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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第19章『本文は作れるんじゃないですか』

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第84話「直せば出せます」

 オンライン会議の画面に、藤野さんの顔が映った。


 背景は白い本棚だった。

 棚の下段には、文庫本ではなくファイルボックスが並んでいる。背表紙には手書きで、案件名らしい短い文字が貼られていた。


 外部ライターの藤野さんは、何度かリュミエール文庫の販促文を手伝ってくれている。

 小説本文の補筆は初めてではないが、今回のような編集部管理名義の企画は初めてだった。


 画面共有で、法務のコメント入り契約書を開く。


 補筆。

 加筆。

 構成補助。


 三つの言葉が、別々の条項に並んでいる。


「まず確認したいです」


 藤野さんは、マグカップを両手で持ったまま言った。


「私は、どこまで触っていい仕事ですか」


 間宮編集長が答える。


「今回お願いしたいのは、補筆と一部構成補助です。ただし、独自設定を増やす場合は事前相談。人物の根本設定を変える場合も相談してください」


「どこから根本ですか」


 藤野さんは笑った。

 柔らかい声だったが、質問は柔らかくなかった。


 俺は手元の青砥朔の人物表を見た。


 青砥朔。

 隣の古書店の店員。

 雨見坂郵便局の資料に詳しい。

 青い手紙の仕組みを少し知っている。

 こよりの相談相手。


 この時点で、もう混ざっている。


「たとえば青砥です」


 俺は画面共有を人物表に切り替えた。


「一話では雑貨店の常連です。二話では郵便局跡の資料に詳しい人になっています。三話では、青い手紙の扱い方を知っているように見える」


「便利な人ですね」


 藤野さんが言った。


「便利すぎます」


 間宮編集長がすぐに返した。


 俺はうなずいた。


「青砥を隣の古書店の店員に固定したいです。町史や郵便局の古い資料には詳しい。でも、手紙の仕組みは知らない。こよりより少しだけ視野が広い人で、答えを出す人ではない」


 藤野さんは、少し画面から目を外した。

 メモを取っているらしい。


「それなら、二話の説明をかなり削れます。青砥が教えるのではなく、こよりが古い町史を見つけるきっかけを作るくらいにする」


「はい」


「三話は?」


「手紙の仕組みを知っている台詞は削ります」


「削ると、こよりが次に動く理由が弱くなります」


 藤野さんは、淡々と言った。


 その通りだった。

 便利な人物を削ると、主人公が自分で動く理由を作らなければならない。


 俺は赤字の入った三話目を開いた。


 こよりが青砥に聞く。

 青砥が説明する。

 こよりが納得して動く。


 流れは楽だった。

 楽だから、弱い。


「こよりが自分で町史を読む場面に置き換えます」


 俺が言うと、間宮編集長が少しだけ眉を動かした。


「青砥の説明を削っても、町史の場面を足せば、差し引きで重くなります。ほかにどこを圧縮しますか」


 それも正しい。


 置き換えたつもりでも、必要な情報を主人公の行動として見せるには行数がいる。

 俺は画面の右側にあるコメント欄を見た。


 圧縮する場所を探す作業は、文章を書くより疲れる。


*


 手紙のルール表も作り直した。


 一、青い手紙は月曜の朝に届く。

 二、手紙は過去を変えない。

 三、届けるかどうかはこよりが選ぶ。

 四、手紙の中身を先に読むと、届ける相手の現在が少しだけ分かる。


 四行目は、藤野さんの提案だった。


「こよりが動く理由を作るなら、中身を読んだ時に少しだけ現在の情報が見えるといいです。ただし、未来予知にはしない」


「過去は変えない」


「はい。今の相手が何を抱えているかが、ぼんやり分かるだけ」


 間宮編集長は少し考えた。


「中編ではありです。ただし長編に持ち込むなら、このルールは慎重に扱ってください。便利になります」


 便利。


 また、その言葉だった。


 便利な人物。

 便利なルール。

 便利な原案。


 便利なものは、短い話では助けになる。

 長くなると、物語の骨を勝手に曲げる。


 俺はルール表の四行目に、赤いコメントを入れた。


 中編限定。長編化時は再検討。


 この時点で、長編化時という言葉を使っていることに気づき、少し嫌な気持ちになった。


 まだ中編を直しているだけのはずだった。


*


 補修作業は、三日続いた。


 俺が赤字を入れる。

 藤野さんが補筆案を返す。

 間宮編集長が削る。


 その繰り返しだった。


 コメント欄には、三人の名前が交互に並んだ。


 宮田: こよりが動く理由を追加。

 藤野: 青砥の説明を町史発見のきっかけへ変更。

 間宮: 説明過多。前半二行削除。

 宮田: 手紙ルール表と整合。

 藤野: ラストの台詞を短編版に寄せる。

 間宮: 寄せすぎ。中編独自の余韻を残す。


 画面の中で、原稿は少しずつ良くなっていった。


 青砥は、答えを知る人ではなくなった。

 こよりは、自分で町史を読むようになった。

 手紙は月曜朝に届くものへ戻った。


 ただし、こより自身の問題は深追いしなかった。


 祖母の店をどうするのか。

 町を出たかった過去があるのか。

 自分の後悔から目を逸らしているのか。


 そこは、匂わせるだけにした。


 中編だから。

 短編連作として読むなら、そこまで掘らなくても読める。


 俺は何度もそう考えた。

 考えたというより、そう言い聞かせた。


*


 発売日は金曜だった。


 電子限定。価格は三百三十円。

 紙の初版も、書店営業もない。宣伝は雨庭書房の公式SNSと、リュミエール文庫のメールマガジンだけだった。


 タイトルは『月曜日の魔法郵便 迷子の消印』。

 著者名は、霧谷灯。


 ストアの著者ページに、まだ作品は一つしかない。

 それでも名前が載ると、作家のように見えた。


 発売日の昼、レビューは三件。

 夜には十七件になった。


「短編より少し薄いけど、雰囲気は好き」


「青砥くんが良い」


「連作でまた読みたい」


「通勤中に読むのにちょうどよかった」


 悪くない。


 ただ、一件だけ引っかかるレビューがあった。


「こより本人の話をもっと読みたい。今回は手紙を届ける人という感じだった」


 俺はその文を、報告書に貼らなかった。


 貼らなかったことを、自分で覚えている。


 報告書には、良い反応を三つ入れた。

 読了率、販売数、短編からの導線クリック率。


 数字は悪くない。

 悪くない数字だけを並べると、企画は前へ進む顔をする。


*


 費用表は、昼過ぎに黒須取締役へ提出した。


 アカネ出力確認、五時間。

 宮田赤入れ、二十一時間。

 藤野補筆、六万四千円。

 間宮確認、八時間。

 校閲確認、通常より短縮なし。


 合計を見れば、通常の完全新作より少し安い。

 少なくとも、表の上ではそう見えた。


 問題は、俺の作業時間メモだった。


 メモには、二十八時間と書いてある。

 でも費用表と勤怠申請画面に入れた残業は、二十一時間だった。


 残りの七時間は、昼休みの確認や、帰宅後にタブレットで読んだ分や、朝の電車で赤字を考えた分だった。


 申請しにくい時間。

 費用表にも乗りにくい時間。


 それも、本当は工数だった。


 俺は申請画面の前で少し迷い、結局そのまま保存した。


 保存しました。


 小さな表示が出る。


 その七時間が消えた。


*


 午後の会議で、黒須取締役は費用表を見て言った。


「直せば出せる、ということですね」


 間宮編集長が、紙から目を上げた。


「今回は、直せた、です」


 黒須は一拍置いた。


「違いは分かります。ただ、検証としては前進です」


 俺は黙っていた。


 前進。


 その言葉は、確かに合っている。

 短編は読まれた。中編は出せた。数字も悪くない。


 でも、前進した分だけ、足元に置き忘れたものがある気がした。


 間宮編集長は、費用表の下にある備考欄を指した。


「宮田さんの実作業は、表より多いです。藤野さんの補筆も、契約上は補筆ですが、実態としては一部構成補助に近い」


「そこは次回の契約で調整しましょう」


 黒須は答えた。


「では、一巻分で検証しましょう」


 俺の手元で、赤ペンが転がった。

 床に落ちる前に拾った指先に、インクの匂いがついた。


*


 会議後、長編企画書が回覧されてきた。


 表紙には、霧谷灯・第一長編企画案、とある。


 担当編集、宮田涼。

 編集長確認、間宮千尋。

 発行判断、リュミエール文庫編集部。

 外部補筆、必要に応じて依頼。

 著者名義、霧谷灯。


 欄は埋まっている。


 書類としては、むしろ整っていた。

 担当も、確認者も、発行判断の部署もある。法務に出せば、空欄で戻されるような資料ではない。


 けれど、その欄のどこにも、こよりが最後に何を選ぶのかを決める人の名前はなかった。


 俺は並んだ名前を見た。


 霧谷灯。

 宮田涼。

 間宮千尋。

 藤野さん。

 アカネ・ドラフト。


 書類上の責任は埋まっている。

 物語の判断だけが、紙の上で薄くなっていた。

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