第91話「どちらの中西さんですか」
電話が鳴り止まない。内線と、スマホと。
営業推進室のデスクで、中西のスマホが三度震えた。画面に「岩崎課長」の文字。出られない。三浦室長と取引先別の売上推移を突き合わせている最中だった。十月の第二週。営業推進室に来て三ヶ月目。
「中西くん、それ出なくていいのか」
三浦室長が顎でスマホを指す。
「あとで折り返します」
そう言いながら、スマホを裏返した。振動が机に伝わるのを掌で押さえる。三浦室長は何も言わなかったが、こちらを見る目の奥に「また受発注管理か」という色があった。
*
昼休み。社員食堂のカレーを五分で流し込んで、廊下の端でスマホを開いた。岩崎課長からの着信四件。小林からのLINEが八件。
小林のメッセージを順に読む。
『価格マスタの件なんですけど、月曜に更新したら、一部の取引先で価格の適用月を間違えちゃったみたいで』
『堺金属さんから電話来て、「先月と単価が違う」って。調べたら、新価格の適用が来月からの取引先に今月から反映しちゃってて』
『逆に、今月から適用のはずの鷹森産業さんが旧価格のまま残ってます』
『マスタのどこを直せばいいか分からなくて』
中西は食堂の椅子に座ったまま、天井を見た。
分かっている。マスタテーブルの「適用開始月」欄だ。取引先ごとに即時反映か翌月反映か据え置きかが違う。その判断テーブルは、Excelの別シートにも設計メモにも残してある。だが、それは中西が自分で読むための判断履歴であって、小林がそのまま使える手順ではなかった。渡しただけで、伝えたつもりになっていた。
折り返す前に、残りのLINEを読んだ。
『あと、在庫アラートが朝から止まらないです。対象商品で「在庫不足」が四十二件出てます。どれが本当の不足かの判別がつかなくて、発注止めてます』
『岩崎課長が「中西に聞け」って言ってるんですけど、中西さん電話出なくて』
『すみません、急ぎです。堺金属さんの差額、どうしたらいいですか』
『マニュアルに書いてないことばっかりで、もう何が正しいか分かりません』
四十二件。在庫アラートが四十二件。
季節調整をしていない。十月は夏のメンテナンス需要が落ち着く端境期で、六月に引き上げた発注点を商品群ごとに見直す必要がある。高い数値のまま据え置けば、まだ余裕のある商品まで不足扱いになる。マニュアルには「季節調整あり」とだけ書いた。どの商品群をいつ、いくつ動かすかは、八年分の発注データを見ながら中西が毎年判断していた。
岩崎課長に電話した。
「すみません、会議中で出られませんでした」
「中西、助かる。小林から聞いてるか? 価格の件と在庫アラートの件と、両方だ」
岩崎課長の声が早い。普段の穏やかな口調が消えている。
「価格マスタは、適用タイミングの判断テーブルが別シートにあります。ファイル名は——」
「それは小林に言ってくれ。俺には分からん」
分からん、という言葉に棘はなかった。事実だ。岩崎課長は管理職で、マスタテーブルを触ったことがない。
「在庫アラートは季節調整が必要で、発注点の——」
「中西。電話で説明されても、こっちは直せないんだ。少し手伝ってくれないか。夕方でいいから」
三浦室長の顔が浮かんだ。今週中に営業推進室の顧客管理データベースの設計を仕上げる約束をしている。
「……今日の夜、残業で対応します」
*
十八時。営業推進室の業務を終えてから、二階の受発注管理課に降りた。
久しぶりのフロア。夏まで八年間座っていたデスクに、小林がいる。画面にはExcelの在庫管理シートが開いていて、アラート欄が赤く染まっていた。画面の半分が赤い。
「中西さん、すみません」
小林が立ち上がった。目の下に隈がある。
「座って。画面見せて」
隣に椅子を引いて座る。キーボードの感触が懐かしい。このデスクのキーボードは左のShiftキーが少し沈む。三年前に総務に交換を頼んだが在庫がなかった。結局そのまま使っていた。
マスタテーブルを開く。適用タイミングの別シートを見せながら、小林に説明した。堺金属は翌月適用。鷹森産業は即時反映。判断の根拠は取引先との契約書にある条項だ。二十分で価格マスタを修正した。
次に在庫アラート。発注点の季節調整パラメータを開いた。四十二件のアラートのうち、本当に在庫が危ないのは七件。残りは季節調整の未実施による誤報だ。一件ずつ見ながら、小林に商品群ごとの調整値を口頭で伝えた。
「配管部品は夏の一・三倍から通常値に戻す。ボルト・ナット類は十一月の需要増に備えて、来月から一・二倍。工具は据え置きでいい。建設資材は——」
「ちょっと待ってください、メモ取ります」
小林がノートを広げた。走り書きのメモが何ページも続いている。中西が異動してからの二ヶ月余り、小林なりに必死に対応してきた痕跡だった。
二十一時を回った。価格マスタの修正と在庫アラートの季節調整が終わった。小林がコーヒーの缶を二つ持ってきた。自販機の微糖。中西がいた頃と同じ銘柄だ。
「中西さん」
小林がプルタブを開けながら言った。
「中西さんが作った仕組みなのに、中西さんがいないと直せないって、それっておかしくないですか」
缶の冷たさが指に伝わる。十月の夜、暖房はまだ入っていない。
「おかしいよ」
中西は認めた。仕組みを作った本人がいなければ仕組みが止まる。それは仕組みとして不完全だ。八年間、自分がいる前提で作ってきた。パラメータの更新も、季節調整も、イレギュラーの判断も、全部自分がやる想定だった。自分がいなくなることを考えていなかった。
「マニュアルには『季節調整あり』って書いてありますよね。あるのは分かるんです。でも、何をどう調整するかが書いてなくて」
「書けなかった。毎年データを見て、そのとき判断してたから」
「それって、仕組みの一部じゃないですか。中西さんが仕組みの一部だったってことですよね」
返す言葉がなかった。小林の言うとおりだ。
*
翌週。堺金属への対応が営業部経由で上に上がった。
堺金属への新価格の前倒し適用で生じた差額は八万四千円。金額としては大きくないが、「システムの信頼性」に関わる問題として営業部長から常務に報告された。
大森常務が岩崎課長を呼んだ。中西は同席していないが、岩崎課長から事後に聞いた。
「常務に聞かれたよ。『受発注管理、どうなってるんだ』って」
岩崎課長は廊下で中西を捕まえて、小声で言った。
「仕組みはできてるはずなんですが……って答えたんだけどな。自分で言ってて、何言ってるんだろうと思ったよ」
仕組みはできてるはず。七月に大森常務が異動を決めたとき、同じ言葉が使われた。「もう仕組みができてるから」。あのとき常務の口から出た言葉を、今度は岩崎課長が使っている。だが意味が裏返っている。仕組みがあるから大丈夫だったはずが、仕組みがあるのに動かない。
「岩崎課長のせいじゃないです」
「いや、俺がもっと中身を把握してれば——」
岩崎課長は言いかけて、口を閉じた。把握していれば、何ができたのか。課長は管理職で、マクロのコードを読むわけではない。マスタテーブルの構造を知るわけでもない。中西がやっていたことの全体像を把握していた人間は、中西しかいなかった。
夕方、営業推進室に戻ると三浦室長が待っていた。
「受発注管理の件、聞いたぞ。大変だな」
「すみません。昨日も残業で向こうの対応してました」
「うちの仕事はどうするんだ。顧客管理データベース、今週中って言ってたろう」
三浦室長の声に怒りはない。だが困惑がある。営業推進室は三名体制で、中西が抜けると設計ができる人間がいない。
「来週の頭までには——」
「中西くん。お前は営業推進室の人間だ。向こうに引っ張られるのは分かるが、うちだって必要なんだよ」
「それで、今のお前はどちらの中西さんなんだ」
昼は営業推進室。昼休みと夜は旧部署。身体が二つないと足りない。
*
金曜日の夕方。デスクで顧客管理データベースの設計書を書いていると、内線が鳴った。
「中西くん、大森です」
常務の声だった。内線で直接かけてくるのは初めてだ。
「堺金属の件は聞いている。在庫アラートの件もだ。それと、営業推進室の進捗も三浦から報告を受けた」
「はい」
「来週、少し時間をくれないか。受発注管理と営業推進、両方の状況を聞きたい」
受話器を置いた。画面のExcelがぼやける。常務が直接連絡してきた。七月に「もう仕組みができてるから」と異動を決めた、あの大森常務が。
窓の外は暗い。十月の日暮れは早い。ビルの駐車場の外灯がオレンジ色に点いていた。




