第76話「研修は完了していました」
七月四日の朝、佐伯玲奈の受信箱に、片瀬実里からのメールが届いた。
件名は、退職についてのご相談。
それだけで、佐伯はマウスから手を離した。
人事部の窓際では、観葉植物の葉が空調の風で小さく揺れている。
本文は短かった。
『お忙しいところ恐れ入ります。今後の勤務継続についてご相談したく、お時間をいただけますでしょうか』
佐伯は、すぐに面談室を押さえた。
午前十一時。
予定表のその枠だけが、急に濃く見えた。
*
片瀬は、面談室に五分前に来た。
入社式の日と同じように、黒いリュックを足元にまっすぐ置く。
机の上に手を重ね、佐伯が座るまで何も話さなかった。
「メール、読みました」
佐伯は、声の大きさを一段落とした。
「今の状況を聞かせてもらえますか」
片瀬は、少しだけ視線を下げた。
「退職したいです」
言葉は揺れなかった。
そのせいで、佐伯の方が息を整えるのに時間がかかった。
「理由を聞いてもいいですか」
「仕事ができていません」
「第一開発部の業務が難しい?」
「はい」
片瀬は、膝の上で指を組み直した。
爪は短く切られている。
「研修は、分かりやすかったです。動画も、課題も。チーム研修も、何を考えればいいのか分かりました」
「うん」
「でも、配属されてからは、何を見ればいいのか分からなくなりました」
佐伯は、メモを取ろうとしてペンを持った。
けれど、すぐには書けなかった。
「質問は、しづらかったですか」
「しづらいというより」
片瀬は、言葉を探した。
「何を聞けばいいのか分かりませんでした」
面談室の外を、誰かが早足で通り過ぎた。
床が少しだけ鳴る。
「旧画面を見てください、と言われました。見ました。でも、どこを見ているのか分からなくて。コメント返してください、と言われました。でも、何を判断したら返せるのか分からなくて」
「藤谷さんや久我さんには」
「聞きました。少しだけ。藤谷さんは見ようとしてくれました。でも、忙しそうで」
片瀬はそこで口を閉じた。
悪口を言わないように、言葉を選んでいるのが分かった。
「久我さんも、間違ったことは言っていないと思います。分からないなら聞いて、と言われました。私が、聞けませんでした」
佐伯は、ようやく一行だけ書いた。
聞けない。
その横に、括弧を付ける。
何を聞くか作れない。
「研修中に、そこを練習できていたら違いましたか」
佐伯が聞くと、片瀬はすぐには答えなかった。
「分かりません」
正直な返事だった。
「でも、研修中は、できていると思っていました」
その言葉が、一番重かった。
*
同じ日の午後、佐伯は瀬尾と久我と野上を会議室に呼んだ。
片瀬の退職意思は固い。
慰留の余地があるかどうかを話す前に、まず何が起きたのかを共有する必要があった。
久我は、椅子に座るなり額に手を当てた。
「きつく言いすぎたかもしれません」
最初に出たのは、その言葉だった。
佐伯は少し驚いた。
久我が自分からそう言うとは思っていなかった。
「ただ、現場も限界でした。藤谷も見ようとしていましたが、自分のレビューが詰まっていた」
「分かっています」
佐伯は言った。
野上は、片瀬の研修記録を開いていた。
「片瀬さんは、弱い新人ではないです」
「それは分かります」
久我がすぐに言った。
「基礎はありました。だからこそ、うちに欲しいと思った」
野上はうなずいた。
「上流工程のチーム研修でも優秀でした。論点整理が早く、周りも助けていた。ただ、あれは答えのない実装現場とは違います。仕様の論点を整理する力と、古いコードの中で質問を作る力は別です」
瀬尾は、腕を組んで画面を見ていた。
「三好さんはどうですか」
「伸びています」
野上が答えた。
「まだ遅いです。でも、分からない場所に印を付けられます。質問も作れます。保守チームなので、それを見る時間があります」
久我は小さく舌打ちしそうになり、途中で止めた。
「うちに三好さんが来ていたら、同じように潰していたかもしれません」
会議室に、誰も否定しない沈黙が落ちた。
佐伯は、配属判定のファイルを開いた。
五月末に保存した、確定版。
片瀬実里。
第一開発部。
三好蓮。
第二開発部。
同じチェックシートの上に、二人の名前が並んでいる。
「研修は完了していました」
佐伯は、画面を見ながら言った。
「チェックシートも、全部埋まっています」
誰も返事をしなかった。
その沈黙は、成功報告の時とは違う形をしていた。
*
七月中旬、採用広報の担当から佐伯へ連絡が来た。
就職口コミサイトの評価が下がっている。
実名サービスではない。
それでも、学生は見る。
新卒研修についての投稿が三件増えていた。
退職した片瀬が書いたかどうかは分からない。
件数から見ると、残っている新人も書いている可能性があった。
『研修は動画中心で、配属後のギャップが大きい』
『質問しろと言われるが、何を質問すればいいか分からない時の助けが少ない』
『部署によって育成の差が大きい』
佐伯は、画面の星の数を見た。
採用説明会で見せる会社紹介資料より、その星の方が学生に近い場所にある。
採用にかけた費用。
内定者フォローの時間。
二ヶ月の研修。
配属後の現場負荷。
それらが、退職届一枚で消えるわけではない。
けれど、確かに何かがこぼれ落ちていた。
*
振り返り会議で、佐伯は新しいシートを作った。
タイトルは、来年度研修改善案。
瀬尾、野上、久我、人事部長が同じ画面を見ている。
「動画は残します」
佐伯は最初に言った。
「基礎知識には有効でした。三好さんも、動画を見返して理解しています。動画そのものが悪かったとは思いません」
瀬尾がうなずく。
「戻す、ではないですね」
「はい。全部を去年に戻す話ではありません」
佐伯は、表の一行目に動画研修と入力した。
その下に、確認テスト、課題、質問フォームと続ける。
ここまでは今年もあった。
問題は、その下だった。
「片瀬さんに対して、何をすればよかったのかを先に考えたいです」
佐伯は、別のシートを開いた。
五月末の配属判定メモ。
情報系学部卒。
確認テスト上位。
課題提出期限前。
上流工程チーム研修、論点整理が早い。
同期支援あり。
その下に、配属後の記録を並べる。
旧画面の予約変更処理で停止。
レビューコメントへの返答が短い。
人事面談フォーム、困りごとなし。
藤谷の十五分確認、流れる。
「悪い項目がないんです」
佐伯は言った。
「だから第一開発部に出しました。でも、悪い項目がないことと、忙しい現場で壊れないことは同じではありませんでした」
久我は、資料から目を離さなかった。
「うちの受け入れ条件も曖昧でした。優秀な新人なら大丈夫、で止まっていた」
「優秀、の中身ですね」
野上が言った。
「片瀬さんは、論点を整理する力がありました。課題を期限前に終える力もある。でも、古いコードの中で、どこまで分かっていてどこから分からないかを切り出す練習はしていませんでした」
人事部長が、腕を組み直した。
「それは研修でできますか」
「できます。きれいな課題用コードではなく、少し古くて、コメントも揺れているコードを読ませます」
野上は、佐伯の画面を指さした。
「ただ読ませるだけではなく、質問文を作らせます。正解を出す前に、『何を確認したいのか』を書かせる」
佐伯は、新しい列を作った。
既存コード読解。
質問文作成。
レビュー返答。
久我が続けた。
「配属先側も条件を出します。新人を入れる部署は、最初の二週間、毎日十五分の確認枠を確保する。確保できないなら、成績上位でも入れない」
「忙しい部署ほど優秀な新人が欲しい。でも、忙しい部署ほど、質問を作れない新人を拾えない」
佐伯が繰り返すと、久我は苦い顔でうなずいた。
「その通りです」
瀬尾は、配属判定表の余白に視線を落とした。
「来年は、配属判定に現場余力を入れましょう。新人の評価だけではなく、受け入れる側の評価も並べる」
佐伯は、さらに列を足した。
初週確認枠。
担当者名。
質問テンプレート。
配属先のOJT余力。
表は、今年より不格好になった。
丸だけでは埋まらない欄が増えたからだ。
でも、佐伯はその不格好さに少しだけ息をつけた。
「研修を軽視していたつもりはありませんでした」
人事部長が、ぽつりと言った。
誰もすぐには返事をしなかった。
佐伯も、同じことを思っていた。
二ヶ月間、進捗を見た。課題を確認した。質問フォームも用意した。集合研修も残した。
それでも、落としたものがあった。
「軽視していないつもりで、軽視していたんだと思います」
瀬尾が言った。
「現場のエンジニアが講義で見ていたものを、動画とチェックシートで置き換えられると判断した。基礎知識の説明は置き換えられても、新人の詰まり方を見ることまでは置き換えられなかった」
野上は、五月末のチェックシートをもう一度開いた。
Git操作、完了。
Java基礎、完了。
SQL基礎、完了。
HTTP基礎、完了。
単体テスト、完了。
報連相、完了。
片瀬実里の行は、今もきれいに埋まっている。
「誰でもできると思ったわけではありません」
佐伯は言った。
「でも、講義なら動画でもできる。確認ならチェックシートでもできる。そう分けた時に、講師が新人を見ていた時間まで一緒に消していました」
来年度研修改善案のシートに、佐伯は最後の一行を足した。
講師の役割。
知識を教える人ではなく、詰まり方を見る人。
今年の失敗は、消えない。
片瀬が戻るわけでもない。
それでも、来年の表には、今年なかった欄が増えた。
佐伯は保存ボタンを押した。
今度のファイル名には、確定とは付けなかった。
改善中。
その三文字を見てから、画面を閉じた。




