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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第18章『誤字を直してるだけじゃありません』

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第80話「左手の万年筆」

 翌朝九時十七分、宮田涼の電話が鳴った。


 画面には、川瀬穂乃香の名前が出ている。

 宮田は、いつもの声を作って受話ボタンを押した。


「お世話になっております。雨庭書房の宮田です」


『宮田さん、試し読みPDFの三十二ページです』


 挨拶がなかった。

 その時点で、宮田の背中が固まった。


『紬が右手で万年筆を走らせています』


「右手、ですか」


『一巻で、祖母の万年筆を左手で持つ場面を書きました。読者さんから感想も多かったところです。あの子は左利きです。もちろん、書き間違えたのは私です。でも、ここは前巻から続く大事な場面です。今までは、試し読みPDFになる前に校閲で指摘されていました』


 宮田はPDFを開いた。

 該当ページを表示する。文章は流れている。誤字はない。場面もよく書けている。


 白鳥紬は、右手で万年筆を走らせた。


 たった一語だった。

 でも、その一語で、一巻の記憶が反転する。


「申し訳ありません。確認します」


『そこだけではありません』


 川瀬の声は低かった。


『それと、試し読みPDFの冒頭に付いた紹介文です。一巻ラスト直後の場面なのに、「一か月ぶりに動き出す新聞部」とあります。本文だけなら数日後として読めます。でも試し読みでは、その一文で時系列がずれて見えます』


 宮田は、PDFの冒頭へ戻った。

 本文に入る前の紹介文に、その一文があった。


 ——一か月ぶりに動き出す新聞部。


 本文の誤字ではない。

 だから、アカネの重大指摘には出ていなかった。


『あと、書店向けの販促文です。「文化祭準備が本格化するなかで」とありますよね。本文では、実行委員募集の掲示が出ただけです。本格準備は夏休み明けから、という設定にしてあります』


「はい」


『それから、販促文の白峯製薬です。本文には、その名前は出していません。編集部で補った名前なら使わないでください。実在企業にも近く見えます』


 宮田は喉を鳴らした。


「確認します」


『確認します、では困ります』


 川瀬の声が、そこで初めて揺れた。


 その揺れは、怒鳴り声よりも聞き取りづらかった。

 川瀬は、自分の原稿にミスがないと言っているのではない。作家が見落とすからこそ、編集部と校閲がいると思っていたのだ。


『誤字の話をしているんじゃないんです。作品の中で積んできたものの話です。読んでいただけていると思っていました』


 宮田は、受話器を握り直した。

 すみません、と言う口の形だけが先にできる。だが、何に対して謝っているのかを言葉にできなかった。


 電話が切れたあと、宮田はしばらく受話器を見ていた。


 間宮千尋が席から立つ。


「何が起きたの」


「『放課後リライト』です。利き腕と、PDF紹介文の時系列と、販促文の文化祭と、企業名が」


 宮田は言いながら、自分でも順番が分からなくなった。


 榊悠真が走ってきた。

 手にはアカネのレポートがある。


「重大指摘はゼロです。右手も、文章としてはおかしくないので」


「分かってる」


 宮田の声が強くなった。

 榊が肩を縮める。


 間宮が、二人の間に手を置いた。


「責め合う時間はない。入稿は?」


「印刷所への本入稿は明日です。ただ、書店向け試し読みPDFは今日十一時に配信予約が入っています」


「止めて」


「一部はもうデータ連携済みです。差し替え依頼を出します」


 宮田はメール画面を開いた。

 書店営業、電子書籍担当、印刷所、販促担当。宛先が増えるたび、事態が社内の外へ広がっていく。


 営業部から内線が入った。

 書店に送った販促文に、白峯製薬の名前が入っている。本文にない固有名詞なら、午前中に差し替え文面を出してほしい。


 電子書籍担当からもチャットが来た。

 試し読みデータは、配信会社ごとに締切が違う。止められる先と、差し替えになる先を分ける必要がある。


 印刷所からは、予定通りなら明日午前にデータを受けたいという確認が来ていた。

 ひとつの誤字なら、差し替え箇所を伝えれば済む。今回は違った。


 どこまで直すべきか、まだ分かっていない。


 榊は前巻メモを開き直した。

 そこには全部書いてあった。


 左利き。

 一巻ラスト直後。

 文化祭準備は夏休み明け。

 本文外の地元企業名。


 書いてあるのに、止まらなかった。


 宮田は、前巻メモと二巻ゲラを並べた。

 ひとつずつ照合しようとする。だが、今さら初校の最初から読み直す時間はない。


「久住さんなら、ここで止めていましたか」


 榊が小さく言った。


 間宮は即答しなかった。

 けれど、その沈黙が答えだった。



 場所を小さな会議室に移したところで、営業部の担当者が入口から顔を出した。


「すみません、書店さんからもう問い合わせが来ています。試し読み、今日出る予定でしたよねって」


「止めています」


 間宮が答えた。


「理由は何と説明しますか」


 その質問に、会議室がまた止まった。

 誤字が見つかった、ならまだ言いやすい。だが今回は違う。前巻との整合性確認中、と言えば、作品そのものに不安があるようにも聞こえる。


 電子書籍担当もチャットで状況を聞いてきた。

 配信会社によっては、差し替えデータを当日中に出さないと翌営業日扱いになる。


 印刷所からは、入稿が遅れるなら先に連絡がほしいというメールが入った。


 宮田は画面を切り替えるたびに、自分が何を止めているのか分からなくなった。

 試し読みPDF。販促文。印刷所への入稿。作者への返答。営業への説明。


 ひとつの確認漏れが、別々の名前で机に戻ってきている。


「久住さんに連絡します」


 宮田が顔を上げる。


「受けてくれますか」


「分からない。でも、今このシリーズの前巻照合を最短でできる人は、久住さんです」


 間宮はスマートフォンを取り出した。

 退職後の沙良のメールアドレスを開く。会社員時代の内線ではない。外部の専門職へ依頼するためのアドレスだった。


 件名に、緊急校閲依頼、と入れる。

 本文には、作品名、巻数、ページ数、入稿予定、発覚した問題、希望納期を並べた。


 送信する前に、間宮は一度だけ手を止めた。

 社内の人間に頼む文面ではない。外部の専門職に、条件を確認してもらう文面だった。


 送信してから、返信まで十五分かかった。


 その十五分の間に、宮田は試し読みPDFの配信停止依頼を書き、榊は前巻メモを開き直し、間宮は川瀬へ謝罪の電話を入れた。


 沙良からの返信は、短かった。


『ゲラ、前巻PDF、前巻メモ、今回の確認済み範囲、希望納期をお送りください。内容確認後、可否と見積を返信します』


 宮田は、少しだけ安心しかけた。

 すぐに資料一式を送る。ゲラ、前巻PDF、前巻メモ、アカネのレポート、試し読みPDFの配信状況。


 二十分後、沙良から次の返信が来た。

 宮田は、その添付ファイルを開いて息を止めた。


 外注見積書だった。


 通常校閲料。

 シリーズ照合追加費。

 実在名確認費。

 特急料金。

 対応範囲外の修正提案は別途。


 会社員時代には、項目名すらなかった作業が、きれいに金額になって並んでいた。


 黒須康平が、見積書を見て眉を寄せる。


「この金額になるんですか」


 間宮は、画面から目を離さずに言った。


「この金額にしたのは、こちらです」


 誰も反論しなかった。


 黒須は、見積書の項目を上から読んだ。

 特急料金の行で一度止まり、シリーズ照合追加費の行でもう一度止まった。


「このシリーズ照合というのは、通常校閲とは別なんですか」


「別です」


 間宮は即答した。


「前巻を読み、設定メモと照合し、今回のゲラで影響する箇所を見る作業です。今までは久住さんが社内でやっていました」


「社内でやっていた時は、費用として見えていなかった」


「はい。見えていませんでした」


 その言い方は丁寧だった。

 けれど、会議室の誰もが、丁寧な言葉の下にあるものを聞いた。



 午前十時半、試し読みPDFの一部配信は止まった。

 すでに送られた先には、差し替え依頼を出すしかなかった。


 川瀬からは、短いメールが届いた。


『修正方針が出るまで、販促文の使用を止めてください』


 宮田は、その一文を読んで椅子にもたれた。

 作品が止まる時、原稿だけが止まるわけではない。


 宮田は、いま初めてそれを実感した。

 編集者になった時、締切に追われる覚悟はしていた。作家を待つことも、印刷所に頭を下げることも、ある程度は仕事だと思っていた。


 けれど、校閲で止まるはずだったものが外へ出かけると、止める範囲が一気に広がる。

 一本の赤が入らなかっただけで、何人もの時間が後ろへ倒れる。


 榊は、アカネのレポートを閉じた。

 悪いのはレポートではない。レポートに書かれていないものを、存在しないものとして扱った自分たちだった。


 画面が消えると、机の上の紙だけが残った。


 重大度高、ゼロ。


 その数字は、もう誰の肩も軽くしなかった。

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