第79話「重大度高、ゼロ」
久住沙良が退職してから、一ヶ月。
雨庭書房の校閲部は、止まらなかった。
少なくとも、表の上では止まっていなかった。
アカネは毎朝、指定された原稿フォルダを読み込み、昼前にはレポートを出す。
榊悠真は、その一覧を確認して編集部へ回した。
最初に回ったのは、恋愛ファンタジーの短編連作だった。
その成功は、編集部に小さな自信を与えた。
アカネを通し、榊が一覧を整理し、編集者が作者へ確認する。流れとしては悪くない。
黒須も、進行表を見て頷いた。
「この調子なら、校閲部縮小後も大きな遅れは出ていませんね」
誰も、そこで強く否定しなかった。
実際、遅れは出ていなかったからだ。
問題は、遅れとして見える前に通り過ぎるものだった。
作者の文章は勢いがあり、勢いがあるぶん、表記が揺れやすい。
「魔導士」と「魔導師」。
「王都」と「首都」。
「殿下」と「王子」。
アカネは、それを一覧にして出した。
榊は編集者に確認を取り、半日で表記をそろえた。
「助かるな、これ」
宮田涼が、隣の机から言った。
彼の前には、別作品の著者校と販促文が積まれている。
「久住さんがいなくても、全部が止まるわけじゃないんですね」
榊は、言ってから少し後悔した。
けれど宮田は責めなかった。
「止まったら困るよ。困るけど、回ってるなら、それはそれでありがたい」
その言い方には、少しだけ自分に言い聞かせる響きがあった。
*
昼前、リュミエール文庫の進行表が更新された。
共有シートでは、各作品の状態が色で分かれている。原稿待ち、初校中、著者校中、入稿前。
『放課後リライト』第二巻の欄は、黄色から薄い緑に変わった。
入稿可能見込み、という意味の色だった。
「『放課後リライト』第二巻、アカネの指摘は少ないです」
榊が言うと、宮田は椅子の背に体を預けた。
肩が少し下がる。
「助かった……。川瀬先生の原稿、もともときれいなんだよな」
「誤字脱字は、ほとんどありません」
「じゃあ、予定通り進められるな」
宮田の机には、別作品の色校、販促文の初稿、書店特典のラフ、著者校の戻しが重なっていた。
その中で、アカネのレポートだけが整然としている。
指摘件数、二十三件。
重大度高、ゼロ。
表記揺れ、九件。
句読点、四件。
重複表現、三件。
数字は、安心に見えた。
営業部からは、午前中に催促が来ていた。
来月の文庫フェアで、シリーズ一巻と二巻を並べたい。書店向けの試し読みPDFと販促文が早めにほしい。
川瀬穂乃香のシリーズは、大ヒットではない。
けれど、毎巻きちんと売れる。感想も安定していて、書店員からの推しコメントもつきやすい。
雨庭書房にとっては、こういう作品こそ落とせない。
だからこそ、宮田は丁寧に進めたいと思っていた。
派手な宣伝費をかけられる作品ではない。小さな信用を積み、次の巻を待つ読者に届ける作品だった。
だが、丁寧に進めたい作品ほど、現場では後回しになりやすい。
燃えていない。怒鳴られていない。大きなトラブルもない。そういう作品は、締切の近い別案件に少しずつ時間を譲る。
その日もそうだった。
大型新作の著者校戻しが午前に届き、別レーベルのコミカライズ原作で登場人物名の変更が入った。
宮田は、放課後リライトのゲラを机の右端に置いた。
手をつけるつもりはあった。後で見るつもりもあった。
つもりだけは、いつも正しい。
榊は、共有フォルダを開いた。
久住が残した「放課後リライト_前巻メモ」というファイルがある。
開くと、表が出てきた。
人物名、呼称、初出巻、注意点、日付、備考。
白鳥紬。高校二年。新聞部。左利き。祖母の万年筆。
親友の呼称。校内新聞の締切。文化祭準備開始時期。
情報はある。
ただ、どれを今のゲラに照らすべきか、榊にはすぐ分からなかった。
久住が残した表には、注意度の列があった。
高、中、低。たったそれだけの分類なのに、榊には重かった。
高、と書かれている項目を全部見ればいい。
理屈ではそうだ。だが、ゲラは百八十ページある。別の作品も待っている。営業からは試し読みPDFの催促が来ている。
榊は検索窓に「白鳥」と入れた。
主人公の名前が出る箇所は多い。次に「左」と入れる。該当は少ない。
安心しかけてから、右手と書かれている箇所は検索していないことに気づいた。
では「右手」で検索すればいいのか。
榊はそう思って、検索窓に入れた。
右手で鞄を持つ。
右手側の廊下。
右手を上げる男子生徒。
該当箇所は多かった。
どれが紬の描写で、どれが別人の描写なのか、前後を読まないと分からない。
久住なら、ページをめくる速度を落とす場所を知っていた。
榊はまだ、全部同じ濃さで見てしまう。
たとえば、利き腕。
人物表にあるなら検索すればいい、と思っていた。けれど本文では「右手」としか出ない。そこに紬の名前が近くにないこともある。
たとえば、季節。
七月、夏休み、文化祭。どれも高校小説ではよく出る言葉だ。だからこそ、どの学校の設定で、どの時期に何が始まるかを覚えていないと、早いのか遅いのか分からない。
「榊くん、何か引っかかる?」
宮田が聞いた。
「いえ……。前巻メモはあります。ただ、アカネの重大指摘はないので」
「なら、先に進めよう。これ、書店向け試し読みPDFの締切が明日なんだ」
宮田は、申し訳なさそうに言った。
悪い人ではない。むしろ、いつも走っている人だ。
榊は頷いた。
前巻メモのファイルを閉じる。
*
昼過ぎ、間宮千尋が編集部を回ってきた。
机の上の山を見て、宮田の前で足を止める。
「放課後リライト、進行どう」
「アカネの結果は良好です。川瀬先生にも今日中に試し読みPDFを送ります」
「前巻とのつながりは?」
宮田は榊を見た。
榊は、少し遅れて頷いた。
「前巻メモを確認しています。大きな問題は出ていません」
「大きな、か」
間宮はその言葉を繰り返した。
久住がいた頃なら、ここで一枚だけ紙ゲラを抜き出していた。
冒頭の日付、人物表、前巻ラスト。全部ではなく、危ない順に見る。
間宮はその手順を思い出した。
けれど、思い出すことと、今ここで誰かに命じることは違う。
榊には別作品の戻しがある。宮田は試し読みPDFを待たせている。間宮自身も、午後には作家との打ち合わせが二件入っていた。
「分かった。先生、そこを気にされると思うから、メールでは一言添えて」
「はい」
*
午後三時、川瀬穂乃香からメールが届いた。
『第二巻、よろしくお願いいたします。前巻とのつながり、見てもらえていますよね。今回は冒頭が一巻ラストから近いので、そこだけ少し気になっています』
宮田は、すぐに返信を書いた。
『校閲、編集部ともに確認しています。試し読みPDFも本日中にお送りします』
送信ボタンを押したあと、宮田は榊のほうを見た。
「確認、してるよな」
「はい。アカネと、前巻メモは見ています」
言いながら、榊の声は少し小さくなった。
嘘ではない。見ている。けれど、久住が言っていた確認と、自分が今した確認が同じかは分からない。
*
夕方、試し読みPDFができた。
表紙、口絵、冒頭三章。ファイル名は、きれいに整っている。
「放課後リライト2_試し読み_最終.pdf」
宮田は、画面を見て息を吐いた。
「よし。書店さんへの配信予約、入れます」
間宮が席の向こうから声をかけた。
「宮田くん、川瀬先生にも先に送って」
「はい」
メールにPDFを添付する。
本文には、いつもの文面を入れた。
『ご確認のほど、よろしくお願いいたします』
別のウィンドウでは、販促文の確認画面が開いていた。
地元企業名の入った紹介文だった。
宮田は、その段落を見た。
少しだけ引っかかった。
前巻にも地元企業が出ていた気がする。
けれど、今はPDF送付を優先した。
送信済みフォルダに入ったメールを見て、宮田はようやく椅子を引いた。
「今日は帰れるかもしれない」
榊は笑おうとして、画面に残った前巻メモのアイコンを見た。
左利き。
祖母の万年筆。
六月二十八日。
文化祭準備は夏休み明け。
並んだ文字は、どれも静かだった。
警告音は鳴らない。赤く光りもしない。
アカネのレポートには、重大度高、ゼロ。
宮田のパソコンでは、配信予約の画面にチェックマークがついた。
公開予定、明日午前十一時。
榊は、前巻メモをもう一度開こうとして、電話の音に手を止めた。
別作品の著者校戻しだった。
そちらも締切が近い。
榊は受話器を取った。
画面の端で、「最終」と付いたPDFが、静かに保存された。




