第94話「今年は、集まりが悪いですね」
二月のゼミ説明会は、毎年、少しだけ落ち着かない空気になる。
蓮見大学現代社会学部の三年生が、四年次に所属するゼミを決める。卒論の指導教員が決まる場でもあり、就職活動の時期とも重なる。人気のあるゼミには面談希望が集まり、教員はその数を見ながら、来年度の一年をぼんやり測る。
篠原貴文のゼミは、少なくとも去年までは人気があった。
地域メディア、公共コミュニケーション、災害情報、行政広報。講義名だけを並べると固いが、篠原の授業は分かりやすいと言われている。新聞社やテレビ局の人間を呼ぶことも多く、学生が外部の大人と話す機会もあった。
説明会の会場に貼られたポスターにも、一月の公開セミナーの写真が使われていた。
壇上に並ぶ登壇者。会場の後方に立つ学生スタッフ。受付で来場者に資料を渡している森下の姿も、小さく写っている。
「今年も定員六名ですか」
教務課の杉田が、名簿を確認しながら聞いた。
「ええ。希望者が多ければ面談で選びます」
篠原はそう答えた。
去年は第一希望だけで十四名いた。面談をして、志望理由の薄い学生を数名、別のゼミに回した。最終的に、定員どおり六名で落ち着いた。
今年も同じくらいだろうと思っていた。
「現時点で、申込前の個別面談の予約が二件です」
杉田が言った。個別面談は、説明会とは別に希望者が教員と話すための枠だ。
「二件?」
「はい。今日の説明会後に増えるとは思いますが」
「締切前にまとめて来るんでしょう」
篠原は軽く笑った。
学生はいつもぎりぎりに動く。履修登録も、レポート提出も、だいたいそうだ。まだ心配する時期ではない。
説明会が始まると、各ゼミの教員が順番に五分ずつ話した。
篠原は、いつものように前に立った。
「篠原ゼミでは、地域社会とメディアの関係を扱います。卒論テーマは、地域FM、防災広報、自治体SNS、観光とメディアなど、かなり幅広く取れます。学外の方を招いたセミナーや講演会も行いますので、実際の現場に触れながら学べるのが特徴です」
三年生たちは、配られた資料に目を落としている。
反応は悪くない。顔を上げている学生もいる。篠原は、用意していた写真をスクリーンに映した。
「これは一月の公開セミナーです。学生も運営に参加します。企画を実際に動かす経験は、社会に出てからも役に立ちます」
そのとき、前の方に座っていた男子学生が、隣の学生と視線を交わした。
篠原は気づいたが、気にしなかった。
説明会の後、教室の前方にはいくつかの列ができた。
隣の谷口ゼミには、すぐに七、八人が並んだ。公務員志望の学生に人気があるゼミだ。その向こうの川瀬ゼミにも人が集まっている。
篠原の前に来たのは、個別面談を予約していた学生とは別の二人だった。
「先生、質問いいですか」
声をかけてきたのは、三年の菊池という女子学生だった。篠原のメディア論を履修していた学生だ。隣には、同じく三年の河合が立っている。
「もちろん」
「四月五日の記念講演会なんですけど、ゼミに入ったら全員参加ですか」
篠原は少し意外に思った。
卒論テーマではなく、最初の質問がそこなのか。
「基本的には参加してもらう予定です。ゼミの活動を知るいい機会ですから」
「四月五日って、土曜日ですよね。」
「はい。集合時間や担当は、早めに伝えます」
篠原は穏やかに答えたつもりだった。
だが、菊池はまだ迷っている顔をしていた。
「あと、イベントの手伝いって、どれくらいありますか」
「年に数回です。受付、案内、資料配布、質疑の補助くらいですね」
「その公開セミナーって、基本は土曜日ですか」
「ええ。大学の教室を押さえやすいので、土曜に入れることが多いです。ただ、毎回全員というわけではありません」
河合が、小さく息を吸った。
「先輩から、篠原ゼミは忙しいって聞きました」
「忙しいと言っても、無駄なことはさせていませんよ。学外の人と関われるし、履歴書にも書ける経験になります」
篠原は資料を一枚、二人に渡した。
「それに、運営と言っても専門業者の仕事ではありません。学生でも十分できます。今の四年生もやっていました」
菊池は資料を受け取ったが、表情は明るくならなかった。
「卒論の相談時間は、ちゃんと取れますか」
「もちろんです」
「イベント準備と重なると、卒論の面談が後回しになるって聞いて」
篠原はそこで、ほんの少し眉を動かした。
「誰がそんなことを?」
「あ、いえ。今の四年生が、ちょっと大変だったって」
「今年度は外部登壇者が多かったから、例年より忙しかっただけです。来年度は調整します」
口にしてから、篠原は四月五日の講演会を思い出した。
記念講演会は、一月の公開セミナーより規模が大きい。学長も来る。大学の広報も入る。参加者は二百五十人を見込んでいる。
それでも、受付と案内が中心だ。
「心配しすぎなくて大丈夫ですよ」
篠原が言うと、二人は「ありがとうございます」と頭を下げた。
そのまま申込用紙を出すことはなかった。
*
翌週の昼休み、篠原は三号館の廊下で、学生たちの会話を耳にした。
自動販売機の前に三年生が四人立っている。こちらに気づいていないのか、声は少し大きかった。
「篠原先生の授業は面白いんだけどな」
「ゼミは別じゃない?」
「今の四年生、土曜けっこう潰れてたって」
「イベントのスタッフでしょ。受付とか誘導とか」
「でも、受付だけじゃないらしいよ。登壇者の資料チェックとか、質問出しとか、アンケート集計とか」
「それ、単位に入るの?」
「知らない。先輩は『卒論より先に講演会の進行表を直した』って言ってた」
篠原は、廊下の角で足を止めた。
学生たちは、笑っているわけではなかった。悪口というより、避ける理由を確認しているような口調だった。
「でも篠原先生、就職には強そうじゃない?」
「強そうだけど、四月の最初の土曜から大きい講演会って聞いた。準備もあるならきつい」
「私は卒論ちゃんと見てくれるところがいい」
「谷口ゼミは面談多いらしいよ」
「じゃあ、そっちかな」
学生たちは飲み物を買い、階段の方へ行った。
篠原はしばらく、その場に残った。
忙しい。
土曜が潰れる。
卒論より講演会。
どれも、言い方の問題だと思った。
実際には、卒論指導をしていないわけではない。面談もしている。イベントも、学生の学びになるように組んでいる。
だが、学生の間で一度そういう言葉になれば、別の形で広がっていく。
研究室に戻ると、森下からメールが来ていた。
『先生、三年生からゼミについて何件か質問されました。聞かれた範囲で、来年度の活動予定は答えています。四月五日の講演会のことも、分かる範囲で伝えました。なお、講演会が「初回ゼミ前から土曜に全員参加」として三年生の間で回っているようです。予定表を見れば、そう受け取られても仕方ないと思います』
篠原は画面を見た。
責める文章ではない。事務的な報告だった。
それでも、胸のあたりに小さな引っかかりが残った。
初回ゼミ前から全員参加。
噂ではない。予定表にそう書いたのは、自分だった。
返信を書こうとして、指が止まる。
『余計なことは言わないように』
そう打ちかけて、消した。
森下は嘘を言う学生ではない。むしろ、聞かれたことに正直に答えただけだろう。
それに、来年度の活動予定を隠す理由もない。
篠原は短く返した。
『了解しました。質問が多いようなら、こちらに回してください』
送信してから、椅子の背にもたれた。
窓の外では、入試の掲示板を片付ける職員が見えた。二月の大学は、いつもどこか慌ただしい。卒業していく学生と、これから入ってくる学生と、進級する学生が同じキャンパスにいる。
その中で、四年次のゼミは毎年、自然に決まってきた。
自然に集まり、自然に引き継がれ、自然に動く。
篠原は、それを仕組みだと思っていた。
だが、もしかすると、仕組みではなかったのかもしれない。
*
三月七日、第一希望の申込が締め切られた。
午前十時、杉田から内線が入った。
「篠原先生、ゼミ申込の件で確認です」
「はい」
「今年の第一希望は、ありません」
篠原は、ペンを持ったまま止まった。
「ありません?」
「はい。ゼロです」
「第二希望は」
「第二希望にも、篠原ゼミを書いている学生はいません」
「定員六名ですよ」
「はい。ですので、二次募集をかける形になります」
篠原は机の上の講演会資料を見た。
四月五日。受付開始十三時。開演十四時。想定参加者二百五十名。来賓対応あり。控室三室。学生スタッフ六名程度。
六名程度。
「二次募集をかければ集まりますか」
「例年なら、多少は」
杉田の声が少し慎重になった。
「ただ、今年は他のゼミも早めに埋まっています。相談窓口では、篠原ゼミの活動量について確認する学生が多かったです。四月五日の講演会に全員参加なのか、という相談も複数ありました」
「活動量」
「はい。イベント補助の回数や、土曜参加、就職活動や卒論準備との両立について」
篠原は返事をしなかった。
杉田も、それ以上は踏み込まなかった。
「二次募集の案内、こちらで出しておきます」
「お願いします」
電話を切ると、研究室が急に静かになった。
ゼロ。
定員割れではない。
誰も、第一希望にも第二希望にも書かなかった。
篠原は申込者一覧を開いた。菊池の名前は確かになかった。河合の名前もない。二人は、別のゼミを選んだのだろう。
ほかの欄には、学生の名前が並んでいる。谷口ゼミ、川瀬ゼミ、佐伯ゼミ。どのゼミにも、それぞれの希望者がいた。
篠原ゼミの欄だけが空白だった。
少数精鋭でやればいい。
そう考える逃げ道さえなかった。
卒論指導だけなら、学生が少ない年もある。だが、ゼロなら、丁寧に見る相手もいない。
そして、四月五日の講演会は、ゼロでは回らない。
一月の進行表を開いた。
森下が作った進行表には、役割欄が細かく分かれていた。
受付A。
受付B。
会場内誘導。
控室担当。
登壇者連絡。
質疑補助。
記録。
資料補充。
予備。
六名で回すため、実際には一人が二つ三つの役を兼ねていた。空いた手で互いの穴を埋めることも、進行表の前提になっている。
予備という欄に、中沢の名前が入っている。
当日は予備どころか、迷った参加者を一階まで迎えに行き、機材の不調を情報センターに連絡し、途中で足りなくなった名札ケースを別室から持ってきていた。
篠原はファイルを閉じた。
受付と案内くらい。
そう言ったのは、自分だ。
*
夕方、学科長の佐伯が研究室に顔を出した。
「今年のゼミ募集、見たよ」
「教務から聞きましたか」
「学科長だからね」
佐伯はドアのそばに立ったまま、研究室のホワイトボードを見た。そこには四月五日の講演会の簡単な配置図が貼ってある。
「苦戦しているみたいだね」
「まだ二次募集があります」
「それで埋まればいいけれど」
佐伯の声は、責めるものではなかった。だから余計に、篠原は言い返しにくかった。
「学生は、先生の授業が嫌いなわけではないと思います」
「分かっています」
「でも、ゼミは授業だけで選ばれない」
篠原は黙った。
「一月の公開セミナー、よくできていたよ。登壇者も参加者も、学生に助けられていた。あれは篠原先生のゼミの強みだった」
「ええ」
「ただ、強みとして見せるなら、学生にとっても納得できる形にしないと続かない」
「納得できる形、ですか」
「学生は、次の学生に話すからね」
佐伯はそう言った。
「いいことも、きつかったことも」
篠原は、昼休みに聞いた三年生の会話を思い出した。
篠原先生の授業は面白い。
ゼミは別じゃない?
あの短い一言が、思ったより深く残っていた。
「四月の講演会は、予定通りですか」
「はい。広報も動いていますし、今さら規模は変えられません」
「学生だけで回すつもりだった?」
「新ゼミ生に手伝ってもらう予定でした」
「何人くらい?」
「六名程度です」
佐伯は、少しだけ目を細めた。
「まだ顔も知らない学生を、四月五日に六名」
「事前説明はします」
「そうだね」
佐伯は、それ以上は言わなかった。
ただ、帰り際に一つだけ付け加えた。
「学生が集まらなかったことと、講演会の人手が足りないことは、別々の問題に見える。でも、根は同じかもしれないよ」
ドアが閉まったあと、篠原はしばらく動かなかった。
別々ではない。
そう言われた気がした。
机の上で、講演会の参加申込数を知らせるメールが光っていた。
『現時点で参加登録二百十八名です。今週中に定員に達する見込みです』
篠原は画面を見つめた。
参加者は増えている。
登壇者も決まっている。
会場も押さえている。
大学は、この講演会を成功例として広報に使うつもりでいる。
足りないのは、動かす人間だった。
一次募集で誰も来なかった時点で、学生だけに頼る前提は崩れている。准教授として、学外者を招く講演会を持つ以上、教務課や地域連携センターに相談するか、外部業者を入れるか、次の手を考えなければならない。
それでも篠原は、二次募集で入ってくるはずの学生向けに、連絡メールの下書きを開いた。
宛先欄に、カーソルだけが点滅している。
入れる名前がなかった。
去年なら、六つの名前が並んでいた。
役割分担を考え、誰に何を任せるか迷う時間があった。
今年は、ひとつも入らなかった。
篠原は、空白の宛先欄を見つめた。
四月五日まで、もう一か月を切っていた。




