第88話「ボタンひとつ」
月曜の朝。受注画面を開く。
桐嶋商事の受発注管理課。自分のデスクの前に座って、中西透は共有フォルダにあるExcelの受注台帳を開いた。今日の受注は三十二件。FAXが九件、メールが二十三件。六月の第三週にしては多い。梅雨に入ると建設現場の進捗が落ちて、資材の注文は減る傾向がある。だが今年は空梅雨気味で、現場が動いている。
台帳の入力が終わったら、マクロを走らせる。
画面左上の「受注処理」ボタンを押す。在庫照合が走り、在庫で賄えない商品の発注書の雛形が生成される。出荷指示書も三十二件分セットで出る。ここまで四分。八年前は、この工程を全部手作業でやっていた。一件ずつ在庫台帳と突き合わせ、発注書をゼロから書き、出荷指示書を手書きで回す。六人がかりで午前中いっぱいかかっていたことが、いまはボタンひとつで終わる。
ただし、ボタンを押す前にやることがある。
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先週、仕入先の丸越金属から価格改定の通知が届いていた。
七月一日付で、ステンレスボルトの卸値が八パーセント上がる。中西はデスクの脇に積んだリングファイルから、取引先別の価格適用ルールを引っ張り出した。丸越金属の製品を仕入れている販売先は十四社ある。このうち、即時反映が六社、翌月反映が五社、三ヶ月据え置きが三社。契約条件がバラバラだ。
マスタテーブルを開く。
Excelのシート「価格マスタ_丸越」。行数は四百を超える。商品コードと取引先コードの掛け合わせで、適用価格が一つずつ入っている。即時反映の六社分は七月一日から新価格に書き換える。翌月反映の五社は八月一日。据え置きの三社は十月一日。日付を間違えれば見積もりの金額が狂い、取引先からクレームが来る。
書き換えは二十分で終わった。
確認に十分かける。行を一つずつ目で追って、変更後の数字が正しいかどうか見る。コーヒーの湯気がモニターの端でゆれている。空調の音だけが聞こえる静かなフロア。課長の岩崎は朝イチで会議に出ていて、席にいない。同僚の小林拓真が隣で出荷伝票の処理をしている。キーボードを打つ音が規則的に響く。
確認が終わった。次は在庫アラートの閾値調整だ。
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在庫が発注点を下回ると、自動でアラートメールが飛ぶ仕組みを三年前に作った。ExcelからOutlook経由でメールを送るマクロだ。だがこの発注点は固定値ではない。季節で動く。
七月に入ると工場のメンテナンス需要が増える。配管部品とバルブ類の出荷が跳ねる。去年の七月は配管継手だけで通常月の一・四倍出た。発注点を通常のままにしておくと、在庫が切れてからアラートが飛ぶ。遅い。六月のうちに発注点を引き上げておく必要がある。
在庫管理シートを開いて、対象の商品群を絞り込む。配管継手、フランジ、バルブ、ガスケット。四カテゴリ、合計七十三品目。発注点をそれぞれ一・三倍に引き上げる。安全在庫も連動して変える。
この調整を毎年やっている。マニュアルには「季節調整あり」と一行だけ書いた。どの商品群をいつどれだけ変えるかは書いていない。八年分の出荷データが頭に入っているから、数字は感覚で出る。感覚というと曖昧に聞こえるが、過去のデータを見れば根拠はある。ただ、その根拠を文章にすると膨大になる。取引先百二十社、商品数千点、季節変動パターンは一律ではない。
十一時前に調整が終わった。
ペンを置いて、首を回す。肩が凝っている。冷めたコーヒーを一口飲む。苦い。
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昼休み。社食で小林と向かい合った。
小林は唐揚げ定食を頼んでいる。中西は日替わりの焼き魚。六百二十円。桐嶋商事の社食は安くはないが、外に出るよりはましだ。
「中西さんのとこ、いっつも定時じゃないですか。羨ましいっすよ」
営業部の後輩が通りがかりに言った。田中という二年目の若手だ。
「まあ、仕組みがあるんで」
中西は焼き魚をほぐしながら答えた。いつもの返しだ。
「仕組みっすか。ボタン押すだけで全部出てくるって聞きましたけど、マジっすか」
「まあ、そんな感じです」
田中は笑って去っていった。小林が箸を止めて中西を見た。
「中西さん、今朝もマスタの書き換えやってましたよね。あれ結構大変そうでしたけど」
「大変ってほどじゃないよ。慣れてるから」
小林は頷いて、味噌汁をすすった。入社五年目。真面目な男だ。中西のマニュアルに忠実に作業してくれる。ただ、マニュアルの外側にある作業については、あまり質問してこない。質問するためには、その作業の存在に気づく必要がある。気づけないのは小林のせいではない。仕組みが動いているかぎり、裏側は見えない。
社食の窓から、隣接する倉庫の屋根が見える。あそこに積まれている在庫の量を、画面上の数字だけで管理している。八年前は倉庫に走って棚を数えていた。いまはアラートが飛ぶ。飛ぶように作った。作ったのは中西だ。
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午後。月次レポートのマクロに手を入れた。
先月、新規取引先が二社追加された。取引先マスタにこの二社のコードを追加し、月末集計の参照範囲を更新しないと、集計から漏れる。テスト実行。出力を確認。問題ない。十五分の作業。
受発注管理課の仕事は、こういう「十分から三十分の作業」の積み重ねだ。価格マスタの更新、在庫閾値の調整、マクロのメンテナンス、マスタデータの整備。どれも地味で、目立たない。ボタンを押す四分間は見える。その前の二時間は見えない。
八年前、この部署に配属されたとき、六人全員が毎日残業していた。受注伝票を手書きで回し、在庫確認は倉庫まで走って目視でやる。それが当たり前の日常だった。中西は最初の二年でExcelの受注台帳を作り、次の二年で在庫管理の自動化に手をつける。マクロは独学だ。参考書を三冊買って、帰りの電車で読んだ。六年目に月次レポートの自動生成を完成させたとき、部署の残業はほぼゼロになっていた。六人必要だった仕事が五人で回るようになり、退職者の補充は見送られた。
一人あたりの処理件数は入社時の約一・五倍。残業ゼロ。数字だけ見れば、受発注管理課は社内で最も効率のいい部署だ。
効率がいい理由を、誰も聞かない。聞く必要がないのだろう。数字がいいなら、それでいい。なぜいいかは問題にならない。中西はそのことに苛立っているわけではない。諦めている。説明しても伝わらないことを、八年かけて学んだ。
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午後四時五十分。定時まであと十分というところで、岩崎課長が戻ってきた。
会議続きだったのだろう。ネクタイが少し緩んでいる。四十八歳。穏やかな管理職で、実務には口を出さない。出さないのではなく、出せない。仕組みの中身はわからないから。ただし中西を信頼してくれている。「中西がいるから回っている」という認識はあるらしい。言葉にはしないが。
「中西、ちょっといいか」
岩崎が自分のデスクの横に来て、声を落とした。
「近いうちにさ、管理本部の大森常務が、うちの部署の人員配置について話したいって言ってるんだ」
「人員配置、ですか」
「うん。まあ、全社的に見直してるらしいから、うちだけじゃないとは思うけど」
岩崎の語尾が弱い。何か含みがある顔だった。
「何か心当たりあります?」
「いや——まあ、うちは数字がいいからな。一人あたりの処理件数も残業も、全社でトップだろ。それが逆に目立つんだよ。『余裕があるなら人を回せ』って話になりやすい」
中西は受注台帳を閉じた。
モニターの電源を落とす。画面が暗くなって、自分の顔がぼんやり映った。
「仕組みがあるから余裕があるんですけどね」
「わかってるよ。わかってるんだけどな」
岩崎は後頭部を掻いた。言いたいことがあるのに言葉にできない、という顔だ。
中西はデスクの引き出しからマグカップを取り出して、給湯室に向かった。洗い物をしながら、手の甲に残った油性ペンの跡を見た。午前中にリングファイルの見出しを書き直したときについたものだ。ファイルの背表紙には「受発注管理 設計メモ」と書いてある。マニュアルとは別の、自分用の記録だ。八年分の判断の履歴が詰まっている。
蛇口の水が手首にあたる。冷たい。六月の水道水だ。
人員配置の見直し。嫌な予感がする。仕組みが完璧に動いているという事実が、自分を不要に見せている。そのことに、中西はずっと前から気づいていた。気づいていて、何もしない。仕組みを見れば価値はわかるはずだ、と。
見る人はいなかった。




