第83話「短編なら、読めました」
赤字を入れる場所が、最初は少なかった。
アカネ・ドラフトが出した中編の一話目は、短編の延長としてよくできていた。
月曜の朝、雑貨店の郵便受けに青い封筒が一通落ちる。宛名は、町を出たまま戻らない元吹奏楽部の先輩。
こよりは手紙を開けない。
でも封筒の重さで、中に古い写真が入っていると分かる。
俺はそこに丸をつけた。
悪くない。
古い木のカウンター、雨見坂商店街のシャッター音、紙袋に詰めたレモンケーキ。
町の部品は、短編の時に俺が足したものをアカネが拾っている。
写真の裏に書かれた薄い文字もいい。
高校の音楽室。午後五時。雨なら中止。
それだけで、十年前に何かがあったことは分かる。
説明しすぎていない。
俺は一話目のPDFを最後まで読み、コメント欄に三つだけ書いた。
先輩の名前は後半まで伏せる。
音楽室の匂いを一行足す。
こよりが封筒を開けない理由を、台詞ではなく手の動きで出す。
三つ。
短編の時より少ない。
この時点では、いけると思った。
*
問題は二話目からだった。
二話目の冒頭で、こよりは青い手紙を見た瞬間に言った。
「これは届けなければならない」
俺はその台詞に赤を引いた。
届けなければならない、ではない。
届けるか迷うから、この話は動く。
赤字の横に、そう書いた。
一話目では、こよりは封筒を持ったまま店の奥へ引っ込んだ。
レジ下の空き箱に入れて、昼過ぎまで触らない。夕方になってやっと、古い自転車を引っ張り出す。
それが、よかった。
ためらう時間があるから、届ける行為に重さが出る。
青い手紙は、こよりに命令するものではない。選ばせるものだ。
なのに二話目では、手紙が届いた瞬間にこよりが動く。
まるで配達員だった。
俺は手紙ルール表を開いた。
一、青い手紙は月曜の朝に届く。
二、手紙は過去を変えない。
三、届けるかどうかはこよりが選ぶ。
四、手紙を開くかどうかもこよりが選ぶ。
まだ四行しかない。
四行しかないのに、もう二話目で三行目が揺れている。
赤ペンのキャップを外したまま、親指が少し乾いた。
この台詞だけを直せば済むのか。
それとも、二話目全体の動機を組み直すべきなのか。
画面の右側には、アカネ・ドラフトの生成履歴が残っている。
プロンプト欄には、読後感は温かく、こよりは少し不器用だが優しい、と俺が書いた文があった。
少し不器用だが優しい。
便利な言葉だ。
でも、それだけでは一話ごとの判断を支えられない。
*
三話目では、手紙の届く時間がずれていた。
本文には、日曜の夜、雨音にまぎれて郵便受けが鳴った、とある。
こよりは寝巻きの上にカーディガンを羽織り、店先へ出る。
場面としては悪くない。
夜の雨。濡れた石段。郵便受けに貼りついた青い封筒。
けれど、ルール表の一行目には月曜の朝とある。
俺は、日曜の夜に届く、を消そうとした。
消すだけなら簡単だ。
月曜の朝、雨上がりの郵便受けが鳴った。
そう直せば、ルールは守れる。
でも日曜の夜の静けさは消える。
雨音にまぎれて届く不気味さも消える。
物語の雰囲気を守るとルールが揺れる。
ルールを守ると場面の温度が下がる。
俺は赤字を入れず、青いコメントにした。
要検討。
月曜朝ルールを守るか、夜に届く例外を設定するか。
青いコメントは、赤より嫌だった。
赤は直す場所だ。青は、まだ決めていない場所だ。
青が増えると、原稿の中に空欄が増えていく。
*
十九時四十二分。
隣の席の笠井が椅子を引いた。
夜の編集部は、昼より紙の匂いが濃い。
コピー機の熱と、誰かが置いていった缶コーヒーの甘い匂いが混ざっている。
「まだやるんですか」
「もう少し」
「アカネ原案、そんなに悪いんですか」
俺は赤字の入ったゲラを見た。
「悪くはない。悪くないから困る」
笠井は笑いかけて、俺の顔を見てやめた。
「読めるんですか」
「読める」
俺は一話目の端を指で叩いた。
「短編なら、読めました。中編も一話ごとなら読める。ただ、続けて読むと、こよりが毎回同じ場所で悩む」
「同じ場所?」
「届けるか迷って、届けて、少し救われる」
「連作なら、そういうものでは」
「そういうものに見える」
俺は二話目の最後を開いた。
こよりは青い手紙を届け、相手は泣き、最後に坂の上で月曜の空を見る。
一話目と似た形だった。
違う人物。違う後悔。違う手紙。
でも、こより自身は一歩も進んでいない。
「連作って、主人公が毎回変わらなくても成立するんじゃないですか」
「成立する」
俺はうなずいた。
「ただ、変わらないなら、変わらない理由がいる。こよりが同じ場所に立ち続けるなら、そこがどんな場所なのか読者に分からないといけない」
「難しいですね」
「難しい。短編だと、そこを読後感で流せる」
笠井はコンビニ袋からおにぎりを出した。
海苔の袋が小さく鳴る。
「じゃあ、中編は?」
「中編なら、まだ逃がせる」
言った瞬間、自分の声が少し軽いことに気づいた。
逃がせる。
編集者が使うには、あまりよくない言葉だった。
*
俺はこよりの人物メモを作った。
日向こより、二十六歳。
祖母の店を継いだが、継ぐと決めたわけではない。
町を出たいと思っていた時期がある。
誰かの後悔を放っておけない。
自分の後悔は見ないふりをする。
それらしい。
けれど、どの行を中心に置くかで話が変わる。
祖母の店を継いだが、継ぐと決めたわけではない。
これを中心に置けば、物語は店と町の話になる。
町を出たいと思っていた時期がある。
これを中心に置けば、物語はこより自身の停滞の話になる。
誰かの後悔を放っておけない。
これを中心に置けば、青い手紙を届ける連作になる。
自分の後悔は見ないふりをする。
これを中心に置けば、いつか自分の手紙と向き合う長い話になる。
中編なら、三番目でいい。
誰かの後悔を放っておけないこよりが、三通の手紙を届ける。
それで読める。
たぶん。
俺は人物メモの三行目に丸をつけた。
丸をつける指が、少しだけためらった。
*
翌日の昼、間宮編集長に相談した。
会議室ではなく、編集部の奥にある小さな打ち合わせ席だった。
丸テーブルの上に、中編ゲラと手紙ルール表とこよりの人物メモを並べる。
間宮編集長は、まず一話目を読んだ。
次に二話目の赤字を見た。
最後に人物メモの三行目にある丸を見た。
「中編なら、この丸で出せるかもしれません」
「長編なら?」
「足りません」
返事が早かった。
「こよりが誰かの後悔を放っておけない、だけでは一冊分は持ちません。なぜ放っておけないのか。自分の何から目を逸らしているのか。そこまで必要になります」
「今回は中編です」
「はい。だから、今回は深追いしすぎない手もあります」
編集長は赤字の入った二話目を指で押さえた。
「ただし、手紙のルールは絞ってください。中編で例外を増やすと、長編化したときに必ず苦しくなります」
「長編化、しますかね」
俺が言うと、編集長は顔を上げた。
「成功したら、誰かが言います」
その誰かが誰なのか、聞かなくても分かった。
*
夕方、法務から補筆契約書の雛形が届いた。
件名は、霧谷灯企画・外部補筆契約案。
添付ファイルを開くと、赤いコメントがいくつも入っている。
既存作家の代筆と誤認されないこと。
外部補筆者に独自設定を作らせる場合は、別紙に範囲を残すこと。
編集部管理名義であっても、責任者欄を空欄にしないこと。
文字にすれば当たり前だった。
ただ、その当たり前を読むほど、霧谷灯という名前だけが先に歩いている感じがした。
霧谷灯。
まだ顔のない作家名。
でも契約書の表紙には、もうその名前が入っている。
俺は補筆候補の藤野さんへ送る資料を作り始めた。
中編なら何とかできる。
さっき間宮編集長に言われたことを、都合よく言い換えている自覚はあった。
それでも俺は、資料の一枚目にこう書いた。
目的。
短編連作として読める中編に整える。
長編ではない。
だから、まだ大丈夫だと思った。




