった。
*
翌日、地域連携センターとの打ち合わせで、篠原は外部業者の利用を提案した。
会議室には、センター長の小宮、広報課の職員、教務課の杉田がいた。佐伯も学科長として同席している。
「学生スタッフが確保できませんでした。当日の受付と会場運営については、外部業者に依頼した方が確実だと思います」
小宮は、予算表に目を落とした。
「今から手配できますか」
「いくつか当たってみます」
「費用は?」
「概算で、十八万から二十二万程度かと」
広報課の職員が、思わず顔を上げた。
「学生アルバイトなら、もっと抑えられますよね」
「大学で直接募集できればそうです。ただ今回は日程が近いので、業者手配になります。現場スタッフ六名分の人件費に、統括者一名、事前打ち合わせ、当日の管理費が乗ります」
「それでも、今回の講演会予算は超えます」
「登壇者謝金と印刷費で、ほぼ使っていますからね」
小宮が予算表を指でなぞる。
「不足分は、学部の地域連携費から出せなくはありません。ただ、収支としては赤字になります」
赤字。
参加費を取らない大学の講演会で、その言葉を聞くとは思っていなかった。
正確には、収益事業ではない。赤字というより、予定外の支出だ。だが、学内では分かりやすくそう呼ばれる。
「学生スタッフを前提に組んでいたから、ここまで費用を抑えられていたんですね」
杉田が静かに言った。
篠原は、返す言葉を探した。
受付と案内くらい。
そのくらいの仕事だと思っていたから、予算にも入れていなかった。
「外部業者でお願いします」
篠原は言った。
「費用の件は、私の方でも説明します」
佐伯がこちらを見た。
その目に、責める色はなかった。ただ、何かを確認するような静けさがあった。
「篠原先生」
「はい」
「業者を入れるなら、学生に任せていた部分を全部洗い出した方がいい」
「受付と案内、控室対応、来賓誘導、登壇者連絡、資料補充、質疑マイク、記録、予備対応です」
「それだけかな」
篠原は一瞬、答えに詰まった。
佐伯は続けた。
「当日、参加者は講演内容についても聞いてくる。登壇者の本はどこで買えるのか、このテーマは篠原ゼミで扱うのか、前回のセミナー資料は見られるのか。そういう質問に、学生たちは答えていたよ」
「内容に関する問い合わせは、私かセンターで受けます」
「二百五十人の会場で、先生が全部拾えるならね」
会議室が少し静かになった。
篠原は、進行表の余白を見た。
一月の進行表には、森下の字で「質問されたら篠原先生へ」と書かれている箇所がある。だが、その横には別のメモもあった。
前回資料はQRで案内。
地域FMの事例は三枚目。
水野さんの記事は配布資料末尾。
佐伯先生は常温水。
それらは、役割欄には出てこない。
だが、当日は確かに動いていた。
*
外部業者は、広報課が以前使ったことのある会社に決まった。
株式会社アーバンイベントサポート。担当は橘真琴という女性だった。
打ち合わせは三月二十七日の午後、三号館の小会議室で行われた。
橘は、黒いファイルを開き、会場図を見ながら手早く確認していった。
「受付は二列ですね。一般参加者と学内関係者で分けますか」
「分けた方がいいと思います」
「来賓の方は別導線にします。控室は二階に三室、会場は一階。雨天時の動線も確認します。車椅子の参加予定はありますか」
「一名、申込フォームに記載があります」
「では、前方左側に席を確保します。トイレの位置とエレベーターの動線も、当日のスタッフに共有します」
橘は有能だった。
篠原が言う前に、必要な項目を拾っていく。受付台の位置、掲示物の大きさ、遅刻者対応、クロークの有無、控室の飲み物、登壇者の入り時間、緊急時の連絡先。
少なくとも、運営の形だけなら、学生より整っている。
「現場スタッフは何名入りますか」
「現場スタッフは六名です。受付二名、会場案内一名、控室兼来賓誘導一名、登壇者連絡兼資料補充一名、質疑マイク一名。別に統括が一名入ります。記録は大学様側でお願いします」
「それで全体は回りますか」
「誘導と受付については問題ありません。ただ、内容に関する質問は、弊社スタッフでは回答しない形でよろしいですか」
「内容、ですか」
「はい。講演テーマ、登壇者の研究内容、大学の授業やゼミについての質問です。受付でよく聞かれます。弊社スタッフは案内はできますが、内容の説明はできません」
「その場合は、私か地域連携センターに回してください」
「承知しました。問い合わせが集中した場合の窓口も、大学様側で決めていただけますか」
「私が受けます」
篠原が答えると、橘は一度ペンを止めた。
「篠原先生お一人で受ける形ですね」
「はい」
「では、先生が登壇者対応や進行確認で動かれている時間帯は、地域連携センター様でいったん預かれるようにしておくのが安全だと思います」
「安全」
「誤った案内をしないためです」
篠原は、ゆっくりとうなずいた。
橘の判断は当然だった。
だからこそ、篠原は妙な違和感を覚えた。
これまでの学生たちは、そういう線引きをしなかった。
もちろん、専門的な質問には答えられない。だが、参加者が何を知りたがっているのかを聞き取り、資料のどこを見ればいいか案内し、必要なら篠原に回していた。
それを受付の仕事と呼んでいたのは、自分の方だった。
それでも、誰かがやっていた。
「学生スタッフ用の資料があるので、共有します」
篠原が言うと、橘はうなずいた。
「ありがとうございます。ただ、弊社スタッフは当日初めて大学に入る者もいます。細かい学内事情やゼミの説明は、大学様側で窓口を決めていただいた方が安全です」
同じ言葉が、もう一度戻ってきた。
安全。
間違えないための線引き。
*
三月末、篠原は研究室で森下が整理した共有フォルダを開いた。
ファイル名は、どれも淡々としていた。
受付用メモ。
よくある質問。
登壇者対応。
会場トラブル時。
資料不足時。
篠原は「よくある質問」を開いた。
『前回の資料はどこで見られるか』
『篠原ゼミではどんな卒論テーマが多いか』
『地域FMの事例をもっと知りたい場合、どの資料を読めばいいか』
『自治体職員向けの研修として参加してよいか』
『講演後に登壇者へ個別質問してよいか』
質問の横に、短い回答例がついている。
専門的な内容には踏み込まない。篠原に回すべきものは、はっきりそう書いてある。
だが、全部を篠原に投げているわけでもなかった。
『前回資料はQRで案内。紙が欲しい人は地域連携センターへ』
『卒論テーマは、地域メディア、防災広報、自治体SNSが多い。個別相談は篠原先生へ』
『水野さんの記事は配布資料末尾。新聞社サイトにも掲載あり』
篠原は、画面をスクロールした。
メモのところどころに、森下以外の名前も残っている。中沢が書いた注意。大槻が足した案内文。学生たちが、イベントのたびに少しずつ増やしてきたものだ。
篠原はそれを、引き継ぎファイルだと思っていた。
だが、ただの引き継ぎではなかった。
学生たちがイベントのたびに足してきた、受付で迷わないための言葉だった。
講演の言葉を、参加者に届きやすい言葉にする。
大学の事情を、外から来た人に分かる形にする。
篠原の授業やゼミで扱ってきた内容を、受付で聞かれた一言に合わせて差し出す。
受付と案内。
その言葉の中に、そんな作業を押し込めていた。
篠原は、業者用の進行表を開いた。
受付、会場案内、控室、来賓誘導、登壇者連絡、資料補充、質疑マイク、統括。記録は広報課、予備対応は統括の欄にまとめられている。
項目は整っている。担当者も入っている。緊急連絡先も、集合時間も、服装も、休憩時間も書かれている。
空白は、ほとんどない。
ただ、「内容質問の受け先」という欄だけが、何度も同じ名前になっていた。
篠原貴文。
篠原貴文。
篠原貴文。
一月の進行表なら、そこには学生の名前が入っていた。
森下がいて、中沢がいて、大槻がいて、それぞれが分かる範囲で受け止めていた。
今年は、誰もいない。
篠原は、進行表を保存した。
四月五日まで、あと一週間。
講演会は、形だけならもう準備できていた。




