表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『チェックシートは全部埋まってます』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

75/76

第75話「何が分からないのか分かりません」

 六月三日、片瀬実里の画面には、赤い線が十三本引かれていた。


 第一開発部のフロアは、朝から電話とキーボードの音で詰まっている。

 窓際の複合機は、誰かが置いた設計書を吐き出し続けていた。


 片瀬は、自分の席でレビュー画面を開いている。

 隣の藤谷圭は、別案件のチャットに返事をしながら、片手でペットボトルのふたを開けた。


「片瀬さん、レビュー返ってきた?」


「はい」


「見て、分かるところから直して。分からないところはコメント返して」


「はい」


 藤谷の声は急いでいた。

 怒ってはいない。

 ただ、次の会議まで五分しかない人の声だった。


 片瀬はレビューコメントを上から読む。


『この分岐、既存仕様と逆です』


『ここで権限チェックを通すと、法人管理者の代理操作が落ちます』


『現行踏襲。旧画面の予約変更処理を見てください』


 研修課題なら、仕様書の該当箇所があった。

 動画なら、章を戻れば説明があった。


 この案件には、古い仕様書が三つあった。

 ファイル名は、予約管理_仕様書、予約管理_仕様書_改訂、予約管理_仕様書_最新化前。


 どれも使われているらしい。

 どれが正しいのかは、コメントだけでは分からない。


 片瀬は、旧画面の予約変更処理を探した。

 プロジェクトのフォルダを開く。


 ファイル数は、研修課題の十倍以上あった。

 似た名前のクラスが並び、コメントアウトされた処理の下に、さらに別の条件分岐がある。


 空調の冷気が、首の後ろに当たった。

 それなのに、手のひらだけが湿っている。


 質問を書こうとして、社内チャットを開く。


『旧画面の予約変更処理について質問です』


 そこで止まった。


 何を聞けばいいのか。

 どのファイルのどの行なのか。

 そもそも自分が見ている場所が合っているのか。


 片瀬は文字を消した。



 同じ六月三日、第二開発部の小会議室では、三好蓮が印刷したコードに蛍光ペンを引いていた。


 野上真琴は、向かいの席でマグカップを持っている。

 保温マグのふたを開けるたび、薄いコーヒーの匂いがした。


「分からないところに、全部印を付けてください」


「全部ですか」


「全部です。読めない変数名でも、どこから呼ばれているか分からない関数でも。恥ずかしいとか考えなくていいです」


 三好は、少し笑ってから線を引き始めた。


 五分で紙が黄色くなった。


「多すぎますか」


「最初はこれでいいです」


 野上は、線の多いページを一枚抜いた。


「この中で、今の作業に関係ありそうなものだけ丸を付けましょう。残りは後でいい」


「後でいいんですか」


「全部分かってから仕事を始めようとすると、来月になります」


 三好は、声を出して笑った。

 会議室の外で誰かが台車を押していく。車輪が床の継ぎ目を越える音がした。


「じゃあ、ここです。予約ステータスのところ」


「なぜそこが気になりましたか」


「動画の課題だと、ステータスは三つだったんです。でも、このコードだと六つあります」


「いいですね。そこから聞けます」


 野上は、三好のノートに短く書いた。


『動画では三つ。現場コードでは六つ。増えた理由と使い分けを確認したい』


「質問は、この形にしてください」


 三好はその文を見て、何度もうなずいた。


「こう書けばいいんですね」


「最初は型を使っていいです。慣れたら自分で作れます」



 金曜日の夕方、片瀬は同じレビューコメントを三度開いた。


『旧画面の予約変更処理を見てください』


 旧画面は見た。

 処理も追った。


 けれど、そこから何を取り出せばいいのかが分からない。

 研修の上流工程では、論点を付箋に分ければ進んだ。今は、付箋にする前の言葉が出てこない。


 片瀬は、ノートの左上に「予約変更」と書いた。

 その下に矢印を一本引き、手を止める。


 隣の藤谷は、イヤホンを片耳だけ付けて客先との会議に入っていた。画面の中で誰かが資料をめくるたび、藤谷の眉が少し寄る。


 片瀬はノートを閉じた。



 片瀬の一週間アンケートは、きれいだった。


 困りごと。

 なし。


 配属先の雰囲気。

 普通。


 業務理解。

 少し難しいが進められる。


 佐伯は、人事部の席でその回答を見た。

 六月七日の午後六時半。窓の外はまだ明るいが、フロアの照明が白く勝っている。


 片瀬らしい回答だと思った。

 簡潔で、問題がない。


 三好の回答は長かった。


『既存コードの読み方がまだ難しいです。野上さんに、分からない場所へ印を付ける方法を教えてもらいました。質問の作り方が少し分かりました』


 佐伯は、三好の回答に安心した。

 片瀬の回答にも安心した。


 どちらも、配属先で動き始めている。

 そう見えた。



 二週目の水曜日、片瀬のチャット返信は短くなった。


『確認します』


『修正します』


『すみません』


 藤谷は、その三つの文を見て、眉間を指で押した。

 教えたい気持ちはある。

 けれど、自分の画面には未読が二十七件残っていた。


 久我からは、十分後にレビュー会議へ来いと呼ばれている。


「片瀬さん、五分だけ」


 藤谷は小会議室を取った。

 空いていたのは、コピー機の横の狭い部屋だけだった。


 片瀬はノートパソコンを抱えて入ってきた。

 電源ケーブルが腕に引っかかり、先端が机に当たって小さく鳴る。


「困ってるところ、ある?」


 藤谷はできるだけ柔らかく聞いた。


 片瀬は画面を開いた。

 レビューコメントが並んでいる。


「この辺りです」


「どの辺?」


「予約変更のところです」


「予約変更の、何?」


 片瀬は、カーソルを動かした。

 動かして、止めた。


「すみません。何が分からないのか分かりません」


 藤谷は、返事を探した。


 責める言葉は出したくなかった。

 けれど、どう教えればいいのかもすぐには分からなかった。


 会議室の外でコピー機が紙詰まりの音を出した。

 ピーピーという警告音が、会話の隙間に入り込む。


「じゃあ、まずファイルを一緒に見ようか」


 藤谷が言った時、社内チャットが鳴った。

 久我からだった。


『レビュー会議、始めます』


 藤谷は画面を見た。

 片瀬も見た。


「ごめん、十五時にもう一回」


「はい」


 片瀬はノートパソコンを閉じた。


 十五時に、藤谷は戻れなかった。



 三週目、久我の声が少しずつ固くなった。


「研修でレビュー課題、やったよね」


 片瀬は立ったまま、ノートパソコンを胸の前で抱えていた。


「はい」


「じゃあ、コメントに返す時は、どこを見てどう判断したかを書いて。修正します、だけだとこっちも分からない」


「はい」


「分からないなら聞いて」


「はい」


 返事は正しい。

 正しいのに、前に進まない。


 久我もそれを分かっていた。

 だから余計に、声が荒くなる。


「聞く内容を作るところから全部見る余裕は、今ないです」


 その言葉で、片瀬の手が止まった。

 ノートパソコンの角が、白い指に食い込んでいる。


 藤谷が横から口を挟もうとした。

 けれど、電話が鳴った。


 第一開発部のフロアでは、誰かの作業が止まるたび、別の誰かの時間が削られていく。


 片瀬は自席に戻った。

 人事面談フォームを開く。


 困っていること。


 入力欄は広かった。

 白い余白が、画面の中央に残っている。


 片瀬は、そこに一文字だけ打った。


『分』


 すぐに消した。


 保存せずに、フォームを閉じた。

 画面が暗くなり、そこに自分の顔が薄く映った。

 片瀬はノートパソコンの角度を少し変え、その顔を消した。

 暗い画面は、何も答えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ