第77話「赤字が半分になりました」
久住沙良は、赤い鉛筆の先を止めた。
紙ゲラの本文には、八月七日、水曜日、とある。
前巻メモを開く。
八月六日(日)灯台祭り前日。
二巻の冒頭は、その翌日。
なら、八月七日は月曜日のはずだった。
誤字ではない。文章としても自然だ。けれど、一巻から読んでいる読者は、どこかで足を止める。
私は余白に丸をつけ、付箋を貼った。
「前巻ラストの日付と要照合」
隣のページでは、主人公の呼び方が変わっていた。
一巻では幼なじみだけが「栞」と呼び、他の生徒は「沢渡さん」だった。二巻の三章で、転校してきたばかりの男子生徒がいきなり「栞」と呼んでいる。
これも誤字ではない。
でも、距離感が変わる。
私は赤字を入れず、付箋にした。
作者の意図で距離を縮めた可能性もある。決めつけて直す場所ではなく、編集者と作者に確認してもらう場所だった。
机の左側には、シリーズごとのメモが重なっている。
人物表、学校行事、部室の位置、新聞部の発行日、主人公の利き腕。小さな文字で埋まったノートは、会社の備品ではない。
十二年間、必要に迫られて増やしてきたものだった。
雨庭書房は、中堅出版社だ。
大手ほど人は多くない。けれど、リュミエール文庫には固定読者のついたシリーズがいくつかある。
その読者は、よく覚えている。
主人公がどの傘を持っていたか。親友が何と呼んだか。前巻の最後が雨だったか晴れだったか。
そういう記憶は、本文中ではたいてい一語で壊れる。
机の右側には、校正支援AI「アカネ」のレポートが開いている。
指摘件数は百二十六件。
送り仮名の揺れ。
「出来る」と「できる」の混在。
全角と半角のばらつき。
同じ段落で二度出ている表現。
アカネは、そこをよく拾った。
正直、助かる。
試験導入の最初の一冊では、私も少し疑っていた。
機械が出した赤を、人間が結局ぜんぶ見直すなら、手間が増えるだけではないかと思っていた。
けれど、アカネは思ったより実用的だった。
「おこなう」と「行う」の混在を拾い、章によって変わる句読点の癖を拾い、作者が無意識に繰り返す「小さく息を吐いた」を一覧にした。
*
榊悠真が、画面をのぞき込んだ。
校閲部で一番若い彼は、新しいツールが入るたびに最初に触る。
「久住さん、これ、前より精度上がってませんか」
「上がっていますね」
「表記揺れの一覧、かなり使えます。前は検索語を自分で考えないといけなかったので」
「そこは本当に助かります」
私は素直に答えた。
便利なものを便利だと言えないと、判断を間違える。
榊は少し安心した顔をした。
「久住さん、AI嫌いなのかと思ってました」
「嫌いではありません。疲れない目が増えるのは助かります」
「じゃあ、導入会議でもそう言います?」
「言います。ただ、疲れない目が何を見ているかも言います」
榊は首を傾げた。
私は紙ゲラを一枚、彼の前に滑らせる。
「ここ。文章としておかしいですか」
「ええと……青い傘を閉じた。普通ですね」
「一巻では、この子は青い傘を持たない理由があります」
榊の視線が、紙ゲラと前巻メモを行き来した。
「ああ。そうか。アカネはここ、拾わないですね」
「誤字ではないですから」
そのやり取りが終わったところで、宮田が校閲部まで来た。
手には、別作品のゲラとアカネのレポートを持っている。
「久住さん、これ、見てもらえますか」
宮田が差し出したのは、恋愛ファンタジーの三巻だった。
アカネのレポートには、表記揺れが五十二件並んでいる。
「かなり拾っていますね」
「ですよね。これ、昨日の夜に出したんです。前なら今日の午前中は、僕が検索して終わってました」
宮田は、少しだけ笑った。
眠っていない人の笑い方だった。
私はレポートと紙ゲラを見比べた。
アカネは、たしかに役に立っている。「魔法陣」と「魔法円」の混在も、「殿下」と「王子殿下」の揺れも拾っていた。
ただ、紙ゲラの端に別の付箋を貼る。
「ここ、二巻では王弟は国外にいる設定でした。三巻冒頭で王城にいるなら、一言必要です」
「そこはアカネに出ていません」
「誤字ではありませんから」
宮田は、レポートの数字を見た。
それから、私の付箋を見た。
「便利なのは便利。でも、別の目が要る」
「はい」
その時の宮田は、分かったように頷いた。
ただ、人は忙しいと、分かったことから順番に忘れていく。
*
午前十時、会議室に呼ばれた。
長机の上には、アカネの試験導入結果が印刷されている。折れ目のない紙が、蛍光灯の下で白かった。
「赤字が半分になりました」
若手編集者の宮田涼が、少し興奮した声で言った。
彼の目の下には、いつもの薄い隈がある。締切前の編集者は、だいたい紙のような顔をしている。
「先月の三作品で比較したんです。一次校正の戻し件数がかなり減っています。表記揺れは、ほぼ先に拾ってくれました」
宮田は、配布資料のグラフを指で叩いた。
赤い棒が、前月の半分ほどまで短くなっている。
「編集側としても助かっています」
リュミエール文庫編集長の間宮千尋が、資料を見ながら頷いた。
「単純な表記の確認で夜を使わずに済むのは大きいです。作家さんへの戻しも早くなりました」
制作管理担当の取締役、黒須康平は、グラフの下にある作業時間の欄を見ていた。
戻し件数、確認時間、再校発生率。数字はきれいに並んでいる。
「校閲部としてはどうですか」
黒須がこちらを見た。
声は穏やかだった。責めているわけではない。ただ、数字の先に結論を置いている人の声だった。
「一次チェックには助かります」
私は答えた。
「誤字脱字、送り仮名、表記揺れ、重複表現。そこはかなり拾えます。人間が先に疲れる部分を、先に洗ってくれる感じです」
「では、校閲工程は短縮できますね」
黒須は、ほとんど同じ調子で続けた。
宮田が資料から顔を上げる。
間宮は、少しだけ眉を動かした。
「短縮できる部分はあります」
私は言葉を選んだ。
「ただ、短縮できない部分もあります。たとえばシリーズものの前巻照合、作中カレンダー、人物の呼び方、架空名が実在名に近すぎないか。今回のアカネは、単巻本文の表記チェック設定です。前巻資料や販促文までは読み込ませていません」
「前巻資料や販促文、ですか」
「はい。そこに、読者が覚えている約束が残ります」
私は持ってきたゲラを一枚、机に置いた。
余白には赤字よりも付箋が多い。
「この作品では、主人公が青い傘を持たない理由があります。一巻で兄の忘れ物として赤い傘を使う場面があります。二巻で何の説明もなく青い傘に変わっても、誤字ではありません。でも、読者には違和感になる」
黒須はゲラを見た。
見る、というより、赤字の量を数えている目だった。
「なるほど。ただ、そういう確認もマニュアル化できるのでは」
「一部はできます」
私は否定しなかった。
否定すると、ツールそのものを嫌っている人に見える。そうではない。
「でも、マニュアルに何を書くべきかを決めるのは、人です。前巻で読者が何を覚えたか、今回どこで効いてくるかを見ないと、項目自体が作れません」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
宮田が、気まずさを薄めるように笑った。
「でも、誤字を直してるだけなら、AIでかなり減らせますよね」
彼は悪意で言ったのではない。
実際、彼は救われていた。深夜二時に「出来る」と「できる」を探す仕事は、誰の創造性も育てない。
だから私は、笑って頷いた。
「誤字を直してるだけなら、そうですね」
自分の声が、思ったより平らに出た。
会議は、導入継続でまとまった。
反対する理由はなかった。むしろ、反対してはいけないと思った。
便利な道具を便利だと言えない人間は、次の話し合いの席から外される。
だから私は、導入手順の資料に赤を入れた。
アカネで先に見る項目。
人間が最後に見る項目。
シリーズものでは必ず前巻メモを開くこと。
新規作品でも、架空名と実在名の確認は残すこと。
資料の余白は、また赤くなった。
けれどその赤は、会議資料のグラフには載らない。
会議の終わり際、黒須が資料をそろえながら言った。
「この結果なら、来期の制作工程にも反映できそうですね」
間宮が少しだけ顔を上げた。
「反映というのは」
「人員配置と外注費です。もちろん、品質を落とさない範囲で」
品質。
その言葉は便利だった。誰も反対できない。
ただ、何を品質と呼ぶのかは、人によって違う。
午後、私は席に戻った。
机の上には、アカネでは赤字ゼロだったゲラが置かれていた。
私は一ページ目をめくる。
本文はなめらかだった。誤字もない。読みにくい表現もない。
ただ、三ページ目の余白に、私は付箋を貼った。
「前巻確認」
榊がそれを見て、ぽつりと言った。
「赤字ゼロでも、終わりじゃないんですね」
「終わりではないです」
私は付箋を指で押さえた。
「赤字がない時ほど、見えていないものを疑います」
アカネのレポートには、問題なし、と表示されていた。
その画面は明るく、紙ゲラの付箋は小さかった。
会議で記憶に残るのは、たぶん明るい画面のほうだ。




