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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第18章『誤字を直してるだけじゃありません』

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第79話「重大度高、ゼロ」

 久住沙良が退職してから、一ヶ月。


 雨庭書房の校閲部は、止まらなかった。

 少なくとも、表の上では止まっていなかった。


 アカネは毎朝、指定された原稿フォルダを読み込み、昼前にはレポートを出す。

 榊悠真は、その一覧を確認して編集部へ回した。


 最初に回ったのは、恋愛ファンタジーの短編連作だった。


 その成功は、編集部に小さな自信を与えた。

 アカネを通し、榊が一覧を整理し、編集者が作者へ確認する。流れとしては悪くない。


 黒須も、進行表を見て頷いた。


「この調子なら、校閲部縮小後も大きな遅れは出ていませんね」


 誰も、そこで強く否定しなかった。

 実際、遅れは出ていなかったからだ。


 問題は、遅れとして見える前に通り過ぎるものだった。

 作者の文章は勢いがあり、勢いがあるぶん、表記が揺れやすい。


 「魔導士」と「魔導師」。

 「王都」と「首都」。

 「殿下」と「王子」。


 アカネは、それを一覧にして出した。

 榊は編集者に確認を取り、半日で表記をそろえた。


「助かるな、これ」


 宮田涼が、隣の机から言った。

 彼の前には、別作品の著者校と販促文が積まれている。


「久住さんがいなくても、全部が止まるわけじゃないんですね」


 榊は、言ってから少し後悔した。

 けれど宮田は責めなかった。


「止まったら困るよ。困るけど、回ってるなら、それはそれでありがたい」


 その言い方には、少しだけ自分に言い聞かせる響きがあった。



 昼前、リュミエール文庫の進行表が更新された。

 共有シートでは、各作品の状態が色で分かれている。原稿待ち、初校中、著者校中、入稿前。


 『放課後リライト』第二巻の欄は、黄色から薄い緑に変わった。

 入稿可能見込み、という意味の色だった。


「『放課後リライト』第二巻、アカネの指摘は少ないです」


 榊が言うと、宮田は椅子の背に体を預けた。

 肩が少し下がる。


「助かった……。川瀬先生の原稿、もともときれいなんだよな」


「誤字脱字は、ほとんどありません」


「じゃあ、予定通り進められるな」


 宮田の机には、別作品の色校、販促文の初稿、書店特典のラフ、著者校の戻しが重なっていた。

 その中で、アカネのレポートだけが整然としている。


 指摘件数、二十三件。

 重大度高、ゼロ。

 表記揺れ、九件。

 句読点、四件。

 重複表現、三件。


 数字は、安心に見えた。


 営業部からは、午前中に催促が来ていた。

 来月の文庫フェアで、シリーズ一巻と二巻を並べたい。書店向けの試し読みPDFと販促文が早めにほしい。


 川瀬穂乃香のシリーズは、大ヒットではない。

 けれど、毎巻きちんと売れる。感想も安定していて、書店員からの推しコメントもつきやすい。


 雨庭書房にとっては、こういう作品こそ落とせない。


 だからこそ、宮田は丁寧に進めたいと思っていた。

 派手な宣伝費をかけられる作品ではない。小さな信用を積み、次の巻を待つ読者に届ける作品だった。


 だが、丁寧に進めたい作品ほど、現場では後回しになりやすい。

 燃えていない。怒鳴られていない。大きなトラブルもない。そういう作品は、締切の近い別案件に少しずつ時間を譲る。


 その日もそうだった。

 大型新作の著者校戻しが午前に届き、別レーベルのコミカライズ原作で登場人物名の変更が入った。


 宮田は、放課後リライトのゲラを机の右端に置いた。

 手をつけるつもりはあった。後で見るつもりもあった。


 つもりだけは、いつも正しい。


 榊は、共有フォルダを開いた。

 久住が残した「放課後リライト_前巻メモ」というファイルがある。


 開くと、表が出てきた。

 人物名、呼称、初出巻、注意点、日付、備考。


 白鳥紬。高校二年。新聞部。左利き。祖母の万年筆。

 親友の呼称。校内新聞の締切。文化祭準備開始時期。


 情報はある。

 ただ、どれを今のゲラに照らすべきか、榊にはすぐ分からなかった。


 久住が残した表には、注意度の列があった。

 高、中、低。たったそれだけの分類なのに、榊には重かった。


 高、と書かれている項目を全部見ればいい。

 理屈ではそうだ。だが、ゲラは百八十ページある。別の作品も待っている。営業からは試し読みPDFの催促が来ている。


 榊は検索窓に「白鳥」と入れた。

 主人公の名前が出る箇所は多い。次に「左」と入れる。該当は少ない。


 安心しかけてから、右手と書かれている箇所は検索していないことに気づいた。


 では「右手」で検索すればいいのか。

 榊はそう思って、検索窓に入れた。


 右手で鞄を持つ。

 右手側の廊下。

 右手を上げる男子生徒。


 該当箇所は多かった。

 どれが紬の描写で、どれが別人の描写なのか、前後を読まないと分からない。


 久住なら、ページをめくる速度を落とす場所を知っていた。

 榊はまだ、全部同じ濃さで見てしまう。


 たとえば、利き腕。

 人物表にあるなら検索すればいい、と思っていた。けれど本文では「右手」としか出ない。そこに紬の名前が近くにないこともある。


 たとえば、季節。

 七月、夏休み、文化祭。どれも高校小説ではよく出る言葉だ。だからこそ、どの学校の設定で、どの時期に何が始まるかを覚えていないと、早いのか遅いのか分からない。


「榊くん、何か引っかかる?」


 宮田が聞いた。


「いえ……。前巻メモはあります。ただ、アカネの重大指摘はないので」


「なら、先に進めよう。これ、書店向け試し読みPDFの締切が明日なんだ」


 宮田は、申し訳なさそうに言った。

 悪い人ではない。むしろ、いつも走っている人だ。


 榊は頷いた。

 前巻メモのファイルを閉じる。



 昼過ぎ、間宮千尋が編集部を回ってきた。

 机の上の山を見て、宮田の前で足を止める。


「放課後リライト、進行どう」


「アカネの結果は良好です。川瀬先生にも今日中に試し読みPDFを送ります」


「前巻とのつながりは?」


 宮田は榊を見た。

 榊は、少し遅れて頷いた。


「前巻メモを確認しています。大きな問題は出ていません」


「大きな、か」


 間宮はその言葉を繰り返した。


 久住がいた頃なら、ここで一枚だけ紙ゲラを抜き出していた。

 冒頭の日付、人物表、前巻ラスト。全部ではなく、危ない順に見る。


 間宮はその手順を思い出した。

 けれど、思い出すことと、今ここで誰かに命じることは違う。


 榊には別作品の戻しがある。宮田は試し読みPDFを待たせている。間宮自身も、午後には作家との打ち合わせが二件入っていた。


「分かった。先生、そこを気にされると思うから、メールでは一言添えて」


「はい」



 午後三時、川瀬穂乃香からメールが届いた。


『第二巻、よろしくお願いいたします。前巻とのつながり、見てもらえていますよね。今回は冒頭が一巻ラストから近いので、そこだけ少し気になっています』


 宮田は、すぐに返信を書いた。


『校閲、編集部ともに確認しています。試し読みPDFも本日中にお送りします』


 送信ボタンを押したあと、宮田は榊のほうを見た。


「確認、してるよな」


「はい。アカネと、前巻メモは見ています」


 言いながら、榊の声は少し小さくなった。

 嘘ではない。見ている。けれど、久住が言っていた確認と、自分が今した確認が同じかは分からない。



 夕方、試し読みPDFができた。

 表紙、口絵、冒頭三章。ファイル名は、きれいに整っている。


「放課後リライト2_試し読み_最終.pdf」


 宮田は、画面を見て息を吐いた。


「よし。書店さんへの配信予約、入れます」


 間宮が席の向こうから声をかけた。


「宮田くん、川瀬先生にも先に送って」


「はい」


 メールにPDFを添付する。

 本文には、いつもの文面を入れた。


『ご確認のほど、よろしくお願いいたします』


 別のウィンドウでは、販促文の確認画面が開いていた。

 地元企業名の入った紹介文だった。


 宮田は、その段落を見た。

 少しだけ引っかかった。


 前巻にも地元企業が出ていた気がする。

 けれど、今はPDF送付を優先した。


 送信済みフォルダに入ったメールを見て、宮田はようやく椅子を引いた。


「今日は帰れるかもしれない」


 榊は笑おうとして、画面に残った前巻メモのアイコンを見た。


 左利き。

 祖母の万年筆。

 六月二十八日。

 文化祭準備は夏休み明け。


 並んだ文字は、どれも静かだった。

 警告音は鳴らない。赤く光りもしない。


 アカネのレポートには、重大度高、ゼロ。


 宮田のパソコンでは、配信予約の画面にチェックマークがついた。


 公開予定、明日午前十一時。


 榊は、前巻メモをもう一度開こうとして、電話の音に手を止めた。

 別作品の著者校戻しだった。


 そちらも締切が近い。

 榊は受話器を取った。


 画面の端で、「最終」と付いたPDFが、静かに保存された。

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