第75話「何が分からないのか分かりません」
六月三日、片瀬実里の画面には、赤い線が十三本引かれていた。
第一開発部のフロアは、朝から電話とキーボードの音で詰まっている。
窓際の複合機は、誰かが置いた設計書を吐き出し続けていた。
片瀬は、自分の席でレビュー画面を開いている。
隣の藤谷圭は、別案件のチャットに返事をしながら、片手でペットボトルのふたを開けた。
「片瀬さん、レビュー返ってきた?」
「はい」
「見て、分かるところから直して。分からないところはコメント返して」
「はい」
藤谷の声は急いでいた。
怒ってはいない。
ただ、次の会議まで五分しかない人の声だった。
片瀬はレビューコメントを上から読む。
『この分岐、既存仕様と逆です』
『ここで権限チェックを通すと、法人管理者の代理操作が落ちます』
『現行踏襲。旧画面の予約変更処理を見てください』
研修課題なら、仕様書の該当箇所があった。
動画なら、章を戻れば説明があった。
この案件には、古い仕様書が三つあった。
ファイル名は、予約管理_仕様書、予約管理_仕様書_改訂、予約管理_仕様書_最新化前。
どれも使われているらしい。
どれが正しいのかは、コメントだけでは分からない。
片瀬は、旧画面の予約変更処理を探した。
プロジェクトのフォルダを開く。
ファイル数は、研修課題の十倍以上あった。
似た名前のクラスが並び、コメントアウトされた処理の下に、さらに別の条件分岐がある。
空調の冷気が、首の後ろに当たった。
それなのに、手のひらだけが湿っている。
質問を書こうとして、社内チャットを開く。
『旧画面の予約変更処理について質問です』
そこで止まった。
何を聞けばいいのか。
どのファイルのどの行なのか。
そもそも自分が見ている場所が合っているのか。
片瀬は文字を消した。
*
同じ六月三日、第二開発部の小会議室では、三好蓮が印刷したコードに蛍光ペンを引いていた。
野上真琴は、向かいの席でマグカップを持っている。
保温マグのふたを開けるたび、薄いコーヒーの匂いがした。
「分からないところに、全部印を付けてください」
「全部ですか」
「全部です。読めない変数名でも、どこから呼ばれているか分からない関数でも。恥ずかしいとか考えなくていいです」
三好は、少し笑ってから線を引き始めた。
五分で紙が黄色くなった。
「多すぎますか」
「最初はこれでいいです」
野上は、線の多いページを一枚抜いた。
「この中で、今の作業に関係ありそうなものだけ丸を付けましょう。残りは後でいい」
「後でいいんですか」
「全部分かってから仕事を始めようとすると、来月になります」
三好は、声を出して笑った。
会議室の外で誰かが台車を押していく。車輪が床の継ぎ目を越える音がした。
「じゃあ、ここです。予約ステータスのところ」
「なぜそこが気になりましたか」
「動画の課題だと、ステータスは三つだったんです。でも、このコードだと六つあります」
「いいですね。そこから聞けます」
野上は、三好のノートに短く書いた。
『動画では三つ。現場コードでは六つ。増えた理由と使い分けを確認したい』
「質問は、この形にしてください」
三好はその文を見て、何度もうなずいた。
「こう書けばいいんですね」
「最初は型を使っていいです。慣れたら自分で作れます」
*
金曜日の夕方、片瀬は同じレビューコメントを三度開いた。
『旧画面の予約変更処理を見てください』
旧画面は見た。
処理も追った。
けれど、そこから何を取り出せばいいのかが分からない。
研修の上流工程では、論点を付箋に分ければ進んだ。今は、付箋にする前の言葉が出てこない。
片瀬は、ノートの左上に「予約変更」と書いた。
その下に矢印を一本引き、手を止める。
隣の藤谷は、イヤホンを片耳だけ付けて客先との会議に入っていた。画面の中で誰かが資料をめくるたび、藤谷の眉が少し寄る。
片瀬はノートを閉じた。
*
片瀬の一週間アンケートは、きれいだった。
困りごと。
なし。
配属先の雰囲気。
普通。
業務理解。
少し難しいが進められる。
佐伯は、人事部の席でその回答を見た。
六月七日の午後六時半。窓の外はまだ明るいが、フロアの照明が白く勝っている。
片瀬らしい回答だと思った。
簡潔で、問題がない。
三好の回答は長かった。
『既存コードの読み方がまだ難しいです。野上さんに、分からない場所へ印を付ける方法を教えてもらいました。質問の作り方が少し分かりました』
佐伯は、三好の回答に安心した。
片瀬の回答にも安心した。
どちらも、配属先で動き始めている。
そう見えた。
*
二週目の水曜日、片瀬のチャット返信は短くなった。
『確認します』
『修正します』
『すみません』
藤谷は、その三つの文を見て、眉間を指で押した。
教えたい気持ちはある。
けれど、自分の画面には未読が二十七件残っていた。
久我からは、十分後にレビュー会議へ来いと呼ばれている。
「片瀬さん、五分だけ」
藤谷は小会議室を取った。
空いていたのは、コピー機の横の狭い部屋だけだった。
片瀬はノートパソコンを抱えて入ってきた。
電源ケーブルが腕に引っかかり、先端が机に当たって小さく鳴る。
「困ってるところ、ある?」
藤谷はできるだけ柔らかく聞いた。
片瀬は画面を開いた。
レビューコメントが並んでいる。
「この辺りです」
「どの辺?」
「予約変更のところです」
「予約変更の、何?」
片瀬は、カーソルを動かした。
動かして、止めた。
「すみません。何が分からないのか分かりません」
藤谷は、返事を探した。
責める言葉は出したくなかった。
けれど、どう教えればいいのかもすぐには分からなかった。
会議室の外でコピー機が紙詰まりの音を出した。
ピーピーという警告音が、会話の隙間に入り込む。
「じゃあ、まずファイルを一緒に見ようか」
藤谷が言った時、社内チャットが鳴った。
久我からだった。
『レビュー会議、始めます』
藤谷は画面を見た。
片瀬も見た。
「ごめん、十五時にもう一回」
「はい」
片瀬はノートパソコンを閉じた。
十五時に、藤谷は戻れなかった。
*
三週目、久我の声が少しずつ固くなった。
「研修でレビュー課題、やったよね」
片瀬は立ったまま、ノートパソコンを胸の前で抱えていた。
「はい」
「じゃあ、コメントに返す時は、どこを見てどう判断したかを書いて。修正します、だけだとこっちも分からない」
「はい」
「分からないなら聞いて」
「はい」
返事は正しい。
正しいのに、前に進まない。
久我もそれを分かっていた。
だから余計に、声が荒くなる。
「聞く内容を作るところから全部見る余裕は、今ないです」
その言葉で、片瀬の手が止まった。
ノートパソコンの角が、白い指に食い込んでいる。
藤谷が横から口を挟もうとした。
けれど、電話が鳴った。
第一開発部のフロアでは、誰かの作業が止まるたび、別の誰かの時間が削られていく。
片瀬は自席に戻った。
人事面談フォームを開く。
困っていること。
入力欄は広かった。
白い余白が、画面の中央に残っている。
片瀬は、そこに一文字だけ打った。
『分』
すぐに消した。
保存せずに、フォームを閉じた。
画面が暗くなり、そこに自分の顔が薄く映った。
片瀬はノートパソコンの角度を少し変え、その顔を消した。
暗い画面は、何も答えなかった。




