第86話「直すほど、遠くなる」
赤い付箋が、足りなくなった。
補修会議が週次になってから三週目の火曜。
十五時、会議室B。長机の上には、長編ゲラ、章立て表、手紙ルール表、人物相関図が並んでいる。
付箋の色は三つに分けていた。
赤は矛盾。
青は保留。
緑は修正方針。
一週目、赤は十二枚だった。
二週目、十九枚になった。
三週目には、赤い束だけが先になくなり、総務から新しいものをもらった。
総務の人は、普通の顔で付箋を渡してくれた。
まさか小説の中の約束が足りなくなっているとは思わないだろう。
俺は新しい赤い付箋を一枚はがし、四章の上に貼った。
青砥の知識範囲。
もう何度目か分からない言葉だった。
*
青砥朔は、また便利になっていた。
二章では、隣の古書店の店員だった。
三章では、父が元郵便局員だったことになる。四章では、青い手紙と似た封筒を子どもの頃に見たと話す。五章では、再開発会社が持っている古い地図の読み方まで知っている。
全部、場面の中では便利だ。
こよりが困る。
青砥が知っている。
話が進む。
読みやすい。
でも、青砥が何者なのかが少しずつ変わっていく。
「青砥を元局員の息子にするなら、二章から伏せておけません」
俺はゲラを机に置いた。
「読者は後出しに見ます」
間宮編集長は赤い付箋を見た。
「元局員の息子をやめると、四章の封筒記憶が消えます」
「封筒記憶を消すと、こよりが手紙の古さに気づく理由が弱くなります」
「別の理由を置く」
「置くなら二章です」
「二章を変えると、一章ラストの引きが変わります」
言葉が、同じ場所を回っている。
どこか一つを直すと、遠くの章が崩れる。
青砥の台詞を一つ削るだけで、こよりの行動理由が抜ける。こよりの行動理由を足すと、祖母の遺品の意味が変わる。祖母の遺品を変えると、青い手紙がどこまで何を教えてよいのかまで変わる。
原稿が、一枚の紙ではなく網になっていた。
どこかを引くと、遠いところで別の結び目が締まる。
俺は、こよりの目的、と書いた付箋を見た。
店を残したい。
町を出たい。
手紙の謎を知りたい。
どれも間違っていない。
だからこそ、赤字で一つを消せなかった。
「一章の店を残したい、を主軸にしますか」
俺が言うと、間宮編集長は首を傾けた。
「そうすると、六章の自分の後悔へ向き合う結末が弱くなります」
「では、自分の後悔を主軸に」
「一章でそこを隠しすぎています。前半の引き戸、朱肉、祖母の店が全部遠回りになる」
「店と後悔をつなげる」
「つなげるなら、祖母との最後の会話が必要です」
俺はメモを取った。
祖母との最後の会話。
それは、赤字ではない。
新しい場面だ。
俺は校正記号ではなく、本文の一行目を考え始めていた。
祖母は、こよりに何を言わなかったのか。
その問いが出た時点で、俺はもう原稿を直しているだけではなかった。
*
手紙のルールは、さらに厄介だった。
ルール表には、五行並んでいる。
一、青い手紙は月曜の朝だけ届く。
二、手紙は過去を変えない。
三、手紙は、受け取る相手の現在を少しだけ映す。
四、届けるかどうかはこよりが選ぶ。
五、最後の手紙も、上記の範囲を超えない。
表だけなら、逃げ道はない。
長編用に整えられている。
けれど本文は、その表を守っていなかった。
六章の最後の手紙は、雨見坂郵便局が閉じる前に出された、配達されなかった一通だった。
響きはいい。
タイトルにも使える。
問題は、その働きだ。
祖母がなぜ店を残したのか、なぜ手紙を出せなかったのか、こよりが何を誤解していたのかまで、ほとんど答えを持っている。
表では「現在を少しだけ映す」。
本文では「過去の真相を説明する」。
同じ青い手紙なのに、役割が変わっている。
俺は手紙ルール表の下に、赤い付箋を貼った。
表のルールと六章本文が不一致。
貼ってから、六章のラストを読んだ。
こよりが最後の手紙を読む。
祖母の言えなかった言葉を知る。
その手紙を届けることで、こよりは自分が祖母の店に縛られていたのではなく、自分で残りたかったのだと気づく。
悪くない。
ただ、そのためには手紙が答えを持ちすぎている。
説明させないとラストが弱い。
説明させると、青い手紙の役割が変わる。
俺は赤い付箋をはがした。
これは矛盾というより、設計の保留だった。
青い付箋に書き直す。
最後の手紙の効能、要再設計。
青が増える。
空欄が増える。
*
修正履歴ファイルは、日に日に重くなった。
kiriyatomoshibi_long_rev03.docx
kiriyatomoshibi_long_rev04_miyata.docx
kiriyatomoshibi_long_rev04_mamiya.docx
kiriyatomoshibi_long_rev05_rulefix.docx
kiriyatomoshibi_long_rev05_rulefix2.docx
数字が増えるたびに、原稿が完成へ近づいている気がする。
でも実際には、戻っている場所も多かった。
修正済み、と書いたコメントが、翌週には再検討へ戻る。
青砥の知識範囲、修正済み。
こよりの主軸、再検討。
手紙の条件、修正済み。
最後の手紙の効能、再検討。
祖母の遺品、修正済み。
六章への接続、再検討。
画面の右側にコメントが積み上がる。
赤字を入れているはずなのに、本文よりコメントの方が物語の中心に近い気がした。
間宮編集長が言った。
「宮田さん」
「はい」
「今、赤字を入れているのではなく、本文を書いています」
俺は反論しようとした。
編集です、と言おうとした。
補修です、と言おうとした。
どちらも口から出なかった。
祖母との最後の会話を足す。
こよりが何を後悔しているかを決める。
青砥の父を元局員にするか消すか判断する。
最後の手紙の効能を決める。
それは赤字ではない。
物語を決める作業だった。
*
黒須取締役は、会議の途中から入ってきた。
資料だけを受け取り、壁際の椅子に座る。
今日は赤ペンではなく、黒いボールペンを持っていた。
「進捗は」
「前半は固まりつつあります」
俺が答えると、間宮編集長がすぐに補足した。
「ただし、後半に影響が出ています」
「発売予定は十月です」
黒須はカレンダーを見た。
「校閲期間は削らない約束です。なら、編集工程で吸収できますか」
吸収。
その言葉は便利だった。
残業も、迷いも、誰の作品か分からなくなる気持ちも、表の中では吸収と書ける。
俺は手元のゲラを見た。
赤字の量は、もう校閲前の原稿には見えなかった。
編集部が書き直している原稿に近い。
「一巻分、お願いします」
最初の会議で黒須が言った言葉を思い出した。
一巻分。
紙の厚みだけなら、もうある。
物語の重さは、まだどこにも置けていなかった。
*
金曜の夜、俺は久住沙良さんへの依頼メールを下書きした。
件名は、校閲依頼のご相談。
添付ファイルは三つ。
本文初稿、人物表、設定資料。
本文初稿のファイル名には、finalに近い文字が入っている。
でも俺は、送信ボタンの前で止まった。
これは、校閲に出していい原稿なのか。
誤字を見てほしい。
表記揺れを見てほしい。
実在名に近い固有名詞がないか見てほしい。
それは事実だ。
けれど本当は、それだけではなかった。
こよりは何を望んでいるのか。
青砥は何者なのか。
最後の手紙は、どこまで答えを持っていいのか。
俺はそれを、誰かに見つけてほしかった。
メール本文には、通常校閲の範囲で確認をお願いします、と書いた。
嘘ではない。
でも全部でもない。
送信ボタンを押すと、画面右下に小さく表示が出た。
送信しました。
白い文字が消えたあとも、俺はしばらくマウスから手を離せなかった。
プリンタが、深夜の編集部で一枚だけ紙を吐き出した。
誰かが出し忘れた資料だった。
白い紙が排出口で止まる。
俺はそれを見ながら、霧谷灯の顔を思い浮かべようとした。
何も浮かばなかった。




