第90話「営業推進室」
営業推進室。初日。
三浦室長が立ち上がって、手を差し出した。
「来てくれて助かる。うちは正直、めちゃくちゃだ」
握手の力が強い。営業畑の人間の手だ、と中西は思った。受発注管理課では誰とも握手などしなかった。
「今日からよろしくお願いします」
「固い挨拶はいらん。それより、見てくれ」
三浦が自分のパソコンの画面を向けた。
Excelのファイルが七つ開いている。シート名はどれも「売上」「実績」「一覧」といった抽象的なもので、フォルダ名は「年度別」「営業データ新」「まとめ_三浦」。背筋に嫌な馴染みが走る。
「月次の集計に三日かかる。各営業が自分のExcelに数字を打ち込んで、それを俺が手作業で一本にまとめてる。毎月だ」
三浦は椅子の背もたれに体を預けた。
「二年やってるが、限界だ。集計のたびに数字が合わない。営業に確認して、直して、また合わない。その繰り返しだよ」
中西は画面に目を走らせた。
セルの書式がバラバラだった。ある列は半角数字、隣は全角。日付の形式が「7/15」と「七月十五日」と「2026.07.15」の三種類混在している。ヘッダーの位置もファイルごとに違う。二行目から始まるものと四行目から始まるもの。
顧客管理らしいExcelには住所が手入力されていて、同じ会社が微妙に違う表記で三件登録されていた。「嶋倉建設」「(株)嶋倉建設」「嶋倉建設株式会社」。
「ここ、名寄せもされてないですね」
「名寄せ?」
「同じ取引先が別のデータとして登録されてます。これだと集計しても正確な数字が出ない」
三浦が眉を寄せた。
「それ、前から気になってたんだ。でも直し方が分からなくて」
中西はノートを開いた。デスクの上に置いた黒のボールペンのキャップを外す。
八年前を思い出していた。受発注管理課に配属されたとき、目の前にあったのも同じ光景だった。散在するExcel。手作業の集計。合わない数字。あのときは六人がかりで、毎日残業して、手で数字を突き合わせていた。廊下から営業部の電話が聞こえる。声が大きい。受発注管理課のフロアは静かだった。
ペン先がノートに触れる。まず構造を整理する。どのデータが、どこに、どの形式で散らばっているか。それが分かれば、集約の設計が見える。
*
初日は観察に費やした。
営業推進室は三浦室長と女性社員の二名。中西を入れて三名。デスクは事務フロアの隅に寄せられていて、営業部の島から少し離れている。空調の吹き出し口が近く、夏の冷気がうなじに当たった。
コーヒーサーバーは営業部と共用で、昼過ぎには空になる。三浦が紙コップを持って戻ってきて「もうなかった」と言った。
二日目からデータの棚卸しを始めた。
営業八名が持つExcelファイルの構造を一つずつ確認する。ファイルは全部で二十三個あった。そのうち更新されているのは十五個。残り八個は半年以上触られていない死にファイルだ。
列名を統一するだけで丸一日かかった。
三日目。マスタテーブルの設計に入る。
取引先コード、商品分類、担当者。この三つを軸にすれば、全データを一本の台帳に集約できる。受発注管理課で八年やってきたことと同じ構造だった。
初週の金曜日、三浦に設計図を見せた。手書きのノートと、Excelで組んだ試作品。
「これ、全部のデータが一つのシートに入るってこと?」
「入ります。各営業には入力フォームだけ配って、数字はこっちに集まるようにします。集計は自動です」
三浦がノートをめくった。
「月次の集計、どれくらいかかる?」
「仕組みが入れば、ボタン一つです。三十秒」
「三日が三十秒?」
「入力さえ正しければ」
三浦は腕を組んで天井を見上げた。蛍光灯の白い光が眼鏡のレンズに映っている。
「すごいな。初週でここまでできるの」
「仕組みがあれば、あとは入力するだけですから」
言ってから、気づかなかった。
同じ言葉だ。受発注管理課を離れるとき、大森常務が言った「もう仕組みができてるから」と。自分の口から出たのは裏返しの同じ台詞。仕組みがあれば人はいらない。その論理を、自分が使っている。
*
八月に入ってからの日々は、あっという間に過ぎた。
営業推進室のデータ統合は順調に進んでいた。マスタテーブルが動き始め、八月の月次集計は半日で終わった。三浦が「半日でも早い」と笑う。前月比で二日半の短縮。まだ三十秒ではないが、入力の精度が上がれば近づく。
旧部署のことは、気にならなかったと言えば嘘になる。
だが小林からの連絡はなかった。昼休みに社食で岩崎課長と顔を合わせた。
「どうですか、向こうは」
「順調だよ。小林がしっかりやってる。お前のマニュアルのおかげだよ」
岩崎課長はカレーうどんの汁をすすりながら言った。目尻に皺が寄っている。安堵しているように見えた。中西も同じ気持ちだった。仕組みが機能している。マニュアルが正しく使われている。
自分がいなくても回る。それは誇るべきことのはずだ。誇らしさと、どこかに引っかかる小さな棘。棘の正体は分からない。分からないまま、トレーにカレーうどんの器を戻した。
二ヶ月目。九月。
小林からの連絡は依然としてない。営業推進室の仕事に没頭していた。VBAで入力フォームを組み、エラーチェックの自動化を入れた。営業の一人が「前より入力が楽になった」と言ってくれた。三浦が月例の営業会議で「推進室のデータ集計が劇的に速くなった」と報告したらしい。
充実していた。新しい仕組みを一から設計する面白さ。受発注管理課では保守と微調整の日々だったが、ここではゼロからの構築ができる。
ただ、ときどき考える。
向こうはまだ夏だ。八月、九月。受発注管理課にとって比較的穏やかな季節。大きな価格改定もない。在庫の季節調整も必要ない。仕組みが「そのまま」で回る時期だ。
問題が起きるとすれば、十月以降。下半期に入って、仕入先の価格改定が重なる。年末に向けて建設需要が増え、発注点の調整が必要になる。
(まあ、そのとき分からなければ聞いてくるだろう)
同じ社内にいるのだ。席が違うだけで、内線一本でつながる。廊下で会えば声もかけられる。退職した人間に聞くのとは訳が違う。
*
三ヶ月目に入った十月の第一週。
小林からLINEが来た。業務時間外の、午後七時すぎ。
『中西さん、すみません。四半期の価格改定があるんですけど、マスタの更新ってどのファイルでしたっけ』
中西はすぐに返した。共有フォルダのパスを打ち込んで、ファイル名を正確に伝える。受発注マスタ、取引先別シート、そこの「単価」列。簡単な質問だ。久しぶりの連絡がこの程度で済んだことに、少しほっとした。
『ありがとうございます! 助かりました』
スマホをテーブルに置いた。
夕食のパスタを茹でながら、窓の外を見た。十月の空は暗くなるのが早い。鍋の湯が沸く音がキッチンに響いている。
翌日の夜。また小林からLINEが届いた。今度は長い。
『ファイルは見つかったんですけど、どの値をどう変えればいいか分からなくて。取引先ごとに適用タイミングが違うみたいなんですが……マニュアルには書いてなくて』
中西はスマホを見つめた。
適用タイミング。仕入先の価格改定を、どの取引先にいつから反映するか。即時反映の取引先、翌月適用の取引先、据え置き期間がある取引先。それぞれの契約条件を確認して、マスタの値を書き換える。八年間、中西がその都度判断してきたことだ。
マニュアルには書いてない。書けなかった。取引先が百二十社あって、契約条件の組み合わせはその数だけある。「Aパターンならこう、Bパターンならこう」と分類できるほど単純ではない。過去の実績と契約書を突き合わせて、毎回判断していた。
返信を打とうとして、指が止まった。
LINEで説明できる内容ではない。




