第84話「直せば出せます」
オンライン会議の画面に、藤野さんの顔が映った。
背景は白い本棚だった。
棚の下段には、文庫本ではなくファイルボックスが並んでいる。背表紙には手書きで、案件名らしい短い文字が貼られていた。
外部ライターの藤野さんは、何度かリュミエール文庫の販促文を手伝ってくれている。
小説本文の補筆は初めてではないが、今回のような編集部管理名義の企画は初めてだった。
画面共有で、法務のコメント入り契約書を開く。
補筆。
加筆。
構成補助。
三つの言葉が、別々の条項に並んでいる。
「まず確認したいです」
藤野さんは、マグカップを両手で持ったまま言った。
「私は、どこまで触っていい仕事ですか」
間宮編集長が答える。
「今回お願いしたいのは、補筆と一部構成補助です。ただし、独自設定を増やす場合は事前相談。人物の根本設定を変える場合も相談してください」
「どこから根本ですか」
藤野さんは笑った。
柔らかい声だったが、質問は柔らかくなかった。
俺は手元の青砥朔の人物表を見た。
青砥朔。
隣の古書店の店員。
雨見坂郵便局の資料に詳しい。
青い手紙の仕組みを少し知っている。
こよりの相談相手。
この時点で、もう混ざっている。
「たとえば青砥です」
俺は画面共有を人物表に切り替えた。
「一話では雑貨店の常連です。二話では郵便局跡の資料に詳しい人になっています。三話では、青い手紙の扱い方を知っているように見える」
「便利な人ですね」
藤野さんが言った。
「便利すぎます」
間宮編集長がすぐに返した。
俺はうなずいた。
「青砥を隣の古書店の店員に固定したいです。町史や郵便局の古い資料には詳しい。でも、手紙の仕組みは知らない。こよりより少しだけ視野が広い人で、答えを出す人ではない」
藤野さんは、少し画面から目を外した。
メモを取っているらしい。
「それなら、二話の説明をかなり削れます。青砥が教えるのではなく、こよりが古い町史を見つけるきっかけを作るくらいにする」
「はい」
「三話は?」
「手紙の仕組みを知っている台詞は削ります」
「削ると、こよりが次に動く理由が弱くなります」
藤野さんは、淡々と言った。
その通りだった。
便利な人物を削ると、主人公が自分で動く理由を作らなければならない。
俺は赤字の入った三話目を開いた。
こよりが青砥に聞く。
青砥が説明する。
こよりが納得して動く。
流れは楽だった。
楽だから、弱い。
「こよりが自分で町史を読む場面に置き換えます」
俺が言うと、間宮編集長が少しだけ眉を動かした。
「青砥の説明を削っても、町史の場面を足せば、差し引きで重くなります。ほかにどこを圧縮しますか」
それも正しい。
置き換えたつもりでも、必要な情報を主人公の行動として見せるには行数がいる。
俺は画面の右側にあるコメント欄を見た。
圧縮する場所を探す作業は、文章を書くより疲れる。
*
手紙のルール表も作り直した。
一、青い手紙は月曜の朝に届く。
二、手紙は過去を変えない。
三、届けるかどうかはこよりが選ぶ。
四、手紙の中身を先に読むと、届ける相手の現在が少しだけ分かる。
四行目は、藤野さんの提案だった。
「こよりが動く理由を作るなら、中身を読んだ時に少しだけ現在の情報が見えるといいです。ただし、未来予知にはしない」
「過去は変えない」
「はい。今の相手が何を抱えているかが、ぼんやり分かるだけ」
間宮編集長は少し考えた。
「中編ではありです。ただし長編に持ち込むなら、このルールは慎重に扱ってください。便利になります」
便利。
また、その言葉だった。
便利な人物。
便利なルール。
便利な原案。
便利なものは、短い話では助けになる。
長くなると、物語の骨を勝手に曲げる。
俺はルール表の四行目に、赤いコメントを入れた。
中編限定。長編化時は再検討。
この時点で、長編化時という言葉を使っていることに気づき、少し嫌な気持ちになった。
まだ中編を直しているだけのはずだった。
*
補修作業は、三日続いた。
俺が赤字を入れる。
藤野さんが補筆案を返す。
間宮編集長が削る。
その繰り返しだった。
コメント欄には、三人の名前が交互に並んだ。
宮田: こよりが動く理由を追加。
藤野: 青砥の説明を町史発見のきっかけへ変更。
間宮: 説明過多。前半二行削除。
宮田: 手紙ルール表と整合。
藤野: ラストの台詞を短編版に寄せる。
間宮: 寄せすぎ。中編独自の余韻を残す。
画面の中で、原稿は少しずつ良くなっていった。
青砥は、答えを知る人ではなくなった。
こよりは、自分で町史を読むようになった。
手紙は月曜朝に届くものへ戻った。
ただし、こより自身の問題は深追いしなかった。
祖母の店をどうするのか。
町を出たかった過去があるのか。
自分の後悔から目を逸らしているのか。
そこは、匂わせるだけにした。
中編だから。
短編連作として読むなら、そこまで掘らなくても読める。
俺は何度もそう考えた。
考えたというより、そう言い聞かせた。
*
発売日は金曜だった。
電子限定。価格は三百三十円。
紙の初版も、書店営業もない。宣伝は雨庭書房の公式SNSと、リュミエール文庫のメールマガジンだけだった。
タイトルは『月曜日の魔法郵便 迷子の消印』。
著者名は、霧谷灯。
ストアの著者ページに、まだ作品は一つしかない。
それでも名前が載ると、作家のように見えた。
発売日の昼、レビューは三件。
夜には十七件になった。
「短編より少し薄いけど、雰囲気は好き」
「青砥くんが良い」
「連作でまた読みたい」
「通勤中に読むのにちょうどよかった」
悪くない。
ただ、一件だけ引っかかるレビューがあった。
「こより本人の話をもっと読みたい。今回は手紙を届ける人という感じだった」
俺はその文を、報告書に貼らなかった。
貼らなかったことを、自分で覚えている。
報告書には、良い反応を三つ入れた。
読了率、販売数、短編からの導線クリック率。
数字は悪くない。
悪くない数字だけを並べると、企画は前へ進む顔をする。
*
費用表は、昼過ぎに黒須取締役へ提出した。
アカネ出力確認、五時間。
宮田赤入れ、二十一時間。
藤野補筆、六万四千円。
間宮確認、八時間。
校閲確認、通常より短縮なし。
合計を見れば、通常の完全新作より少し安い。
少なくとも、表の上ではそう見えた。
問題は、俺の作業時間メモだった。
メモには、二十八時間と書いてある。
でも費用表と勤怠申請画面に入れた残業は、二十一時間だった。
残りの七時間は、昼休みの確認や、帰宅後にタブレットで読んだ分や、朝の電車で赤字を考えた分だった。
申請しにくい時間。
費用表にも乗りにくい時間。
それも、本当は工数だった。
俺は申請画面の前で少し迷い、結局そのまま保存した。
保存しました。
小さな表示が出る。
その七時間が消えた。
*
午後の会議で、黒須取締役は費用表を見て言った。
「直せば出せる、ということですね」
間宮編集長が、紙から目を上げた。
「今回は、直せた、です」
黒須は一拍置いた。
「違いは分かります。ただ、検証としては前進です」
俺は黙っていた。
前進。
その言葉は、確かに合っている。
短編は読まれた。中編は出せた。数字も悪くない。
でも、前進した分だけ、足元に置き忘れたものがある気がした。
間宮編集長は、費用表の下にある備考欄を指した。
「宮田さんの実作業は、表より多いです。藤野さんの補筆も、契約上は補筆ですが、実態としては一部構成補助に近い」
「そこは次回の契約で調整しましょう」
黒須は答えた。
「では、一巻分で検証しましょう」
俺の手元で、赤ペンが転がった。
床に落ちる前に拾った指先に、インクの匂いがついた。
*
会議後、長編企画書が回覧されてきた。
表紙には、霧谷灯・第一長編企画案、とある。
担当編集、宮田涼。
編集長確認、間宮千尋。
発行判断、リュミエール文庫編集部。
外部補筆、必要に応じて依頼。
著者名義、霧谷灯。
欄は埋まっている。
書類としては、むしろ整っていた。
担当も、確認者も、発行判断の部署もある。法務に出せば、空欄で戻されるような資料ではない。
けれど、その欄のどこにも、こよりが最後に何を選ぶのかを決める人の名前はなかった。
俺は並んだ名前を見た。
霧谷灯。
宮田涼。
間宮千尋。
藤野さん。
アカネ・ドラフト。
書類上の責任は埋まっている。
物語の判断だけが、紙の上で薄くなっていた。




