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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第18章『誤字を直してるだけじゃありません』

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第78話「表にない仕事」

 アカネが本格導入されてから、一ヶ月が過ぎた。


 編集部の空気は、少しだけ明るくなった。

 夜九時を回ってから、表記揺れの一覧を作る人が減った。宮田は、校閲戻しの前に自分で直せる箇所が増えたと言っていた。


「昨日、十一時に帰れました」


 彼は給湯室で紙コップのコーヒーを持ちながら、妙にまぶしい顔をした。


「十一時で喜ぶのは、あまり健全ではないと思います」


「それはそうなんですけど、二時よりは人間です」


 私は笑った。

 その実感は分かる。単純な確認が機械で減るなら、その分、人は眠ったほうがいい。


 実際、宮田の机には変化があった。アカネは契約済みの閉域環境で使う設定になっており、原稿を外へ流さない確認も導入時に済ませていた。

 以前なら、ゲラの横に自作の表記揺れ表が置かれていた。今はアカネのレポートがPDFで出ている。


 「出来る」と「できる」。

 「下さい」と「ください」。

 「一人」と「ひとり」。


 一覧化された揺れを見ながら、宮田は作家へ確認メールを書ける。

 そのぶん、返事も早くなる。


 便利だった。

 間違いなく、便利だった。


 ただ、私の机の上は軽くならなかった。


 午前中に見たゲラには、赤字が少なかった。

 アカネが先に拾っていたからだ。送り仮名、句読点、数字表記、語尾の重複。きれいに一覧化されている。


 けれど、私は前巻メモを開く。

 登場人物の呼び方を確認し、作中の日付をカレンダーに落とす。地元企業として出てくる名前を検索し、似た会社がないか見る。


 午後には、作者コメントを読んだ。

 あとがきに書かれた一文が、本編の伏線と食い違っていないかを見る。書店用の紹介文に、まだ明かしていない設定が入っていないかも見る。


 赤字にはならない作業ばかりだった。


 たとえば、外注先から戻ってきた校正紙を見る。

 誤字の赤はきれいに入っている。けれど、一巻では「姉さん」と呼んでいた相手を、二巻では「姉ちゃん」と呼んでいる。外注先は一巻を知らないから止められない。


 外注先が悪いわけではない。

 依頼書に「前巻照合」と書いていないなら、そこまでは仕事ではない。


 たとえば、書店用の紹介文を見る。

 本文では終盤まで伏せているはずの部長の過去が、販促文に一行だけ入っている。宣伝としては分かりやすい。でも、読者には先に答えを渡してしまう。


 たとえば、架空の地名を見る。

 漢字を一文字変えただけの駅名が実在していないか、検索する。検索結果が少なければ安全、という話でもない。地元の小さな施設名に近いこともある。


 それでも、そこを抜くと本は外で転ぶ。


 校閲部の共有表に、新しい担当割が入った。

 私の名前の横に、作品名が増えている。


 榊悠真が、画面を見たまま小さく息を吸った。


「久住さん、これ、全部ですか」


「全部みたいですね」


「外注管理も入ってます」


「入ってますね」


 私は、表を見ながら言った。

 驚きはなかった。会議室で聞いた言葉が、そのまま表になっただけだ。


「僕、アカネの運用担当になるって聞きました」


「聞きました」


「久住さんの担当、半分くらい僕が見られたらよかったんですけど」


「榊さんが悪い話ではないです」


 榊は、唇を結んだ。

 若い人に罪悪感を持たせる形で、体制が変わる。それも、会社ではよくある。


 昼過ぎ、制作管理部から校閲部へ確認依頼が来た。

 来期の外注費見込みを出してほしい、という内容だった。


 表には、作品点数とページ数を入れる欄がある。

 通常校正、再校確認、念校確認。そこまではある。


 シリーズ照合、実在名確認、販促文確認の欄はなかった。


 榊が表を見て、困った顔をした。


「久住さん、これ、どこに入れればいいですか」


「入れる欄がないですね」


「じゃあ、備考ですか」


「備考に入れると、だいたい読まれません」


 榊は苦笑しようとして、できなかった。


 私は欄外に赤で書いた。


「シリーズ照合は通常校正と別工数。実在名確認は作品内容により発生」


 表はきれいだった。

 だからこそ、そこに入らない仕事は最初から存在しないように見える。


 その直後、間宮から電話が来た。

 販促文の確認だった。


『この紹介文、ネタバレになっていますか』


 画面に送られてきた文面を見て、私は該当箇所に赤を入れた。

 主人公の兄が失踪した理由。本文では終盤まで明かさない情報が、紹介文では一文で説明されていた。


「ここは削ったほうがいいです」


『やっぱり。宣伝としては分かりやすいんですけど』


「分かりやすい紹介と、先に答えを言う紹介は違います」


 電話の向こうで、間宮が小さく息を吐いた。


『こういう確認も、表には出ないんですよね』


「はい」


 表に出ない仕事ほど、なくした時に初めて形が見える。



 午後四時、黒須に呼ばれた。

 応接室ではなく、小さな打ち合わせスペースだった。壁際の観葉植物は、葉の先が少し茶色くなっている。


「校閲部の体制を見直します」


 黒須は、印刷した資料を差し出した。


「アカネの導入で、一次校正の負荷は下がっています。今後は外注を併用しつつ、社内は最終確認と運用管理に寄せたい」


 資料には、校閲部三名体制から二名体制への移行案が載っていた。

 榊はAI運用担当として残る。もう一人は別部署へ異動。私は、外注管理と重点作品の確認を持つ。


 担当点数は増えていた。

 外注管理も増えていた。


 つまり、見る本は増える。

 見る時間は減る。

 責任だけが残る。


「赤字の数で、仕事量は測れません」


 私は言った。


 黒須は、困ったように指を組んだ。


「久住さんの専門性は分かっています。ただ、会社としては数字を見ざるを得ない。実際に戻し件数は減っている」


「戻し件数が減っただけです」


「それは大きな改善です」


「はい。改善です。でも、代替ではありません」


 黒須はメモを取った。

 手つきは真面目だった。いい加減な人ではない。必要な仕事を切り捨てたいわけでもない。


 ただ、会議で説明できるものを優先する。

 戻し件数。作業時間。外注費。月ごとの刊行点数。


 私が見ているものは、その表に入りにくかった。

 読者が前巻で覚えた傘。作者が三年前に置いた伏線。似すぎた会社名が外へ出た時の沈黙。


 私はそこで、もう一度だけ資料を見た。

 体制変更案の表は整っている。けれど、その表のどこにも、読者からの信頼という欄はなかった。


 欄がないものは、会議では遅れてくる。

 問題が起きてから、謝罪文や差し替え費用という別の名前で戻ってくる。


 間宮が後から合流した。

 編集長として、現場の事情を知っている人だ。私が赤を入れたページを見て、「ここまで見てくれていたんですね」と何度も言ったことがある。


 その間宮でさえ、今日は資料を閉じたままだった。


「久住さん、私としては残ってほしいです」


「条件は変わりますか」


 間宮の唇が、少し止まった。


「すみません。そこまでは、私の権限では」


 私は頷いた。

 責める気にはならなかった。彼女も、守りたいものと会社の数字の間で、ずっと薄い板の上に立っている。


「担当点数を増やすなら、確認範囲を明確にしてください」


 私は資料の端を指で押さえた。


「誤字脱字だけを見るのか、シリーズ照合まで見るのか、実在名確認まで含めるのか。外注に出すなら、どこまで依頼するのか。そこを決めないと、事故が起きた時に誰も止められません」


「事故、ですか」


 黒須が聞き返した。


「誤字は直せます。差し替えもできます。でも、作中設定の矛盾や実在名に近い名称が外へ出ると、作者と会社の信用に触れます。そこは、後から直して終わりではありません」


 黒須はまたメモを取った。

 そのメモが体制に反映されるかは分からなかった。



 その夜、私は机の引き出しから古いノートを出した。

 表紙の角が丸くなっている。リュミエール文庫で担当したシリーズのメモが、年代順に挟まっていた。


 共有フォルダに移せるものは移した。

 人物表、作中年表、地名一覧、注意済みの架空企業名。ファイル名も分かりやすく直した。


 業務として残すべき情報は、すべて会社に残した。

 鞄に入れたのは、確認順や迷った時の見方だけを書いた私物ノートだった。


 そこには、表にしきれない覚え書きもある。

 長期シリーズでは三巻目前後で呼称が揺れやすい。季節描写は改稿後にずれやすい。学園ものは行事予定を見る。薬品名は念のため一度検索。


 正式なマニュアルではない。

 仕事の傷跡みたいなものだった。



 翌週、退職届を出した。


 黒須は驚いた顔をした。

 間宮は、驚かなかった。ただ、机の上で指を握った。


「フリーで続けるんですか」


「はい。校閲は続けます」


「雨庭の仕事も、お願いできますか」


「条件が合えば」


 会社員の返事ではなかった。

 間宮も、それを分かっていた。



 最終出社日、榊に前巻メモのコピーを渡した。


「全部は読まなくていいです。担当作で迷ったら、まず日付と呼び方を見てください」


「久住さん、これ、使いこなせる気がしません」


「私も最初から使えていたわけじゃないです」


 榊は笑わなかった。

 コピー用紙の束を、両手で受け取った。


 私は自分の机を拭いた。

 赤鉛筆を一本だけ、筆箱に入れる。


 パソコンの電源を落とすと、画面に自分の顔が映った。

 少し疲れていた。けれど、不思議と軽かった。


 雨庭書房の社員証を返し、私はエレベーターに乗った。

 手元の鞄には、私物ノートと赤鉛筆が入っている。


 赤字の数では測れないものを、私は持って会社を出た。

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