第87話「これは校閲ではありません」
第87話「これは校閲ではありません」
久住沙良さんから返信が来たのは、月曜の午前九時十八分だった。
本文をお預かりしました。
通常の校閲観点で確認できる箇所と、校閲範囲を超える懸念箇所を分けて戻します。
その二行を読んだ時点で、俺は椅子に座り直した。
通常の校閲観点。
校閲範囲を超える懸念。
分けて戻す、という言い方に、すでに線が引かれている。
添付ファイルは、PDFではなくExcelだった。
シート名が三つある。
表記・事実確認。
物語内ルール。
構成上の懸念。
一つ目のシートには、いつもの校閲らしい指摘が並んでいた。
古書店の営業時間が章によって違う。
雨見坂商店街の定休日が火曜と水曜で揺れている。
青砥が使う万年筆の軸色が、黒から深緑へ変わっている。
再開発説明会の会場名が、市民センターと公民館で混ざっている。
直せる。
俺はその四つに、すぐ修正、とメモした。
直せる指摘があると、人は少し安心する。
問題が表の中に並んでいるだけで、仕事が前に進んでいる気がする。
俺は二つ目のシートを開いた。
一行目。
青い手紙は相手の現在を少しだけ映す道具として始まっているが、六章では祖母の過去の事情まで説明している。本文上、同じ働きに見えるよう整理が必要。
二行目。
手紙は「過去を変えない」と設定されているが、五章で再開発説明会の流れそのものを変えたように読める。手紙で変わったのか、こよりの行動で変わったのか要整理。
三行目。
青砥朔は二章で雨見坂郵便局の資料に詳しい人物。四章では手紙の仕組みそのものを知っているように読める。知識の範囲を統一。
ここまでは、まだ赤字で直せそうに見えた。
でも、三つ目のシートを開いた瞬間、喉の奥が乾いた。
構成上の懸念。
こよりの中心欲求が章ごとに移動しています。
一章では「祖母の店を残したい」。二章では「町を出たい」。四章では「手紙の謎を知りたい」。五章では「青砥を信じたい」。どれを一巻の主軸にするかで、必要な伏線と結末が変わります。
青い手紙の役割が、道具、謎、救済、試練の間で揺れています。
複数の役割を持つこと自体は可能ですが、読者がどの問いを追えばよいかが章ごとに変わっています。
ラストでこよりが「捨てなくてよかった」と言うには、前半で彼女が何を捨ててきた人物なのかを積む必要があります。
現状では台詞だけが短編版から残っており、長編版の結末としては支えが足りません。
俺は画面をスクロールできなかった。
短編で俺が直した一行。
捨てなくてよかった。
あの一行は、短編では効いた。
でも長編では、その前に何百枚分もの支えが必要だった。
*
午後、沙良さんとオンラインで打ち合わせた。
会議室Aのモニターに、沙良さんの顔が映る。
薄いグレーのカーディガンを着て、机の上には印刷したゲラと水色の付箋を並べていた。
こちら側には、俺、間宮編集長、黒須取締役がいる。
黒須はいつもの赤ペンを持っていなかった。手元には沙良さんのExcelを印刷した紙だけがある。
「誤字脱字は少ないです」
最初にそう言われた。
「表記揺れも、致命的なものは多くありません。実在企業名に近いものも、今のところ大きな危険は見当たりません」
黒須取締役が、会議室の別端で少しだけ息を吐いた。
安心したのかもしれない。
沙良さんは続けた。
「ただ、これは校閲ではありません」
画面の中の声は、強くはなかった。
強くないから、逃げ場がない。
「赤字で直すには、先に決めることが多すぎます。こよりが何を失いたくないのか。青い手紙が、今を映すだけなのか、過去まで説明してよいのか。青砥朔がどこまで知る人物なのか。そこが決まらないまま整えると、読みやすいまま空洞になります」
俺はノートに、空洞、と書いた。
その字が少し右へ傾いた。
「危険箇所の一覧はお返しします。表記、時系列、設定の食い違いとして直せる部分もあります」
「長編として組み直す場合は」
間宮編集長が聞いた。
沙良さんは、少しだけ間を置いた。
「別契約でも、私は受けません」
会議室の空気が止まった。
「私の仕事は、本文の中で読者がつまずく場所を見つけることです。壊れた長編を設計から戻す仕事は、編集と構成の仕事です。場合によっては、作者の仕事です」
作者。
その言葉が出た瞬間、俺は霧谷灯という名前を思い出した。
社内管理の企画名義。
外部ライターの補筆契約。
アカネの原案。
俺の赤字。
間宮編集長の監修。
たくさんの手が入っている。
でも、作者の席だけが空いている。
黒須取締役が、資料をめくった。
「では、刊行するには何が必要ですか」
沙良さんは、すぐには答えなかった。
画面の向こうで、水色の付箋を一枚だけ指で押さえる。
「誰がこの物語を最後まで背負うのかを、先に決めることだと思います」
それは校閲者の答えではなかった。
たぶん、読者としての答えだった。
*
刊行判定会議は、翌日の午前に入った。
資料の表紙から、「十月発売予定」の文字が消えている。
代わりに、右上へ小さく「再判定」と入っていた。
俺はその資料を配りながら、一枚ずつ机の角に合わせた。
会議室Aの長机には、間宮編集長、黒須取締役、営業の三枝さん、法務の市岡さんが座っている。
机の中央には、三つのファイルを置いた。
アカネ生成ログ。
補筆契約書。
久住沙良さんの指摘リスト。
その横に、営業部が作った仮の販促計画も置いた。
発売月の棚取り。
電子ストアのバナー。
試し読み公開日。
公式SNSの告知文。
どれも、原稿が完成している前提で組まれている。
三枝さんは、販促計画の紙だけを少し離して置いた。
まだ使える部分と、もう使えない部分を分けるような手つきだった。
「まず、AI利用自体を禁止する話ではありません」
間宮編集長が言った。
「短編と販促用掌編では、実績があります。中編も、条件付きで刊行できました。問題は、長編一冊分を作る際に、誰が著者性と構成責任を持つかを曖昧にしたことです」
黒須取締役は、指摘リストを見ていた。
赤丸はない。
今日はペンも持っていない。
「費用は、当初見込みより上がっています」
俺は資料を読み上げた。
「宮田編集工数、七十四時間。間宮確認、二十六時間。外部補筆相談、未契約分を除き七万二千円。校閲前相談費、見積もり内。ここから長編として再構成する場合、別途プロット再設計と本文改稿が必要です」
三枝さんが営業資料をめくった。
「書店向けの案内は、まだ止められます。ただ、十一月以降の棚提案には影響します」
「電子ストアのバナー枠は?」
黒須が聞いた。
「別作品へ回せます。ただ、差し替え期限は今週末です」
三枝さんはそこで、仮POPの束を指で押さえた。
「正直、惜しいです。短編と中編の反応をつなげれば、棚は作れました。今止めると、営業側の提案は一つ消えます」
黒須取締役も、すぐには返事をしなかった。
数字を見る人の沈黙だった。
「損失は出ますね」
「出ます」
三枝さんは短く答えた。
今週末。
数字が出ると、会議は急に現実へ戻る。
こよりの気持ちや青い手紙の役割ではなく、棚とバナーと告知文の話になる。
でも、それも本を出す仕事だった。
法務の市岡さんが、補筆契約書を開いた。
「霧谷灯名義についても整理が必要です。編集部管理名義として出すこと自体は可能です。ただし、長編で外部補筆が大きくなるなら、補筆者の権利処理、表示、責任範囲を再確認してください」
「表示しない契約なら問題ないのでは」
黒須が言うと、市岡さんは首を横に振った。
「表示しないことと、責任が消えることは別です」
その一言で、資料の上にあった霧谷灯という名前が急に薄くなった。
表示はできる。
でも責任は、文字の上には自然に宿らない。
*
会議は一時間二十分続いた。
結論は、刊行延期。
長編企画としては一度止め、短編連作企画に戻す。
黒須取締役は、その結論にすぐうなずかなかった。
売上見込みの欄を見たまま、資料の角を指で押さえていた。
営業は、書店向けの案内を差し替える。
電子ストアのバナー枠は別作品へ回す。公式SNSには、霧谷灯の長編告知を出さない。
地味な作業ばかりだった。
けれど、出してから謝るよりは、ずっと小さい傷で済む。
アカネ・ドラフトの利用は継続。
ただし通常運用で扱う用途は、短編原案、販促文案、会話案、プロット案までに限定する。
長編本文へ使う場合は通常運用から外し、別企画として再審査する。
その際は、人間の責任者だけでなく、作品内容の最終判断者を先に決める。著者表示、補筆範囲、編集責任、校閲依頼範囲、そして主人公の目的や設定の最終判断を誰が持つかを企画書の段階で書く。
黒須取締役は、最後まで大きな声を出さなかった。
会議の終わりに、市岡さんから黒いボールペンを借り、資料の一行へ横線を引いた。
AIで本文制作を代替。
その下に、新しく書く。
AI原案を使用する場合の責任者、作品内容の最終判断者、工程を明確化。
文字だけ見れば、地味な修正だった。
でも俺は、その横線を忘れないと思った。
横線の下で消えたのは、AIではない。
誰かが持つはずだった責任を、工程名で包むやり方だった。
*
その二日後、黒須取締役は臨時の取締役会に呼ばれた。
俺が同席したわけではない。
けれど、午後になって戻ってきた黒須取締役の顔を見れば、何もなかったとは思えなかった。
制作管理部の島村部長が、給湯室の前で小さく言った。
「役員報酬、三ヶ月一割返上だそうです」
「返上、ですか」
「名目は自主返上です。でもまあ、実質は減俸でしょうね」
声は低かった。
それでも編集部の空気は、少しだけ変わった。
短編フェアの成功で作った数字。
中編の電子売上。
長編発売に向けて押さえた棚とバナー。
その全部を根拠にして進めた企画が、発売前に止まった。
紙代だけの損ではない。
営業の提案枠も、外部補筆の相談費も、俺たちの赤字時間も、全部どこかの表へ戻ってくる。
取締役会では、社長からかなり詰められたらしい。
校閲を削らなかったのは評価する。
だが、本文制作の責任者を置かずに、刊行点数の穴埋めとして進めたのは誰の判断か。
AI活用の検証と言いながら、検証前に発売枠を押さえたのはなぜか。
短編の成功を、長編一冊の保証として扱った根拠は何か。
島村部長は、そこまで言って口を閉じた。
俺は自分の机に戻りながら、少しだけ息を吐いた。
ざまあみろ、とは思わなかった。
でも、何も起きずに終わらなかったことには、少しだけ救われた。
黒須取締役は夕方、俺の席の横で足を止めた。
「宮田くん」
「はい」
「今回の件は、私の判断が急ぎすぎた。そこは認める」
言葉は反省に聞こえた。
少なくとも、書類に残せる反省だった。
「ただ、方向性まで間違っていたとは思っていない。最初から責任者と判断範囲を決めれば、AIを使った制作はまだ伸ばせる。出版点数の問題は、これで消えたわけではないからね」
黒須取締役は、そこで少しだけ目を細めた。
「次は、失敗しない形で進める」
それは反省の続きにも聞こえた。
でも、俺には別の言葉にも聞こえた。
次は、巻き返す。
黒須取締役が去ったあと、机の上に残った赤字ゲラが、少しだけ重く見えた。
*
席に戻ってから、俺は沙良さんへ返信を書いた。
件名は、御礼とご報告。
長編企画は刊行延期になりました。
短編連作として再設計し、校閲依頼の際は範囲を整理して改めてご相談します。
そこまで打って、手が止まった。
もう一文、足す。
今回のご指摘で、原稿を直す前に決めるべきことが残っていたと分かりました。
送信する前に、俺はその文を読み返した。
少しきれいすぎる。
消した。
代わりに打つ。
赤字を入れれば済む原稿ではありませんでした。
今度は、残した。
送信ボタンを押すと、画面右下に小さな通知が出た。
送信しました。
前と同じ表示なのに、指先の重さが違った。
*
翌週の月曜、俺は『月曜日の魔法郵便』の短編連作用プロットを開いた。
こよりは、祖母の店をすぐには守れない。
青砥は、手紙の秘密を知らない。
青い手紙は、過去を変えない。
決めたことを、上から三行に置く。
その下に、第一話の目的を書く。
こよりが、誰かの後悔を届ける。
でも、自分の後悔はまだ見ない。
短編なら、これでいい。
短編連作なら、一話ずつ積める。
読者に渡す約束も、一話分ずつなら見える。
どこで迷わせ、どこで封筒を開け、どこで月曜の朝へ戻すのか。画面の文章案を読む前に、俺のノートへ先に書ける。
長編にするなら、いつかこより自身の後悔へ向き合う必要がある。
それを誰が書くのかも、先に決めなければならない。
アカネ・ドラフトの入力欄が、画面の右側で待っていた。
俺はすぐには文章生成を押さなかった。
先に、プロット欄へ一行足す。
この話は、こよりが捨てなかったものの話。
それを書いてから、ようやく実行ボタンを押した。
画面に本文案が流れ始める。
読みやすい文章だった。
俺は赤ペンを持った。
けれど、その赤が何のための赤なのか、もう以前のようには決められなかった。
誤字を拾う赤ではない。
表記をそろえる赤でもない。
主人公が何を捨てなかったのかを決める赤は、校閲の赤ではなかった。
編集者の仕事だ、と言えばたぶん間違いではない。
でも、こよりの目的を書き、青い手紙の働きを決め、ラストの一行を選ぶ時、俺はどこまで編集者で、どこから作者に近づいていたのだろう。
ここまで来て、俺はようやく自分に問い直した。
これは、AIで大体できていると言えるのだろうか。
画面に出てくる文章は、確かに読める。
短い会話も、町の説明も、青い封筒が届く朝も、形にはなる。
でも、その形を短編にしたのは俺の赤字で、中編にしたのは藤野さんの補筆で、長編を止めたのは沙良さんの線引きと、間宮編集長の判断だった。
誰でもできるところだけが、画面にはきれいに残る。
誰でもできていなかったところは、工数表の端や、申請しにくい残業や、誰の名前で引くか分からない赤線の中へ沈む。
それをまとめて、本文は作れる、と呼んでいた。
アカネ・ドラフトの画面には、本文案がまだ流れている。
霧谷灯という名前は、どこにも疲れた顔を見せない。
俺は赤ペンのキャップを外した。
最初の一字を書く前に、しばらく手を止めた。
この赤は、誰の名前で引く線なのか。




