第85話「一巻分、お願いします」
一巻分の企画書は、見た目だけなら新人賞の応募作より整っていた。
タイトルは『月曜日の魔法郵便 雨見坂郵便局の最後の手紙』。
全六章。各章のあらすじ、主要人物表、舞台設定、手紙のルール、恋愛要素、続刊余地。
アカネ・ドラフトが出した章立て表は、罫線の中にきちんと収まっている。
俺はそれをA3で印刷し、会議室のホワイトボードへ貼った。
横に人物相関図を貼る。
日向こより。
郵便局跡の雑貨店で働く二十六歳。
青砥朔。
隣の古書店の店員。雨見坂の町史に詳しい。
祖母の千代。
すでに亡くなっているが、店と青い手紙の過去に関わる人物。
再開発会社の担当者。
雨見坂郵便局跡を含む一角を買い取ろうとしている。
名前に線が引かれると、関係まで固まったように見える。
だが、本文の中で彼らはまだ何も選んでいない。
手紙ルール表も並べた。
一、青い手紙は月曜の朝だけ届く。
二、手紙は過去を変えない。
三、手紙は、受け取る相手の現在を少しだけ映す。
四、届けるかどうかはこよりが選ぶ。
五、最後の手紙も、上記の範囲を超えない。
中編で俺が赤いコメントを入れた箇所は、長編用の表では一応ふさがれていた。
例外は作らない。
最後の手紙も、上記の範囲を超えない。
慎重に見える。
だから余計に、危なかった。
会議室には、間宮編集長、黒須取締役、営業の三枝さん、法務の市岡さんが座っていた。
長編になると、部屋に入る人数が増える。
原稿が厚くなる前に、関わる人だけが先に増えていく。
*
章立ては、見た目には気持ちよかった。
一章、こよりが祖母の遺品から未配達の青い手紙を見つける。
二章、青砥朔が古書店の地下で雨見坂郵便局の記録を発見する。
三章、手紙は相手の現在を少しだけ映すものだと分かる。
四章、こより自身にも届かなかった手紙があると示される。
五章、郵便局を壊す再開発計画が進む。
六章、最後の手紙が、祖母の過去とこよりの後悔を同時に照らす。
並べると、ちゃんとしている。
冒頭に謎があり、中盤でルールが分かり、後半で再開発という外圧が来る。
ラストでは、こより自身の問題へ戻る。
黒須取締役は、三章から六章までを目で追った。
「一冊の流れとしては、分かりやすいですね」
「表では、そう見えます」
間宮編集長が言った。
黒須は少しだけ眉を動かした。
「含みがありますね」
「表に入っていることと、本文で積まれていることは別です」
間宮編集長は、三章と六章を見比べた。
「三章では、手紙は相手の現在を少しだけ映すだけですね」
「はい」
「六章では、祖母がなぜその手紙を出せなかったのかまで分かる」
俺は手元の設定資料をめくった。
「設定資料には、上記の範囲を超えない、とあります」
「そう書いてあるのに、章立てでは超えています」
会議室が静かになった。
俺はもう一度、手紙ルール表を見た。
最後の手紙も、上記の範囲を超えない。
ホワイトボードの章立て表では、六章の欄に、祖母の過去とこよりの後悔を同時に照らす、とある。
表の言葉は慎重だった。
でも章立ては、別のことをしている。
「ここは直します」
俺は付箋を貼った。
黄色い付箋に、ルール表と章立ての不一致、と書く。
まだ一枚目だった。
*
営業の三枝さんは、章立て表より販売スケジュールを見ていた。
「十月刊行なら、書店向けの初回案内は来月頭です」
三枝さんは、手元のカレンダーに赤い丸をつけた。
「電子ストアのバナー枠は、九月の二週目までに仮素材が必要です。試し読み公開は発売二週間前。公式SNSは短編と中編の反応を使えます」
俺は、まだ初稿前半しかない原稿フォルダを思い浮かべた。
販売スケジュールは、原稿より先に完成している。
書店向け仮POPも出てきた。
月曜日、届かなかった言葉が動き出す。
青い手紙がつなぐ、雨見坂の小さな奇跡。
悪くない。
悪くないから困る。
本文がまだ固まっていないのに、外側の言葉はもう本らしい。
市岡さんが、企画稟議の責任者欄を見ていた。
「著者名義は霧谷灯。編集部管理。担当編集、宮田さん。編集長確認、間宮さん。発行判断は編集部。外部補筆は必要に応じて」
「はい」
「書類上は通せます」
市岡さんは、そこで一度ペンを止めた。
「ただ、長編にするなら確認してください。発行責任者と、作品内容の最終判断者は同じとは限りません」
「作品内容の最終判断者」
「主人公の目的、主要人物の設定、手紙の効能。そういう作品内容の判断権限と責任範囲です」
法務からその言葉が出ると思っていなかった。
市岡さんは責めなかった。
ただ、赤いペンで責任者欄ではなく、備考欄に丸をつけた。
「後で揉めるのは、だいたい最初に曖昧だったところです。権利も、表示も、判断権限も」
判断権限。
その四文字が、法務の赤丸の中でやけに濃く見えた。
*
初稿前半は、気持ちよく読めた。
こよりが朝の店を開ける場面はいい。
古い引き戸のレールに砂が噛んでいて、開けるたびに小さく鳴る。祖母が残した朱肉の缶は、蓋だけが少しへこんでいる。
店の奥には、使われなくなった郵便局時代の棚がある。
棚の一番下に、青い封筒が一通だけ挟まっている。
こよりはそれを見つける。
すぐには開けない。
ここは良かった。
短編の時に作った「迷うこより」が残っている。
青砥朔も悪くない。
隣の古書店で働く青年。古い町史を集めていて、雨見坂郵便局が町の人にとってどんな場所だったかを知っている。
青砥は、答えを知っている人ではない。
ただ、こよりが見落としている資料の棚を指差すくらいの距離にいる。
俺は冒頭三十枚に、赤字をほとんど入れなかった。
コメント欄に書いたのは、三つだけ。
朱肉の缶は後半で再利用できるか。
青い封筒の紙質を短編と合わせる。
青砥の初登場で説明を一行削る。
軽い。
このままいけるかもしれない。
その感触は、短編の時と似ていた。
*
ただ、小さな不安はあった。
こよりが祖母の店を守りたいのか。
町を出たいのか。
青い手紙の謎を知りたいのか。
青砥を信じたいのか。
初稿前半のこよりは、場面ごとに違う方向を向く。
一章では、祖母の店を閉めるかどうかで迷っている。
二章では、雨見坂を出られなかった自分を責めている。
三章の予告部分では、青い手紙の謎を追いたがっている。
どれも嘘ではない。
人間の気持ちは一つではない。
ただ、一冊の前半として読むと、読者がどの問いに乗ればいいのか足場が決まらない。
俺は、こよりの目的、と赤字を書いた。
書いたあと、線を引けなかった。
どこへ引けばいいのか分からない。
台詞を一つ変えるだけではない。
章の順番を変えるだけでもない。
こよりが最初に何を失いかけて、何を守るために青い手紙へ手を伸ばすのか。
そこを決めないと、全部の場面が少しずつ違う方向を向く。
俺は椅子から立ち上がり、給湯室へ行った。
流しに置かれたマグカップの底に、コーヒーの輪染みが残っている。
スポンジでこすっても、茶色い線がなかなか消えなかった。
原稿も同じだった。
表面を直すほど、下にある輪が濃く見える。
*
夕方、黒須取締役から進捗確認のメールが来た。
件名は、霧谷灯長編企画・十月刊行可否。
本文は短い。
校閲期間は確保したいので、編集工程での吸収可否を確認したいです。
来週の制作会議で状況を共有してください。
校閲期間は削らない。
前回の校閲事故以降、黒須取締役はそこを守ろうとしている。
だから悪意ではない。
ただ、削らない工程の手前に、別の皺が寄っている。
俺は返信画面を開いた。
前半は順調です。
中盤以降に構成確認が必要です。
そこまで打って、手が止まった。
構成確認。
便利な言葉だ。
こよりの目的が決まらないことも、手紙の条件が揺れていることも、青砥の役割がまだ変わりそうなことも、全部そこに入る。
俺は少し迷い、送信した。
*
その夜、四十枚目を読んだ。
こよりは、祖母の店を守りたいと言う。
次の場面では、雨見坂を出たいと言う。
さらに次の章の冒頭では、青い手紙の正体を知るまでは動けないと言う。
俺は赤ペンを持った。
こよりの目的。
二度目の同じ赤字。
今度は、線を引こうとした。
けれど、やはり止まった。
どの台詞が間違っているのか分からない。
全部、場面の中では合っている。
間違っているのは、台詞ではなく、先に決めていなかった何かだった。
ホワイトボードに貼った章立て表を思い出す。
整った六章。
きれいな矢印。
販売スケジュール。
仮POP。
外側は、もう本の形をしている。
中身だけが、まだ誰の物語なのか決まっていなかった。




