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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第19章『本文は作れるんじゃないですか』

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83/111

第83話「短編なら、読めました」

 赤字を入れる場所が、最初は少なかった。


 アカネ・ドラフトが出した中編の一話目は、短編の延長としてよくできていた。

 月曜の朝、雑貨店の郵便受けに青い封筒が一通落ちる。宛名は、町を出たまま戻らない元吹奏楽部の先輩。


 こよりは手紙を開けない。

 でも封筒の重さで、中に古い写真が入っていると分かる。


 俺はそこに丸をつけた。

 悪くない。


 古い木のカウンター、雨見坂商店街のシャッター音、紙袋に詰めたレモンケーキ。

 町の部品は、短編の時に俺が足したものをアカネが拾っている。


 写真の裏に書かれた薄い文字もいい。

 高校の音楽室。午後五時。雨なら中止。


 それだけで、十年前に何かがあったことは分かる。

 説明しすぎていない。


 俺は一話目のPDFを最後まで読み、コメント欄に三つだけ書いた。


 先輩の名前は後半まで伏せる。

 音楽室の匂いを一行足す。

 こよりが封筒を開けない理由を、台詞ではなく手の動きで出す。


 三つ。


 短編の時より少ない。


 この時点では、いけると思った。



 問題は二話目からだった。


 二話目の冒頭で、こよりは青い手紙を見た瞬間に言った。


「これは届けなければならない」


 俺はその台詞に赤を引いた。


 届けなければならない、ではない。

 届けるか迷うから、この話は動く。


 赤字の横に、そう書いた。


 一話目では、こよりは封筒を持ったまま店の奥へ引っ込んだ。

 レジ下の空き箱に入れて、昼過ぎまで触らない。夕方になってやっと、古い自転車を引っ張り出す。


 それが、よかった。


 ためらう時間があるから、届ける行為に重さが出る。

 青い手紙は、こよりに命令するものではない。選ばせるものだ。


 なのに二話目では、手紙が届いた瞬間にこよりが動く。

 まるで配達員だった。


 俺は手紙ルール表を開いた。


 一、青い手紙は月曜の朝に届く。

 二、手紙は過去を変えない。

 三、届けるかどうかはこよりが選ぶ。

 四、手紙を開くかどうかもこよりが選ぶ。


 まだ四行しかない。

 四行しかないのに、もう二話目で三行目が揺れている。


 赤ペンのキャップを外したまま、親指が少し乾いた。


 この台詞だけを直せば済むのか。

 それとも、二話目全体の動機を組み直すべきなのか。


 画面の右側には、アカネ・ドラフトの生成履歴が残っている。

 プロンプト欄には、読後感は温かく、こよりは少し不器用だが優しい、と俺が書いた文があった。


 少し不器用だが優しい。


 便利な言葉だ。

 でも、それだけでは一話ごとの判断を支えられない。



 三話目では、手紙の届く時間がずれていた。


 本文には、日曜の夜、雨音にまぎれて郵便受けが鳴った、とある。

 こよりは寝巻きの上にカーディガンを羽織り、店先へ出る。


 場面としては悪くない。

 夜の雨。濡れた石段。郵便受けに貼りついた青い封筒。


 けれど、ルール表の一行目には月曜の朝とある。


 俺は、日曜の夜に届く、を消そうとした。

 消すだけなら簡単だ。


 月曜の朝、雨上がりの郵便受けが鳴った。


 そう直せば、ルールは守れる。


 でも日曜の夜の静けさは消える。

 雨音にまぎれて届く不気味さも消える。


 物語の雰囲気を守るとルールが揺れる。

 ルールを守ると場面の温度が下がる。


 俺は赤字を入れず、青いコメントにした。


 要検討。

 月曜朝ルールを守るか、夜に届く例外を設定するか。


 青いコメントは、赤より嫌だった。

 赤は直す場所だ。青は、まだ決めていない場所だ。


 青が増えると、原稿の中に空欄が増えていく。



 十九時四十二分。

 隣の席の笠井が椅子を引いた。


 夜の編集部は、昼より紙の匂いが濃い。

 コピー機の熱と、誰かが置いていった缶コーヒーの甘い匂いが混ざっている。


「まだやるんですか」


「もう少し」


「アカネ原案、そんなに悪いんですか」


 俺は赤字の入ったゲラを見た。


「悪くはない。悪くないから困る」


 笠井は笑いかけて、俺の顔を見てやめた。


「読めるんですか」


「読める」


 俺は一話目の端を指で叩いた。


「短編なら、読めました。中編も一話ごとなら読める。ただ、続けて読むと、こよりが毎回同じ場所で悩む」


「同じ場所?」


「届けるか迷って、届けて、少し救われる」


「連作なら、そういうものでは」


「そういうものに見える」


 俺は二話目の最後を開いた。


 こよりは青い手紙を届け、相手は泣き、最後に坂の上で月曜の空を見る。

 一話目と似た形だった。


 違う人物。違う後悔。違う手紙。

 でも、こより自身は一歩も進んでいない。


「連作って、主人公が毎回変わらなくても成立するんじゃないですか」


「成立する」


 俺はうなずいた。


「ただ、変わらないなら、変わらない理由がいる。こよりが同じ場所に立ち続けるなら、そこがどんな場所なのか読者に分からないといけない」


「難しいですね」


「難しい。短編だと、そこを読後感で流せる」


 笠井はコンビニ袋からおにぎりを出した。

 海苔の袋が小さく鳴る。


「じゃあ、中編は?」


「中編なら、まだ逃がせる」


 言った瞬間、自分の声が少し軽いことに気づいた。


 逃がせる。


 編集者が使うには、あまりよくない言葉だった。



 俺はこよりの人物メモを作った。


 日向こより、二十六歳。

 祖母の店を継いだが、継ぐと決めたわけではない。

 町を出たいと思っていた時期がある。

 誰かの後悔を放っておけない。

 自分の後悔は見ないふりをする。


 それらしい。


 けれど、どの行を中心に置くかで話が変わる。


 祖母の店を継いだが、継ぐと決めたわけではない。

 これを中心に置けば、物語は店と町の話になる。


 町を出たいと思っていた時期がある。

 これを中心に置けば、物語はこより自身の停滞の話になる。


 誰かの後悔を放っておけない。

 これを中心に置けば、青い手紙を届ける連作になる。


 自分の後悔は見ないふりをする。

 これを中心に置けば、いつか自分の手紙と向き合う長い話になる。


 中編なら、三番目でいい。

 誰かの後悔を放っておけないこよりが、三通の手紙を届ける。


 それで読める。


 たぶん。


 俺は人物メモの三行目に丸をつけた。

 丸をつける指が、少しだけためらった。



 翌日の昼、間宮編集長に相談した。


 会議室ではなく、編集部の奥にある小さな打ち合わせ席だった。

 丸テーブルの上に、中編ゲラと手紙ルール表とこよりの人物メモを並べる。


 間宮編集長は、まず一話目を読んだ。

 次に二話目の赤字を見た。

 最後に人物メモの三行目にある丸を見た。


「中編なら、この丸で出せるかもしれません」


「長編なら?」


「足りません」


 返事が早かった。


「こよりが誰かの後悔を放っておけない、だけでは一冊分は持ちません。なぜ放っておけないのか。自分の何から目を逸らしているのか。そこまで必要になります」


「今回は中編です」


「はい。だから、今回は深追いしすぎない手もあります」


 編集長は赤字の入った二話目を指で押さえた。


「ただし、手紙のルールは絞ってください。中編で例外を増やすと、長編化したときに必ず苦しくなります」


「長編化、しますかね」


 俺が言うと、編集長は顔を上げた。


「成功したら、誰かが言います」


 その誰かが誰なのか、聞かなくても分かった。



 夕方、法務から補筆契約書の雛形が届いた。


 件名は、霧谷灯企画・外部補筆契約案。


 添付ファイルを開くと、赤いコメントがいくつも入っている。


 既存作家の代筆と誤認されないこと。

 外部補筆者に独自設定を作らせる場合は、別紙に範囲を残すこと。

 編集部管理名義であっても、責任者欄を空欄にしないこと。


 文字にすれば当たり前だった。


 ただ、その当たり前を読むほど、霧谷灯という名前だけが先に歩いている感じがした。


 霧谷灯。


 まだ顔のない作家名。

 でも契約書の表紙には、もうその名前が入っている。


 俺は補筆候補の藤野さんへ送る資料を作り始めた。


 中編なら何とかできる。


 さっき間宮編集長に言われたことを、都合よく言い換えている自覚はあった。


 それでも俺は、資料の一枚目にこう書いた。


 目的。

 短編連作として読める中編に整える。


 長編ではない。

 だから、まだ大丈夫だと思った。

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