第89話「もう仕組みができてるから」
「中西くん、営業推進室に異動してもらえないか」
大森常務の声は穏やかだった。
七月の第二週。第三会議室。長机を挟んで、大森常務が正面に座り、岩崎課長が横にいる。中西は出入り口に近い椅子を選んでしまったことを、今さら後悔していた。逃げ道が近すぎる。
「異動、ですか」
「うん。受発注管理課は効率化が進んでいて、一人あたりの処理件数も全社でトップだ。残業もほぼゼロだろう? もう仕組みができてるから、中西くんの力は営業推進室で活かしてほしい。あちらは人手が足りなくて困っていてね」
大森常務は手元の資料に目を落とした。人員配置表と、部署ごとの業務量の比較グラフ。中西のいる受発注管理課の棒は、他の部署より明らかに短い。処理件数に対して残業時間が少ない。数字だけ見れば、一人抜いても余力があるように見える。
数字は嘘をついていない。嘘をついていないから厄介だ。
「仕組みはありますが、保守が必要です。パラメータの更新とか、季節ごとの調整とか」
声が震えないように気をつけた。大森常務が資料から顔を上げる。
「それはマニュアルに書いてあるんだろう?」
「……書いてあります」
自分で書いた。八年かけて業務を整理して、マニュアルを整備して、誰が読んでも作業できるように体裁を整えた。否定する言葉がない。
「マニュアルもあるし、ファイルも整備されているし。中西くんが作ったんだから間違いないだろう。受発注管理課のことはよく分かっているよ。だからこそ、別の場所でも力を発揮できると思うんだ」
岩崎課長がこちらを見た。口を開きかけて、閉じた。テーブルの下で拳を握っているのが見えた。
「大森常務。中西は八年間、この部署の仕組みを作ってきた人間です。もう少し検討の時間をいただけないでしょうか」
「岩崎くんの気持ちは分かるよ。ただ、残業ゼロで人員に余裕があるのは事実だろう? 営業推進室のほうは三浦くんが悲鳴を上げている。データ分析ができる人間が一人もいないんだ」
岩崎課長は黙った。反論の材料がない。残業ゼロ、処理件数トップ、業務はマニュアル化済み。全部、中西が作った結果だ。
中西は空調の音を聞いていた。第三会議室は南向きで、七月の午後は暑い。冷房がフル稼働していて、天井の吹き出し口からぬるい風が落ちてくる。その風が、首筋に触れる。
「異動は八月一日付だ。三週間あるから、引き継ぎは十分できるだろう。よろしく頼むよ」
大森常務は立ち上がった。決まっていたのだ。最初から。この面談は通告であって、相談ではなかった。
*
会議室を出て、廊下を歩いた。岩崎課長が後ろからついてくる。
「すまん、中西。俺がもっと上にちゃんと説明できてれば」
「いえ。課長のせいじゃないです」
岩崎課長は困った顔をしていた。四十八歳、管理職二十年。現場の実務には入らない。受発注管理の仕組みがどう動いているかは、正直なところ把握していない。毎月の報告が上がってくる。数字に問題がない。それだけ確認して承認する。中西がいるから回っている、とは思っていたかもしれない。だが「中西がいなくなったらどうなるか」を考える場面が、これまでなかった。
「引き継ぎ、小林にやらせるか?」
「はい。マニュアルは揃っているので、大きな問題はないと思います」
嘘だ。
大きな問題は起きる可能性がある。マニュアルに書いてあるのは「やり方」だ。いつ何をどう判断するかは書いていない。取引先ごとの価格改定の適用タイミング。季節変動に合わせた発注点の調整。在庫アラートの閾値の見直し。どれも数値化できる作業だが、「いつ、どの数値を、どれだけ変えるか」は状況次第で変わる。マニュアルには「季節調整あり」「適用タイミングは契約書を確認」と書いた。そこから先は、八年間の経験で判断していた。
だが、そう言ったところで異動は覆らない。
*
翌週から引き継ぎを始めた。
七月の第三週に入って、受発注管理課のフロアには朝からコーヒーの匂いが漂っていた。隣の倉庫からフォークリフトの排気が流れてくる。いつもの月曜日。ただし中西にとっては、残り二週間の月曜日だ。
小林拓真、二十七歳。入社五年目。マニュアル通りの作業は正確にこなす男だ。中西が作った手順書を丁寧にファイリングして、付箋を貼って、分からないことはすぐ聞く。
「中西さん、受注処理の流れはこのマニュアルの通りでいいんですよね?」
「うん。基本はそれで回る。分からないことがあったら聞いて」
「了解っす。中西さんのマニュアル、すごく分かりやすいから大丈夫だと思います」
分かりやすいから大丈夫。
その言葉が引っかかった。コーヒーの紙コップを握る指先に力が入る。分かりやすいのはいいことだ。誰が読んでもできるように書いた。だが「分かりやすい」ことと「全部書いてある」ことは違う。
マニュアルに書けるのは手順だ。ボタンを押す順番、入力するセルの位置、出力されるファイルの場所。そこまでは書ける。だが「取引先A社の価格改定は翌月一日適用、B社は即日、C社は三ヶ月据え置き」の判断テーブルは、中西の頭の中にしかない。契約書を読めば分かる。分かるが、百二十社分の契約条件を読み解いて適用ルールを組み立てるのに、中西は八年かかった。
言おうかと思った。マスタテーブルの更新には判断が要ること。季節調整の幅は過去のデータを見ないと決められないこと。在庫アラートの閾値は商品群ごとに変えていること。
「中西さん、在庫アラートの設定って、このファイルのこの数字ですか?」
「そう。商品カテゴリごとに閾値が入ってる」
「なるほど。これ変えることあるんすか?」
「季節で変える。年度末は建設需要が増えるから、配管部品とかは閾値を上げる」
「マニュアルに書いてあります?」
「……『季節調整あり』って書いてある。具体的な数値は、その年の受注データを見て決めるから」
小林はペンを走らせた。隣のデスクでは同僚の佐々木がOutlookのアラート音を鳴らしている。中西は付け足した。
「何かあったら連絡してくれれば。社内だし、すぐ対応できるから」
社内にいる。隣の部署にいる。電話もLINEも内線も使える。退職じゃない。異動だ。何かあれば聞いてくれればいい。そう思った。
*
七月最終の金曜日。
午後五時を過ぎて、受発注管理課のフロアに残っているのは中西だけだった。岩崎課長は外出中。小林たちは定時で帰った。当然だ。この部署は残業がない。中西がそう作った。
デスクの引き出しを開けた。八年間で増えた私物は少ない。マグカップ。予備のボールペン。引き出しの奥に、分厚いリングファイルが入っている。
表紙に「受発注管理 設計メモ」と書いてある。中西が個人的につけていたノートだ。マニュアルとは別物。マニュアルは「何をどうやるか」を書いた。このファイルには「なぜそうしたか」を書いている。
最初のページは八年前。入社一年目の秋。受注処理を手作業でやっていた頃の業務フロー図。赤ペンで「ここを自動化」と書き込んである。次のページには在庫管理の設計メモ。発注点の計算式。季節変動の調整幅。商品群ごとの係数。そのあとに、取引先の価格改定ルールをまとめた一覧表。契約書の備考欄から拾った例外条件。仕入先の担当者の癖。急ぎの注文に応じてくれる会社とそうでない会社のリスト。
全部で百七十ページ。マニュアルの倍以上ある。
このメモのコピーは、引き継ぎ資料にも入れてある。場所も小林に伝えた。だが、それだけで読めるものではないだろう。中西自身のメモだ。略語も走り書きも多い。何より、これは「判断の記録」であって「手順書」ではない。渡しただけでは、判断の仕方までは伝わらない。
段ボール箱にマグカップを入れた。ボールペンも入れた。窓の外から倉庫のシャッターが閉まる音がする。出荷作業が終わったのだろう。五時十五分。
リングファイルを手に取る。重い。八年分の判断が、紙の厚みになっている。
これは持っていく。
段ボールを抱えて、フロアを出た。振り返って電気を消す。受発注管理課のデスクが、非常灯の緑色の光に照らされている。五つの机。五台のモニター。棚に並んだファイル。マニュアルの入ったバインダーが、一番手前に見える。
仕組みはある。マニュアルもある。仕組みを動かすボタンも、出力されるファイルも、全部揃っている。
足りないのは、仕組みを直す人間だけだ。
月曜日から、営業推進室。
エレベーターのボタンを押した。七月の夕方。ビルの外はまだ明るいはずだ。段ボールの中でマグカップがかたん、と鳴った。




