第80話「左手の万年筆」
翌朝九時十七分、宮田涼の電話が鳴った。
画面には、川瀬穂乃香の名前が出ている。
宮田は、いつもの声を作って受話ボタンを押した。
「お世話になっております。雨庭書房の宮田です」
『宮田さん、試し読みPDFの三十二ページです』
挨拶がなかった。
その時点で、宮田の背中が固まった。
『紬が右手で万年筆を走らせています』
「右手、ですか」
『一巻で、祖母の万年筆を左手で持つ場面を書きました。読者さんから感想も多かったところです。あの子は左利きです。もちろん、書き間違えたのは私です。でも、ここは前巻から続く大事な場面です。今までは、試し読みPDFになる前に校閲で指摘されていました』
宮田はPDFを開いた。
該当ページを表示する。文章は流れている。誤字はない。場面もよく書けている。
白鳥紬は、右手で万年筆を走らせた。
たった一語だった。
でも、その一語で、一巻の記憶が反転する。
「申し訳ありません。確認します」
『そこだけではありません』
川瀬の声は低かった。
『それと、試し読みPDFの冒頭に付いた紹介文です。一巻ラスト直後の場面なのに、「一か月ぶりに動き出す新聞部」とあります。本文だけなら数日後として読めます。でも試し読みでは、その一文で時系列がずれて見えます』
宮田は、PDFの冒頭へ戻った。
本文に入る前の紹介文に、その一文があった。
——一か月ぶりに動き出す新聞部。
本文の誤字ではない。
だから、アカネの重大指摘には出ていなかった。
『あと、書店向けの販促文です。「文化祭準備が本格化するなかで」とありますよね。本文では、実行委員募集の掲示が出ただけです。本格準備は夏休み明けから、という設定にしてあります』
「はい」
『それから、販促文の白峯製薬です。本文には、その名前は出していません。編集部で補った名前なら使わないでください。実在企業にも近く見えます』
宮田は喉を鳴らした。
「確認します」
『確認します、では困ります』
川瀬の声が、そこで初めて揺れた。
その揺れは、怒鳴り声よりも聞き取りづらかった。
川瀬は、自分の原稿にミスがないと言っているのではない。作家が見落とすからこそ、編集部と校閲がいると思っていたのだ。
『誤字の話をしているんじゃないんです。作品の中で積んできたものの話です。読んでいただけていると思っていました』
宮田は、受話器を握り直した。
すみません、と言う口の形だけが先にできる。だが、何に対して謝っているのかを言葉にできなかった。
電話が切れたあと、宮田はしばらく受話器を見ていた。
間宮千尋が席から立つ。
「何が起きたの」
「『放課後リライト』です。利き腕と、PDF紹介文の時系列と、販促文の文化祭と、企業名が」
宮田は言いながら、自分でも順番が分からなくなった。
榊悠真が走ってきた。
手にはアカネのレポートがある。
「重大指摘はゼロです。右手も、文章としてはおかしくないので」
「分かってる」
宮田の声が強くなった。
榊が肩を縮める。
間宮が、二人の間に手を置いた。
「責め合う時間はない。入稿は?」
「印刷所への本入稿は明日です。ただ、書店向け試し読みPDFは今日十一時に配信予約が入っています」
「止めて」
「一部はもうデータ連携済みです。差し替え依頼を出します」
宮田はメール画面を開いた。
書店営業、電子書籍担当、印刷所、販促担当。宛先が増えるたび、事態が社内の外へ広がっていく。
営業部から内線が入った。
書店に送った販促文に、白峯製薬の名前が入っている。本文にない固有名詞なら、午前中に差し替え文面を出してほしい。
電子書籍担当からもチャットが来た。
試し読みデータは、配信会社ごとに締切が違う。止められる先と、差し替えになる先を分ける必要がある。
印刷所からは、予定通りなら明日午前にデータを受けたいという確認が来ていた。
ひとつの誤字なら、差し替え箇所を伝えれば済む。今回は違った。
どこまで直すべきか、まだ分かっていない。
榊は前巻メモを開き直した。
そこには全部書いてあった。
左利き。
一巻ラスト直後。
文化祭準備は夏休み明け。
本文外の地元企業名。
書いてあるのに、止まらなかった。
宮田は、前巻メモと二巻ゲラを並べた。
ひとつずつ照合しようとする。だが、今さら初校の最初から読み直す時間はない。
「久住さんなら、ここで止めていましたか」
榊が小さく言った。
間宮は即答しなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
*
場所を小さな会議室に移したところで、営業部の担当者が入口から顔を出した。
「すみません、書店さんからもう問い合わせが来ています。試し読み、今日出る予定でしたよねって」
「止めています」
間宮が答えた。
「理由は何と説明しますか」
その質問に、会議室がまた止まった。
誤字が見つかった、ならまだ言いやすい。だが今回は違う。前巻との整合性確認中、と言えば、作品そのものに不安があるようにも聞こえる。
電子書籍担当もチャットで状況を聞いてきた。
配信会社によっては、差し替えデータを当日中に出さないと翌営業日扱いになる。
印刷所からは、入稿が遅れるなら先に連絡がほしいというメールが入った。
宮田は画面を切り替えるたびに、自分が何を止めているのか分からなくなった。
試し読みPDF。販促文。印刷所への入稿。作者への返答。営業への説明。
ひとつの確認漏れが、別々の名前で机に戻ってきている。
「久住さんに連絡します」
宮田が顔を上げる。
「受けてくれますか」
「分からない。でも、今このシリーズの前巻照合を最短でできる人は、久住さんです」
間宮はスマートフォンを取り出した。
退職後の沙良のメールアドレスを開く。会社員時代の内線ではない。外部の専門職へ依頼するためのアドレスだった。
件名に、緊急校閲依頼、と入れる。
本文には、作品名、巻数、ページ数、入稿予定、発覚した問題、希望納期を並べた。
送信する前に、間宮は一度だけ手を止めた。
社内の人間に頼む文面ではない。外部の専門職に、条件を確認してもらう文面だった。
送信してから、返信まで十五分かかった。
その十五分の間に、宮田は試し読みPDFの配信停止依頼を書き、榊は前巻メモを開き直し、間宮は川瀬へ謝罪の電話を入れた。
沙良からの返信は、短かった。
『ゲラ、前巻PDF、前巻メモ、今回の確認済み範囲、希望納期をお送りください。内容確認後、可否と見積を返信します』
宮田は、少しだけ安心しかけた。
すぐに資料一式を送る。ゲラ、前巻PDF、前巻メモ、アカネのレポート、試し読みPDFの配信状況。
二十分後、沙良から次の返信が来た。
宮田は、その添付ファイルを開いて息を止めた。
外注見積書だった。
通常校閲料。
シリーズ照合追加費。
実在名確認費。
特急料金。
対応範囲外の修正提案は別途。
会社員時代には、項目名すらなかった作業が、きれいに金額になって並んでいた。
黒須康平が、見積書を見て眉を寄せる。
「この金額になるんですか」
間宮は、画面から目を離さずに言った。
「この金額にしたのは、こちらです」
誰も反論しなかった。
黒須は、見積書の項目を上から読んだ。
特急料金の行で一度止まり、シリーズ照合追加費の行でもう一度止まった。
「このシリーズ照合というのは、通常校閲とは別なんですか」
「別です」
間宮は即答した。
「前巻を読み、設定メモと照合し、今回のゲラで影響する箇所を見る作業です。今までは久住さんが社内でやっていました」
「社内でやっていた時は、費用として見えていなかった」
「はい。見えていませんでした」
その言い方は丁寧だった。
けれど、会議室の誰もが、丁寧な言葉の下にあるものを聞いた。
*
午前十時半、試し読みPDFの一部配信は止まった。
すでに送られた先には、差し替え依頼を出すしかなかった。
川瀬からは、短いメールが届いた。
『修正方針が出るまで、販促文の使用を止めてください』
宮田は、その一文を読んで椅子にもたれた。
作品が止まる時、原稿だけが止まるわけではない。
宮田は、いま初めてそれを実感した。
編集者になった時、締切に追われる覚悟はしていた。作家を待つことも、印刷所に頭を下げることも、ある程度は仕事だと思っていた。
けれど、校閲で止まるはずだったものが外へ出かけると、止める範囲が一気に広がる。
一本の赤が入らなかっただけで、何人もの時間が後ろへ倒れる。
榊は、アカネのレポートを閉じた。
悪いのはレポートではない。レポートに書かれていないものを、存在しないものとして扱った自分たちだった。
画面が消えると、机の上の紙だけが残った。
重大度高、ゼロ。
その数字は、もう誰の肩も軽くしなかった。




