第81話「誤字を直してるだけじゃありません」
久住沙良は、雨庭書房のゲラを自宅の机に広げた。
会社員だった頃の癖で、まず全体の厚みを見る。
次に、前巻PDFと作中カレンダーを横に置いた。赤鉛筆は一本。付箋は三色。
メールの本文には、最初に範囲を書いた。
『今回の対応は、誤字脱字校正、シリーズ照合、実在名確認、緊急対応に限ります。本文全体の構成変更、代筆、編集判断は範囲外です』
送信してから、作業に入る。
三十二ページ。
紬が右手で万年筆を走らせる場面に赤を入れた。
ただ「右」を「左」に変えれば終わるわけではない。
前の行で、紬は右側の席にいる友人から紙を受け取っている。次の行で、インク瓶が右側に置かれている。左手で書くなら、肘の位置も、紙の傾きも変わる。
私は余白に書いた。
「利き腕修正。周辺動作も要調整」
次に、試し読みPDFの冒頭紹介文。
一か月ぶりに動き出す新聞部。
本文抜粋そのものは、一巻ラスト直後の場面として読める。
けれど、紹介文の一行だけが時間を遠ざけていた。
「一か月ぶり」ではなく「一巻ラスト直後」に合わせる案。
または、時間に触れず事件の入り口だけを紹介する案。
私は赤字を入れながら、別紙に影響範囲を書き出した。
影響範囲の表には、ページ番号だけでなく、関係する人の名前も書いた。
作者が直す箇所。編集部が確認する箇所。販促文に反映する箇所。印刷所に再送する箇所。
校閲の赤は、本文だけに向いているようで、実際には工程全体へ伸びている。
その線が見えないまま進めると、最後に誰かがまとめて抱えることになる。
本文の一語を直すたび、別のページが揺れる。
文化祭準備の表現には、付箋を二枚貼った。
「本文は実行委員募集の掲示まで。販促文の『本格化』は先走り」
「夏休み明けから本格準備、という前巻設定と表現を合わせる」
白峯製薬は、さらに別扱いにした。
本文検索では、その名前は出てこない。販促文でだけ補われた固有名詞だった。
実在名との近さも含め、削除を推奨した。
必要なら、本文にある範囲の表現へ戻す。
「白峯製薬」は販促文から削除推奨。
本文内に同名がないことを確認。
地元企業名を出すなら作者確認。
作業の途中で、私は一度手を止めた。
会社員だった頃なら、このまま編集部へ電話して、修正案を詰めて、夜まで付き合っていたかもしれない。
でも、今は違う。
私は編集者ではない。作者でもない。物語を勝手に直す人でもない。
危ない場所を示す。
影響範囲を示す。
判断する人に渡す。
その境界を曖昧にしないことも、フリーで仕事を続けるために必要だった。
作業中、雨庭書房から追加のメールが届いた。
『可能であれば、修正文案もいただけますでしょうか』
私は少しだけ画面を見た。
気持ちは分かる。時間がないのだろう。誰かが文案まで出してくれたら助かる。
けれど、返信は短くした。
『修正文案の作成は今回の契約範囲外です。危険箇所、影響範囲、修正時の注意点をお戻しします。本文判断は編集部および著者様でお願いいたします』
冷たくしたかったわけではない。
線を引かなければ、また同じことになる。
会社員だった頃は、その線が曖昧だった。
気づいた人が直す。できる人が抱える。間に合ったなら、工程表では問題なしになる。
今は違う。
仕事の範囲を言葉にすることも、仕事の一部だった。
*
午後三時、赤字ゲラと指摘一覧を送った。
十分後、間宮から電話が来た。
『久住さん、ありがとうございます。川瀬先生にも共有します』
「修正の判断は編集部と川瀬先生でお願いします。私は、危ない箇所と影響範囲を出しただけです」
『それでも助かりました』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『これ、誤字の修正じゃないですね』
「はい」
私は短く答えた。
*
夕方、間宮から転送されたメールには、川瀬穂乃香から編集部への返信が添付されていた。
怒りは残っていた。けれど、私の指摘には納得すると書かれていた。
『左手の場面、周辺動作まで直します。PDF紹介文と販促文も本文に合わせます。企業名は販促文から外してください。今回の件については、編集部から正式に説明してください』
宮田は、そのメールを何度も読み返した。
榊は、前巻メモの「左利き」の欄に太い線を引いた。
*
その夜、雨庭書房では、いくつもの小さな作業が同時に走った。
試し読みPDFの差し替え。
書店への再送依頼。
印刷所への入稿時刻変更。
販促文の修正。
川瀬への謝罪文。
外注費の稟議。
発売延期は避けられた。
ただし、試し読み公開の初日は落ちた。印刷所には特急再入稿費が発生した。
何もなかったことにはならなかった。
営業部は、書店へ差し替えのお詫びを入れた。
電子書籍担当は、古いPDFが残っていないか確認した。印刷所は、入稿時刻を後ろへずらす代わりに、別案件との調整を求めた。
川瀬への謝罪は、間宮が直接行った。
川瀬は電話口で、怒鳴らなかった。ただ、「次は最初から前巻照合を入れてください」と言った。
怒鳴られないことのほうが、宮田には重かった。
*
翌日、オンライン会議の画面の向こうで、黒須康平が赤字ゲラを見ていた。
余白には、誤字ではない赤が並んでいる。
「誤字はなかったのに」
誰に言ったのか分からない声だった。
間宮が、少しだけ顔を上げる。
宮田は何も言わない。榊は手元の前巻メモを見ている。
私はオンライン会議の画面越しに、赤字で埋まった指摘一覧を閉じた。
「誤字を直してるだけじゃありません」
画面の向こうの空気が止まった。
責めるための言葉ではなかった。境界線を引くための言葉だった。
「校閲で見ているのは、文字だけではありません。前巻で約束したことや、本になって外へ出たときに会社が背負うものも見ています」
黒須は、すぐには返事をしなかった。
黒須が黙ったので、私はそれ以上言わなかった。
間宮が資料を閉じた。
「今後、シリーズものの校閲範囲を明記します。AI校正は使います。でも、前巻照合と実在名確認は別工程として置きます」
榊が小さく頷いた。
「前巻メモも、ただ共有フォルダに置くだけでは駄目でした。見るタイミングと、誰が責任を持つかを決めます」
黒須は、赤字ゲラから目を上げた。
「費用は上がりますね」
「今回よりは安いです」
間宮の声は静かだった。
「事故が起きてから特急で頼むより、最初から工程に入れたほうが安いです」
黒須は、今度は反論しなかった。
反論しない代わりに、黒須は外注費の稟議書を見た。
金額は小さくない。だが、今回の差し替えにかかった社内時間を足せば、もう安いとは言えなかった。
誰でもできる作業として表から薄くしたものが、できる人に戻す時だけ高く見える。
その見え方自体が、雨庭書房の失敗だった。
会議の最後に、間宮が言った。
「久住さん、次巻もお願いできますか」
「条件が合えば、お受けします」
私は同じ答えを返した。
雨庭書房に戻る、とは言わなかった。
通話を切ると、机の上に静けさが戻った。
赤鉛筆を筆箱にしまい、請求書の下書きを保存する。
受信箱には、別の出版社から新しい依頼が届いていた。
『シリーズ第三巻の校閲についてご相談です。前巻照合も含めてお願いできますでしょうか』
私は雨庭書房からの追加相談メールを閉じ、その依頼を開いた。
会社を出ても、仕事は消えなかった。
ただ、誰の仕事かを、私が決められるようになった。
*
雨庭書房ではその頃、黒須が別の資料を見ていた。
校閲には人間が必要だった。
なら、本文を作るもっと手前で効率化できないか。
その一文が、次の会議メモの端に残った。




