第82話「本文は作れるんじゃないですか」
管理画面の数字は、きれいだった。
無料公開から三日。『月曜日の魔法郵便 雨見坂の青い手紙』の読了率は七十八パーセントで止まっている。掌編とはいえ、最後まで読まれた数字としては悪くない。
平均滞在時間は四分二十六秒。
離脱が多いのは本文ではなく、最後に置いた文庫フェアの告知部分だった。
つまり読者は、読んでから離れている。
宣伝としては十分だった。
コメント欄にも、荒れた言葉はなかった。
「月曜の朝に読みたい」
「短いのに、ちゃんと泣きそうになった」
「雑貨店の空気が好き」
「これ、続きありますか?」
俺は四つ目のコメントで、指を止めた。
続き。
短編フェア用の無料掌編に、読者が続きという言葉を置いている。それは編集者として、かなり強い反応だった。
書店員向けの社内フォームにも二件だけ反応が入っていた。
駅前店の担当者は、フェア台の横に置くQRカードに向いていると書いた。郊外店の担当者は、紙の本を買う前に雰囲気が分かるのがいい、と短く送ってきた。
どちらも、売上を約束する言葉ではない。
でも編集部の机では、そういう小さな反応が次の企画を通す燃料になる。
俺はコメントを報告用メモに貼りつけた。
貼りつけたあとで、少しだけ手が止まる。
この短編は、最初から最後まで作家が書いたものではない。
プロットは俺が作った。
雨見坂という町名も、郵便局跡の雑貨店も、月曜だけ届く青い手紙も、最初の企画書には俺が書いた。
その企画書を、閉域環境のアカネ・ドラフトへ入れた。
外部学習に使われない契約。固有名詞リストと禁止事項を添付。生成物は編集部で責任確認。
社内規定の確認欄には、間宮編集長の電子印がある。
法務の承認印もある。
それでも、画面に出てきた本文案を初めて読んだとき、俺は椅子の背に体を預けた。
読める。
主人公の日向こよりが、月曜の朝に差出人不明の手紙を見つける。
宛名は、十年前に仲違いした友人。こよりは届けるか捨てるかで迷い、最後は坂の上の古いアパートへ向かう。
文章は平らだった。
でも、平らなまま読めた。
原稿用紙に換算すれば十二枚程度。
この長さなら、人物の迷いは一つでいい。手紙も一通でいい。こよりが何を怖がっているかを全部説明しなくても、最後まで走れる。
俺が直したのは、台詞の温度と町の匂いだった。
雨見坂のパン屋から出るバターの匂い。
雑貨店のレジ下に置いた古いゴム印。
青い封筒を持ったときの、少しざらついた紙の感触。
坂を上るこよりの息を、一箇所だけ乱した。
友人の部屋番号を押す前に、指先を一度引っ込めさせた。
あとは、こよりが最後に言う台詞を変えた。
アカネの案は「遅くなってごめんね」だった。
悪くない。悪くないが、届かなかった言葉を届ける話としては、少し正面すぎた。
俺はそれを消して、「捨てなくてよかった」にした。
その一行で、短編は急に小説の顔をした。
*
昼休み前、笠井が俺の席へ来た。
片手にコンビニの袋を下げ、もう片方の手でスマホを持っている。
「宮田さん、これ本当にAI原案なんですか」
画面には、リュミエール文庫の公式アカウントが表示されていた。短編公開の告知に、普段より多い反応がついている。
「原案はな」
「普通に読めました」
「普通に読めるように直した」
「でも、ゼロから書いてもらうより早いですよね」
笠井の言い方に悪気はなかった。
若手編集者として、締切に追われる気持ちも分かる。フェアのたびに番外編を作家へ頼み、断られ、無理を言い、原稿を待つ作業は軽くない。
俺は赤字入りのPDFを開いた。
画面の余白には、俺のコメントが二十七個並んでいる。
ここは説明しすぎ。
こよりの視線を封筒へ戻す。
友人の名前は最後まで出さない。
坂の途中で立ち止まる理由を入れる。
「早いけど、何もしなくていいわけじゃない」
「そこは分かります」
笠井はそう言いながら、コメント欄をのぞき込んだ。
「でも、これだけ直してこの反応なら、使いどころはありますよね」
俺は答えなかった。
使いどころはある。
それが、この話の面倒なところだった。
使いどころがまったくないなら、会議は簡単だ。
駄目でした、で終わる。
でもこれは、読めた。
読者も読んだ。書店員も反応した。販促担当からも、フェア台のQRカードに流用できないかと問い合わせが来ている。
俺の机の端には、短編の印刷ゲラが置かれている。
赤字の量は多い。
それでも、真っ白な紙から十二枚を立ち上げるよりは、確かに早かった。
*
会議室のテーブルには、紙の資料が六部並んでいた。
黒須取締役は、いつも紙を読む。画面より紙。数字に赤丸をつけるとき、ペン先で軽く二度叩く癖がある。
「読了率、七十八パーセント」
黒須は赤丸をつけた。
「制作期間、実働四日。外部作家への原稿料なし。編集工数は宮田さんの十一時間半」
「十一時間半は、安くありません」
間宮編集長がすぐに言った。
声は静かだが、資料の端を押さえる指に力が入っている。
「今回は無料公開の短編です。読者の期待値も、文庫一冊分とは違います」
「分かっています」
黒須は顔を上げた。
「前回の校閲事故で、私は校閲を軽く見てはいけないと学びました。そこを削る話はしていません」
会議室の空調が、紙の端をかすかに持ち上げた。
俺は手元のボールペンを回すのをやめる。
「ただ、校閲を削らないなら、別の工程で費用を抑えなければならない。作家の新作依頼も、刊行点数の維持も、今のままでは厳しい」
黒須の言い方は、乱暴ではなかった。
だから余計に、反論が会議室の中で乾く。
間違った人間が大声で押し切るのなら、止めやすい。
正しい数字を持った人間が、半分だけ正しいことを言うと、資料の上で言葉が滑る。
黒須は二枚目の費用比較表を出した。
作家へ短編を依頼する場合。
企画相談、依頼、契約、初稿待ち、戻し、再稿、校閲、公開準備。
アカネ原案を使う場合。
企画入力、出力確認、編集修正、校閲、公開準備。
項目の数だけなら、後者の方が少ない。
そして表に書かれた金額も、後者の方が軽い。
「短編は、企画原案として使えました」
俺は口を開いた。
「ただ、あれは俺がかなり触っています。人物の台詞、結末、固有名詞、町の描写。アカネの本文をそのまま載せたわけではありません」
「その編集工数込みで、十一時間半でしょう」
黒須は資料を指で叩いた。
「通常の短編なら、依頼、契約、初稿待ち、戻し、再稿。もっとかかる」
その通りだった。
通りだから、俺は次の言葉を探すのに少し遅れた。
間宮編集長が代わりに言った。
「素材として使えることと、本文制作を任せられることは違います」
「任せる、ではありません」
黒須はペンを置いた。
「編集部が責任を持って使う。なら、本文も作れるんじゃないですか」
会議室の端で、複合機が一枚だけ紙を吐き出した。
誰かが印刷を取りに来ないまま、白い紙は排出口に引っかかっている。
俺は、その白い紙を見ていた。
本文。
その言葉は、企画書より重い。
でも数字の表の中では、ただの工程名に見えた。
*
夕方、俺の机に中編企画のフォルダが置かれた。
表紙には、間宮編集長の字で「テスト範囲」と書かれている。
赤いボールペンの字だった。
「電子限定。三万字以内。紙の文庫にはしない。著者名義は霧谷灯」
間宮編集長は、俺の机の横に立ったまま言った。
「霧谷灯は編集部管理の企画名義です。外部ライターを入れるなら、補筆範囲と権利処理を契約書に残す。アカネの生成物は閉域環境内。ここは絶対に崩さない」
「分かっています」
「それから、宮田さん」
編集長はフォルダの上に手を置いた。
「短編が読めたのは、あなたが直したからです。そこを忘れないでください」
俺はうなずいた。
フォルダを開くと、一枚目に『月曜日の魔法郵便 迷子の消印』とあった。
青い消印。
月曜だけ届く手紙。
坂の町。
短編の時と同じ匂いが、紙から立ち上がった気がした。
いけるかもしれない。
そう思ったのは、たぶん俺がいちばん早かった。
だから後で振り返ったとき、俺は黒須取締役だけを責められなかった。




