第92話「仕組みを作る仕事」
会議室。大森常務、岩崎課長、三浦室長、中西。四人。
十月第三週の午後二時。第二会議室は空調が弱く、窓際の席は少し暑い。
テーブルの上にペットボトルのお茶が四本並んでいる。総務の誰かが用意したものだろう。ラベルが全部こちらを向いている。几帳面な人がいる。
大森常務が口を開いた。
「まず現状を整理したい。岩崎課長、受発注管理課の状況を報告してくれ」
岩崎が手元の資料に目を落とす。紙の端が少し折れている。
「十月の価格改定で、中西に応急処置をしてもらったあと全件を点検しました。取引先三社で価格の適用月を誤っていて、差額は合計で四十二万円です。新価格を前倒ししたものと、旧価格のまま残っていたものが混在しています。先方には説明して、今月分の請求で調整する段取りがついています」
岩崎の声は低い。蛍光灯の下で額に薄く汗がにじんでいる。課長になって十年、こういう報告をする日が来るとは思っていなかったのだろう。
「在庫のアラートについては、当日の四十二件は解消しました。ただ、ほかの商品群でも発注点の数値が夏のまま据え置きになっていることが分かりました。設定を全面的に点検しながら、現場でも目視確認しています」
「目視というのは、倉庫に行って棚を見ているということか」
「はい」
大森常務がペンを置いた。ボールペンがテーブルの上で半回転して止まる。空調の音だけが残った。
「三浦室長、営業推進室はどうだ」
三浦は腕を組んだまま答えた。
「中西が来て三ヶ月目です。営業データの統合はほぼ終わりました。月次の集計作業が三日から半日に縮まっています。顧客管理も一元化の目処がついた。正直に言って、うちは中西が来る前と来た後で別の部署です」
「半日か」
「はい。それまでは三日かけてExcelを十二個開いて、手で突き合わせていました」
大森常務が中西のほうを見た。
「中西くん。受発注管理で起きていることを、君の言葉で説明してくれないか」
中西はペットボトルのキャップを回した。きゅ、と小さい音がする。一口飲む。お茶は冷たかった。総務が会議開始の直前に運んできたのだろう。
「仕組みは動いています。マニュアル通りにやれば、日常の業務は回る。小林もそのとおりにやってくれている。問題は、仕組みの外側です」
「外側というのは」
「パラメータの更新です。価格マスタ、在庫の発注点、アラートの閾値。これは取引先の契約条件や季節によって変わります。マニュアルには『季節調整あり』とは書いてありますが、どの商品群をいつ、いくつ変えるかは書いていません」
「なぜ書かなかった」
「状況によって変わるからです。仕入先の改定幅、取引先との契約の適用タイミング、前年の出荷実績。毎回、条件が違う。判断基準をマニュアルにすると百ページでも足りない。だから自分がその都度やっていました」
岩崎が目を伏せた。大森常務の指が、テーブルの上で一度だけ動いた。
*
「つまり」と大森常務が言った。「仕組みがあるから回っていたんじゃなくて、中西くんが仕組みを直し続けていたから回っていた。そういうことだな」
中西は頷いた。四人の視線が集まっている。いつもなら居心地が悪い。だが今は違う。この話を聞いてくれる人間が目の前にいる。
「仕組みを作るだけでは終わらないんです。環境は変わる。法改正もある。取引先が増える。商品が入れ替わる。仕組みも一緒に変わらなければ、いつか止まる。受発注管理課の八年間、自分がやっていたのは半分以上がその調整でした」
大森常務が椅子の背にもたれた。革がきしむ音がする。
「私は数字で判断した。一人当たりの処理件数、残業時間、人員あたりのコスト。受発注管理課の数字は全社でいちばん効率がいい。だから人を動かせると考えた」
「効率がいいのは仕組みがあるからです。仕組みがあるのは、作った人間がいるからです」
「そうだな」
大森常務が少し間を置いた。指先でペンを転がしている。
「そこを見落としていた」
大森常務はペンを取り上げた。手帳に何かを書きつける。ボールペンの先がカリカリと紙を引っ掻く音がする。中西の位置からは字が読めない。
「中西くん、提案がある」
ペンを手帳に挟んで、顔を上げた。
「業務改善推進担当。仮称だが、受発注管理と営業推進、両方の仕組みを横断的に見てもらえないか。兼務ではない。まずは管理本部付の専任担当として発令する。正式な部署にするかは、次の組織改編で決める」
「それと、処遇も見直す。中西くんの等級を一つ上げて、主査として発令する。責任だけ増やす話にはしない」
中西は黙った。
空調の音。ペットボトルの結露がテーブルに小さな輪を作っている。専任。兼務ではなく、専任。その言葉が頭の中で何度か回った。
「横断的に、というのは」
「受発注管理の仕組みの保守と改善。営業推進室の仕組みの構築。将来的には他部署にも広げたい。中西くんがやってきたことを、会社の機能として位置づける」
三浦が口を開いた。
「いいんじゃないか。うちの仕組みもまだ作りかけだ。ちゃんと見てもらえるなら、そのほうが助かる」
岩崎が中西を見た。四十八歳の課長の目が、少し赤い。
「すまなかったな、中西。俺がもっとちゃんと説明できていれば、こんなことにならなかった」
「課長のせいじゃないです」
中西は首を振った。岩崎の目をまっすぐ見る。
「自分も仕組みを作って満足していました。仕組みの動かし方は教えたけど、直し方は教えなかった。パラメータの判断基準も、頭の中と設計メモの中に閉じ込めたままだった。それは自分の落ち度です」
八年間、誰にも説明しなかった。「仕組みがあるんで」と言えば済んだから。聞かれなかったから。だが聞かれなかったのは、説明しなかったからだ。
岩崎が口を開きかけて、閉じた。何か言おうとして、やめたのだろう。代わりに一度だけ頷いた。
*
会議は四十分で終わった。
大森常務が先に退室し、三浦が「じゃあ俺は営業推進に戻る。中西、あとで来てくれ」と言って出ていった。
会議室に中西と岩崎が残った。
「課長」
「ん」
「小林に、パラメータの判断基準を教えます。全部は無理ですけど、考え方だけでも。マニュアルとは別に、判断の記録を残すようにします」
岩崎はペットボトルを持ち上げて、中身を見た。半分残っている。
「頼む。——あと、小林にも直接言ってやってくれ。あいつ、自分がダメだったみたいに思ってるから」
「分かりました」
岩崎が会議室を出ていった。ドアが閉まる。中西は一人になった。
テーブルの上のペットボトルが四本。大森常務の前にあった一本だけ、キャップが開いていない。飲まなかったのか、忘れたのか。
窓の外を見た。十月の空は高くて薄い。桐嶋商事の駐車場に白いバンが停まっている。倉庫から台車を押して出てくる人影が見える。出荷作業。あの出荷指示書は、中西が作った仕組みから出力されたものだ。受注データを入力すれば、在庫を引き当てて、発注書の雛形を生成して、出荷指示書を出す。ボタンひとつで。
だがボタンを押す前に、価格マスタを更新する人がいる。発注点を季節に合わせて調整する人がいる。マクロの参照先を年度替わりに書き換える人がいる。その人がいなくなったとき、仕組みは三ヶ月も経たずに止まった。
スマホを取り出した。小林にLINEを打つ。
『会議終わった。来週、時間もらえるか。パラメータの更新のやり方、一緒にやろう』
送信。既読はすぐについた。
『ぜひお願いします。正直助かります』
中西はスマホをポケットに戻した。椅子から立ち上がる。会議室の照明を消して、ドアを閉めた。
*
二週間後の月曜日。朝、デスクに届いていた社内便の封筒を開けた。
名刺が百枚。白い紙に黒い文字。インクの匂いが微かにする。
桐嶋商事株式会社
管理本部付 業務改善推進担当
主査
中西 透
部署ではない。だが、兼務でもない。
主査。その二文字を、もう一度見る。責任だけではなく、評価として印字された肩書きだった。
デスクは営業推進室の隅に置かれている。受発注管理課にも自分の引き出しが一つある。どちらにも居場所がある。どちらにも仕組みがある。
名刺を一枚、指で挟んだ。紙の角が指先に触れる。
仕組みを作る。仕組みを直す。仕組みの直し方を、次の人に伝える。
八年間やってきたことに、ようやく名前がついた。
名刺を名刺入れにしまった。デスクの上のExcelを開く。営業推進室の顧客管理マスタ。先週入った新規取引先のデータを追加する。登録が終わったら、受発注管理課に行って小林と在庫の発注点を見直す。午後は三浦室長に月次レポートの改善案を出す。
やることは山ほどある。
いつもと同じだ。




