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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第19章『本文は作れるんじゃないですか』

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85/111

第85話「一巻分、お願いします」

 一巻分の企画書は、見た目だけなら新人賞の応募作より整っていた。


 タイトルは『月曜日の魔法郵便 雨見坂郵便局の最後の手紙』。

 全六章。各章のあらすじ、主要人物表、舞台設定、手紙のルール、恋愛要素、続刊余地。


 アカネ・ドラフトが出した章立て表は、罫線の中にきちんと収まっている。

 俺はそれをA3で印刷し、会議室のホワイトボードへ貼った。


 横に人物相関図を貼る。


 日向こより。

 郵便局跡の雑貨店で働く二十六歳。


 青砥朔。

 隣の古書店の店員。雨見坂の町史に詳しい。


 祖母の千代。

 すでに亡くなっているが、店と青い手紙の過去に関わる人物。


 再開発会社の担当者。

 雨見坂郵便局跡を含む一角を買い取ろうとしている。


 名前に線が引かれると、関係まで固まったように見える。

 だが、本文の中で彼らはまだ何も選んでいない。


 手紙ルール表も並べた。


 一、青い手紙は月曜の朝だけ届く。

 二、手紙は過去を変えない。

 三、手紙は、受け取る相手の現在を少しだけ映す。

 四、届けるかどうかはこよりが選ぶ。

 五、最後の手紙も、上記の範囲を超えない。


 中編で俺が赤いコメントを入れた箇所は、長編用の表では一応ふさがれていた。

 例外は作らない。

 最後の手紙も、上記の範囲を超えない。


 慎重に見える。

 だから余計に、危なかった。


 会議室には、間宮編集長、黒須取締役、営業の三枝さん、法務の市岡さんが座っていた。

 長編になると、部屋に入る人数が増える。


 原稿が厚くなる前に、関わる人だけが先に増えていく。



 章立ては、見た目には気持ちよかった。


 一章、こよりが祖母の遺品から未配達の青い手紙を見つける。

 二章、青砥朔が古書店の地下で雨見坂郵便局の記録を発見する。

 三章、手紙は相手の現在を少しだけ映すものだと分かる。

 四章、こより自身にも届かなかった手紙があると示される。

 五章、郵便局を壊す再開発計画が進む。

 六章、最後の手紙が、祖母の過去とこよりの後悔を同時に照らす。


 並べると、ちゃんとしている。


 冒頭に謎があり、中盤でルールが分かり、後半で再開発という外圧が来る。

 ラストでは、こより自身の問題へ戻る。


 黒須取締役は、三章から六章までを目で追った。


「一冊の流れとしては、分かりやすいですね」


「表では、そう見えます」


 間宮編集長が言った。


 黒須は少しだけ眉を動かした。


「含みがありますね」


「表に入っていることと、本文で積まれていることは別です」


 間宮編集長は、三章と六章を見比べた。


「三章では、手紙は相手の現在を少しだけ映すだけですね」


「はい」


「六章では、祖母がなぜその手紙を出せなかったのかまで分かる」


 俺は手元の設定資料をめくった。


「設定資料には、上記の範囲を超えない、とあります」


「そう書いてあるのに、章立てでは超えています」


 会議室が静かになった。


 俺はもう一度、手紙ルール表を見た。

 最後の手紙も、上記の範囲を超えない。


 ホワイトボードの章立て表では、六章の欄に、祖母の過去とこよりの後悔を同時に照らす、とある。


 表の言葉は慎重だった。

 でも章立ては、別のことをしている。


「ここは直します」


 俺は付箋を貼った。


 黄色い付箋に、ルール表と章立ての不一致、と書く。

 まだ一枚目だった。



 営業の三枝さんは、章立て表より販売スケジュールを見ていた。


「十月刊行なら、書店向けの初回案内は来月頭です」


 三枝さんは、手元のカレンダーに赤い丸をつけた。


「電子ストアのバナー枠は、九月の二週目までに仮素材が必要です。試し読み公開は発売二週間前。公式SNSは短編と中編の反応を使えます」


 俺は、まだ初稿前半しかない原稿フォルダを思い浮かべた。


 販売スケジュールは、原稿より先に完成している。


 書店向け仮POPも出てきた。


 月曜日、届かなかった言葉が動き出す。

 青い手紙がつなぐ、雨見坂の小さな奇跡。


 悪くない。

 悪くないから困る。


 本文がまだ固まっていないのに、外側の言葉はもう本らしい。


 市岡さんが、企画稟議の責任者欄を見ていた。


「著者名義は霧谷灯。編集部管理。担当編集、宮田さん。編集長確認、間宮さん。発行判断は編集部。外部補筆は必要に応じて」


「はい」


「書類上は通せます」


 市岡さんは、そこで一度ペンを止めた。


「ただ、長編にするなら確認してください。発行責任者と、作品内容の最終判断者は同じとは限りません」


「作品内容の最終判断者」


「主人公の目的、主要人物の設定、手紙の効能。そういう作品内容の判断権限と責任範囲です」


 法務からその言葉が出ると思っていなかった。


 市岡さんは責めなかった。

 ただ、赤いペンで責任者欄ではなく、備考欄に丸をつけた。


「後で揉めるのは、だいたい最初に曖昧だったところです。権利も、表示も、判断権限も」


 判断権限。


 その四文字が、法務の赤丸の中でやけに濃く見えた。



 初稿前半は、気持ちよく読めた。


 こよりが朝の店を開ける場面はいい。

 古い引き戸のレールに砂が噛んでいて、開けるたびに小さく鳴る。祖母が残した朱肉の缶は、蓋だけが少しへこんでいる。


 店の奥には、使われなくなった郵便局時代の棚がある。

 棚の一番下に、青い封筒が一通だけ挟まっている。


 こよりはそれを見つける。

 すぐには開けない。


 ここは良かった。


 短編の時に作った「迷うこより」が残っている。


 青砥朔も悪くない。

 隣の古書店で働く青年。古い町史を集めていて、雨見坂郵便局が町の人にとってどんな場所だったかを知っている。


 青砥は、答えを知っている人ではない。

 ただ、こよりが見落としている資料の棚を指差すくらいの距離にいる。


 俺は冒頭三十枚に、赤字をほとんど入れなかった。


 コメント欄に書いたのは、三つだけ。


 朱肉の缶は後半で再利用できるか。

 青い封筒の紙質を短編と合わせる。

 青砥の初登場で説明を一行削る。


 軽い。


 このままいけるかもしれない。


 その感触は、短編の時と似ていた。



 ただ、小さな不安はあった。


 こよりが祖母の店を守りたいのか。

 町を出たいのか。

 青い手紙の謎を知りたいのか。

 青砥を信じたいのか。


 初稿前半のこよりは、場面ごとに違う方向を向く。


 一章では、祖母の店を閉めるかどうかで迷っている。

 二章では、雨見坂を出られなかった自分を責めている。

 三章の予告部分では、青い手紙の謎を追いたがっている。


 どれも嘘ではない。

 人間の気持ちは一つではない。


 ただ、一冊の前半として読むと、読者がどの問いに乗ればいいのか足場が決まらない。


 俺は、こよりの目的、と赤字を書いた。


 書いたあと、線を引けなかった。


 どこへ引けばいいのか分からない。


 台詞を一つ変えるだけではない。

 章の順番を変えるだけでもない。


 こよりが最初に何を失いかけて、何を守るために青い手紙へ手を伸ばすのか。

 そこを決めないと、全部の場面が少しずつ違う方向を向く。


 俺は椅子から立ち上がり、給湯室へ行った。


 流しに置かれたマグカップの底に、コーヒーの輪染みが残っている。

 スポンジでこすっても、茶色い線がなかなか消えなかった。


 原稿も同じだった。

 表面を直すほど、下にある輪が濃く見える。



 夕方、黒須取締役から進捗確認のメールが来た。


 件名は、霧谷灯長編企画・十月刊行可否。


 本文は短い。


 校閲期間は確保したいので、編集工程での吸収可否を確認したいです。

 来週の制作会議で状況を共有してください。


 校閲期間は削らない。


 前回の校閲事故以降、黒須取締役はそこを守ろうとしている。

 だから悪意ではない。


 ただ、削らない工程の手前に、別の皺が寄っている。


 俺は返信画面を開いた。


 前半は順調です。

 中盤以降に構成確認が必要です。


 そこまで打って、手が止まった。


 構成確認。


 便利な言葉だ。

 こよりの目的が決まらないことも、手紙の条件が揺れていることも、青砥の役割がまだ変わりそうなことも、全部そこに入る。


 俺は少し迷い、送信した。



 その夜、四十枚目を読んだ。


 こよりは、祖母の店を守りたいと言う。

 次の場面では、雨見坂を出たいと言う。

 さらに次の章の冒頭では、青い手紙の正体を知るまでは動けないと言う。


 俺は赤ペンを持った。


 こよりの目的。


 二度目の同じ赤字。


 今度は、線を引こうとした。

 けれど、やはり止まった。


 どの台詞が間違っているのか分からない。

 全部、場面の中では合っている。


 間違っているのは、台詞ではなく、先に決めていなかった何かだった。


 ホワイトボードに貼った章立て表を思い出す。

 整った六章。

 きれいな矢印。

 販売スケジュール。

 仮POP。


 外側は、もう本の形をしている。


 中身だけが、まだ誰の物語なのか決まっていなかった。

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