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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第19章『本文は作れるんじゃないですか』

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第86話「直すほど、遠くなる」

 赤い付箋が、足りなくなった。


 補修会議が週次になってから三週目の火曜。

 十五時、会議室B。長机の上には、長編ゲラ、章立て表、手紙ルール表、人物相関図が並んでいる。


 付箋の色は三つに分けていた。


 赤は矛盾。

 青は保留。

 緑は修正方針。


 一週目、赤は十二枚だった。

 二週目、十九枚になった。

 三週目には、赤い束だけが先になくなり、総務から新しいものをもらった。


 総務の人は、普通の顔で付箋を渡してくれた。

 まさか小説の中の約束が足りなくなっているとは思わないだろう。


 俺は新しい赤い付箋を一枚はがし、四章の上に貼った。


 青砥の知識範囲。


 もう何度目か分からない言葉だった。



 青砥朔は、また便利になっていた。


 二章では、隣の古書店の店員だった。

 三章では、父が元郵便局員だったことになる。四章では、青い手紙と似た封筒を子どもの頃に見たと話す。五章では、再開発会社が持っている古い地図の読み方まで知っている。


 全部、場面の中では便利だ。


 こよりが困る。

 青砥が知っている。

 話が進む。


 読みやすい。

 でも、青砥が何者なのかが少しずつ変わっていく。


「青砥を元局員の息子にするなら、二章から伏せておけません」


 俺はゲラを机に置いた。


「読者は後出しに見ます」


 間宮編集長は赤い付箋を見た。


「元局員の息子をやめると、四章の封筒記憶が消えます」


「封筒記憶を消すと、こよりが手紙の古さに気づく理由が弱くなります」


「別の理由を置く」


「置くなら二章です」


「二章を変えると、一章ラストの引きが変わります」


 言葉が、同じ場所を回っている。


 どこか一つを直すと、遠くの章が崩れる。

 青砥の台詞を一つ削るだけで、こよりの行動理由が抜ける。こよりの行動理由を足すと、祖母の遺品の意味が変わる。祖母の遺品を変えると、青い手紙がどこまで何を教えてよいのかまで変わる。


 原稿が、一枚の紙ではなく網になっていた。

 どこかを引くと、遠いところで別の結び目が締まる。


 俺は、こよりの目的、と書いた付箋を見た。


 店を残したい。

 町を出たい。

 手紙の謎を知りたい。


 どれも間違っていない。

 だからこそ、赤字で一つを消せなかった。


「一章の店を残したい、を主軸にしますか」


 俺が言うと、間宮編集長は首を傾けた。


「そうすると、六章の自分の後悔へ向き合う結末が弱くなります」


「では、自分の後悔を主軸に」


「一章でそこを隠しすぎています。前半の引き戸、朱肉、祖母の店が全部遠回りになる」


「店と後悔をつなげる」


「つなげるなら、祖母との最後の会話が必要です」


 俺はメモを取った。


 祖母との最後の会話。


 それは、赤字ではない。

 新しい場面だ。


 俺は校正記号ではなく、本文の一行目を考え始めていた。


 祖母は、こよりに何を言わなかったのか。


 その問いが出た時点で、俺はもう原稿を直しているだけではなかった。



 手紙のルールは、さらに厄介だった。


 ルール表には、五行並んでいる。


 一、青い手紙は月曜の朝だけ届く。

 二、手紙は過去を変えない。

 三、手紙は、受け取る相手の現在を少しだけ映す。

 四、届けるかどうかはこよりが選ぶ。

 五、最後の手紙も、上記の範囲を超えない。


 表だけなら、逃げ道はない。

 長編用に整えられている。


 けれど本文は、その表を守っていなかった。


 六章の最後の手紙は、雨見坂郵便局が閉じる前に出された、配達されなかった一通だった。

 響きはいい。

 タイトルにも使える。


 問題は、その働きだ。


 祖母がなぜ店を残したのか、なぜ手紙を出せなかったのか、こよりが何を誤解していたのかまで、ほとんど答えを持っている。


 表では「現在を少しだけ映す」。

 本文では「過去の真相を説明する」。


 同じ青い手紙なのに、役割が変わっている。


 俺は手紙ルール表の下に、赤い付箋を貼った。


 表のルールと六章本文が不一致。


 貼ってから、六章のラストを読んだ。


 こよりが最後の手紙を読む。

 祖母の言えなかった言葉を知る。

 その手紙を届けることで、こよりは自分が祖母の店に縛られていたのではなく、自分で残りたかったのだと気づく。


 悪くない。


 ただ、そのためには手紙が答えを持ちすぎている。


 説明させないとラストが弱い。

 説明させると、青い手紙の役割が変わる。


 俺は赤い付箋をはがした。

 これは矛盾というより、設計の保留だった。

 青い付箋に書き直す。


 最後の手紙の効能、要再設計。


 青が増える。

 空欄が増える。



 修正履歴ファイルは、日に日に重くなった。


 kiriyatomoshibi_long_rev03.docx

 kiriyatomoshibi_long_rev04_miyata.docx

 kiriyatomoshibi_long_rev04_mamiya.docx

 kiriyatomoshibi_long_rev05_rulefix.docx

 kiriyatomoshibi_long_rev05_rulefix2.docx


 数字が増えるたびに、原稿が完成へ近づいている気がする。

 でも実際には、戻っている場所も多かった。


 修正済み、と書いたコメントが、翌週には再検討へ戻る。


 青砥の知識範囲、修正済み。

 こよりの主軸、再検討。

 手紙の条件、修正済み。

 最後の手紙の効能、再検討。

 祖母の遺品、修正済み。

 六章への接続、再検討。


 画面の右側にコメントが積み上がる。

 赤字を入れているはずなのに、本文よりコメントの方が物語の中心に近い気がした。


 間宮編集長が言った。


「宮田さん」


「はい」


「今、赤字を入れているのではなく、本文を書いています」


 俺は反論しようとした。


 編集です、と言おうとした。

 補修です、と言おうとした。


 どちらも口から出なかった。


 祖母との最後の会話を足す。

 こよりが何を後悔しているかを決める。

 青砥の父を元局員にするか消すか判断する。

 最後の手紙の効能を決める。


 それは赤字ではない。

 物語を決める作業だった。



 黒須取締役は、会議の途中から入ってきた。


 資料だけを受け取り、壁際の椅子に座る。

 今日は赤ペンではなく、黒いボールペンを持っていた。


「進捗は」


「前半は固まりつつあります」


 俺が答えると、間宮編集長がすぐに補足した。


「ただし、後半に影響が出ています」


「発売予定は十月です」


 黒須はカレンダーを見た。


「校閲期間は削らない約束です。なら、編集工程で吸収できますか」


 吸収。


 その言葉は便利だった。

 残業も、迷いも、誰の作品か分からなくなる気持ちも、表の中では吸収と書ける。


 俺は手元のゲラを見た。


 赤字の量は、もう校閲前の原稿には見えなかった。

 編集部が書き直している原稿に近い。


「一巻分、お願いします」


 最初の会議で黒須が言った言葉を思い出した。


 一巻分。


 紙の厚みだけなら、もうある。

 物語の重さは、まだどこにも置けていなかった。



 金曜の夜、俺は久住沙良さんへの依頼メールを下書きした。


 件名は、校閲依頼のご相談。


 添付ファイルは三つ。

 本文初稿、人物表、設定資料。


 本文初稿のファイル名には、finalに近い文字が入っている。

 でも俺は、送信ボタンの前で止まった。


 これは、校閲に出していい原稿なのか。


 誤字を見てほしい。

 表記揺れを見てほしい。

 実在名に近い固有名詞がないか見てほしい。


 それは事実だ。


 けれど本当は、それだけではなかった。


 こよりは何を望んでいるのか。

 青砥は何者なのか。

 最後の手紙は、どこまで答えを持っていいのか。


 俺はそれを、誰かに見つけてほしかった。


 メール本文には、通常校閲の範囲で確認をお願いします、と書いた。


 嘘ではない。

 でも全部でもない。


 送信ボタンを押すと、画面右下に小さく表示が出た。


 送信しました。


 白い文字が消えたあとも、俺はしばらくマウスから手を離せなかった。


 プリンタが、深夜の編集部で一枚だけ紙を吐き出した。

 誰かが出し忘れた資料だった。


 白い紙が排出口で止まる。


 俺はそれを見ながら、霧谷灯の顔を思い浮かべようとした。


 何も浮かばなかった。

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