第93話「学生スタッフで十分でしょ」
受付開始まで二十五分。
蓮見大学三号館の大講義室前で、篠原貴文は腕時計を見た。午後一時三十五分。公開セミナーの開場は二時。登壇者三名、参加予定者百八十六名。現代社会学部としては、かなり大きい催しだ。
廊下には、すでに受付机が二列並んでいる。
白いクロスをかけた長机。参加者名簿。名札ケース。資料の入った封筒。学内者用のQRコード受付。外部参加者用の紙名簿。すべて整っていた。
「学外の方はこっち、学生はQRで。名札の色、間違えないでね。一般が白、学部生が青。赤い来賓用は受付に出さず、控室へ回して」
四年ゼミ生の森下里奈が、同じゼミの学生スタッフに指示を出していた。声は大きくないが、よく通る。森下は篠原ゼミのゼミ長で、卒論のテーマは地域FMと災害情報だった。先月、最終発表を終えたばかりだ。
「中沢、控室の水、一本だけ常温にして。佐伯先生、冷たいの飲まないから」
「了解」
「大槻さん、講演資料の差し替え、最新の方だけ印刷できてる?」
「できてる。古い方は封筒に入れないように、こっちに避けた」
「助かる」
篠原はその様子を見ながら、手元の進行表を開いた。進行表は森下が作ったものだ。登壇者の到着予定、控室、機材確認、質疑時間、アンケート回収、撤収担当まで書かれている。去年のファイルをもとに、今年の内容に合わせて更新したらしい。
よくできている。
篠原はそう思ったが、口には出さなかった。学生がセミナーの進行表を作ることは、このゼミでは珍しくない。四年生になれば、誰でもそれくらいはできる。
「先生」
森下が近づいてきた。手にはクリップボードを持っている。
「第一部の佐伯先生、到着が十分ほど遅れるそうです。新幹線が少し止まったみたいで。先に水野さんの講演から入れて、佐伯先生は二番手に回してもいいですか」
「水野さんには確認した?」
「はい。控室で中沢が確認しました。水野さんは大丈夫だそうです。司会原稿だけ差し替えます」
「じゃあ、それで」
「はい」
森下は頷き、すぐに受付へ戻った。歩きながらスマホを操作し、スタッフ用のグループチャットに変更を流している。
篠原は、もう一度腕時計を見た。
大丈夫だ。今日も回る。
*
篠原貴文、四十一歳。蓮見大学現代社会学部の准教授。専門は地域メディア論と公共コミュニケーション。授業は人気があった。三年生向けの「メディアと社会」は、毎年履修登録の抽選が出る。公開セミナーにも外部から人が来る。地元紙の記者やNPO関係者、行政職員とのつながりもある。
ゼミも、ここ数年は定員を超えていた。
蓮見大学の現代社会学部では、ゼミは四年次のみだ。三年の二月から三月にかけて希望調査があり、四月から配属される。卒論指導と演習が中心で、学生にとっては最後の一年を過ごす場所になる。
篠原ゼミは人気ゼミだった。
地域メディア、観光、災害情報、ローカルニュース、SNSでの自治体広報。扱うテーマが身近で、外部ゲストも多い。学生が「社会とつながっている感じがする」と言う。大学案内のゼミ紹介にも、篠原の写真が載っていた。
人気があるのは、悪いことではない。
篠原は、自分のゼミが人気なのは、テーマが時代に合っているからだと思っていた。実際、講義後に質問に来る学生は多い。外部講師からも、「篠原先生のところは学生が熱心ですね」と言われる。
熱心な学生が集まる。
だから、イベントも回る。
順番としては、そういうことだ。
「篠原先生、すみません」
声をかけてきたのは、二年生らしい女子学生だった。名札を見ると、学部生用の青いケースを首から下げている。
「今日のセミナーって、来年のゼミ選びの参考にしてもいいんですか」
「もちろん。興味があるなら聞いていって」
「篠原ゼミって、こういうイベント多いんですか」
篠原が答えようとしたとき、受付から森下が戻ってきた。
「先生、そちら、私が説明します。受付の流れもありますし」
「ああ、頼む」
森下は女子学生を廊下の端に誘導した。人の流れをふさがない場所だ。
「イベントは多いです。公開セミナーが年に二、三回、外部の方を呼ぶ回もあります。ただ、全部に全員が出るわけじゃなくて、担当を分けます。卒論テーマが近い人が質問係になったり、受付を交代したり」
「大変ですか」
「楽ではないです。でも、登壇者の話を近くで聞けるし、卒論の相談にもつながることはあります。私は災害情報をやっていたので、去年の防災ラジオの回でかなり助かりました」
「先生、厳しいですか」
森下は一拍置いた。
「厳しいです。締切には」
女子学生が少し笑った。
「でも、テーマがはっきりしている人には向いていると思います。何となく楽に単位を取りたいなら、別のゼミの方がいいかもしれません」
篠原は少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。
説明がうまい。余計なことを言わず、必要なことは言っている。森下は昔からそうだった。二年のときから篠原の授業を取っていて、レポートもよく書けていた。
ゼミ生が後輩にゼミを説明する。
それも、毎年の光景だった。
*
開場の時間になった。
参加者が廊下に流れ込んでくる。高校生と保護者、学部生、近隣自治体の職員、新聞社の若い記者、地域NPOの関係者。受付前に列ができたが、森下たちは慌てなかった。
「お名前をお願いします」
「学内の方はこちらのQRを読み取ってください」
「控室は三階です。エレベーターは奥ではなく、こちらの職員用を使ってください。今日は南側の入口が閉まっています」
「資料は一部ずつです。アンケートは終了後にQRでお願いします」
言葉が重ならない。列が詰まらない。
中沢が登壇者を控室へ案内し、大槻がプロジェクターの表示を確認する。司会役の学生が、変更後の原稿を声に出して読んでいる。
篠原は登壇者の水野と名刺を交換し、控室で軽く話した。水野は地方紙の編集委員で、篠原とは何度か研究会で顔を合わせている。
「先生のところは、いつも学生さんがしっかりしてますね」
「うちはイベント慣れしてますから」
「羨ましいですよ。うちの社の若手より段取りがいい」
「それは言いすぎです」
篠原は笑った。謙遜の形を取ったが、悪い気はしなかった。
開始五分前。森下が控室のドアをノックした。
「先生、会場、八割入りました。前方が少し空いているので、学部生を前に詰めます。第一部の順番変更は司会原稿に反映済みです」
「わかった」
「佐伯先生は、あと三分で到着予定です。到着したら第二部前に控室へ入ってもらいます」
「助かる」
篠原がそう言うと、森下は軽く頭を下げて出ていった。
助かる。
口から出た言葉はそれだけだった。森下はそれを聞いて、特に表情を変えなかった。
*
セミナーは予定通り始まった。
水野の講演は、地方紙が災害時にどう情報を届けるかという内容だった。会場の反応は悪くない。学生もメモを取っている。篠原は前方の席で頷きながら聞いていた。
質疑応答になると、最初の手が上がらなかった。
公開セミナーではよくある。外部参加者は様子を見る。学部生は遠慮する。最初の質問が出るまでの沈黙が、会場を冷やす。
篠原がマイクを取ろうとしたとき、後方から森下が手を上げた。
「地域FMと新聞社で、同じ避難情報を扱うとき、役割分担はどう考えればいいでしょうか。速報性と記録性の違いというか」
水野が顔を上げた。
「いい質問ですね」
そこから会場の空気が動いた。自治体職員が手を上げ、二年生が続き、保護者らしい男性も質問した。マイクを持った学生が通路を走らず、自然に渡していく。
篠原は満足していた。
今日もいいセミナーになる。
第二部の前に、遅れて到着した佐伯教授が控室に入った。佐伯は同じ学部の教授で、学科長も務めている。六十歳を越えているが、学生の名前をよく覚えている人だった。
「篠原くん」
「佐伯先生、お疲れさまです。順番、二番手に変えています」
「聞いた。森下さんが駅からの道順まで送ってくれたよ。助かった」
「すみません、こちらで」
「いや、謝る話じゃない」
佐伯は会場の方を見た。扉の向こうでは、学生スタッフが休憩時間の参加者を誘導している。
「君のところの学生は、毎年よく動くね」
「そうですね。慣れているので」
「あれはゼミの財産だよ」
篠原は、少し笑った。
「受付と案内くらいですから。学生スタッフで十分ですよ」
佐伯は眼鏡の奥で目を細めた。
「受付と案内、ね」
「もちろん、準備は多少ありますけど。毎年やっていれば覚えます」
「そうかな」
佐伯はそれ以上言わなかった。控室のテーブルに置かれた常温の水を手に取り、キャップを開ける。
「私が冷たい水を飲まないことまで、誰が覚えていたんだろうね」
篠原は一瞬、答えに詰まった。
森下だろう。前にも佐伯が冷たい水を残していたことを、彼女は覚えていたのかもしれない。
「学生は、よく見ていますから」
「そうだね」
佐伯は水を一口飲んだ。
「学生がそれだけ見ているなら、こちらが何を軽く扱っているかも分かるだろうね」
篠原は、その言葉の意味を測りかねた。
*
片付けが終わったのは、午後六時を少し過ぎていた。
参加者は帰り、登壇者も控室を出た。廊下には、折りたたんだ長机と、余った資料の段ボールが残っている。学生たちは名札ケースを色ごとに分け、アンケートのQRコードを貼った紙を剥がしていた。
「森下、今日のアンケート、明日でいいから集計しておいて」
「明日は卒論の製本を出しに行くので、明後日でもいいですか」
「ああ、そうか。じゃあ明後日で」
「はい」
森下は短く答えた。疲れているのだろう。声が少し低い。
中沢が段ボールを持ち上げながら言った。
「先生、四月の講演会って、今日より大きいんですよね」
「そうだな。記念講演だから、二百五十人くらいは入る」
「四月の第一週でしたっけ」
「五日だ」
「そのころ、俺たち卒業してますよ」
「知ってるよ」
篠原は進行表を鞄にしまった。
「新しいゼミ生に手伝ってもらう。二月の募集で決まるし、三月中に連絡すればいい」
森下が手を止めた。
「新しいゼミ生、四月に入ったばかりですよ。先生の講演会の流れも、登壇者対応も、受付で何を聞かれるかも、まだ分からないと思います」
「もちろん、君たちにも、都合がつくようならお願いすることになるかもしれない。けれど、受付と案内なら、初日でもできる」
篠原は軽く言った。
「今日の進行表を渡せばいい。去年のファイルもあるだろう」
「ありますけど」
「なら大丈夫だ」
森下は何か言いかけて、やめた。
その表情に、篠原は少しだけ引っかかった。だが、すぐに流した。卒業前で疲れているのだろう。卒論、就職準備、引っ越し、いろいろある時期だ。
「毎年どうにかなってる」
篠原はそう言って、照明のスイッチを見上げた。
大講義室の明かりが、順番に落ちていく。スクリーンが白から灰色に変わり、机の上に残った名札ケースだけが、廊下の光を受けて薄く光っていた。
毎年どうにかなってきた。
来年も、そうなるはずだった。




