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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『チェックシートは全部埋まってます』

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第74話「チェックシートは全部埋まってます」

「チェックシートは全部埋まってます」


 五月二十九日、研修終了報告会。

 佐伯玲奈は、会議室三の前方でノートパソコンを操作した。


 プロジェクターに映った表は、緑色の丸でほとんど埋まっている。

 Git操作、Java基礎、SQL基礎、HTTP基礎、単体テスト、報連相。


 十六人全員が、期限内に完了していた。


 去年の研修終了報告より、見た目はずっときれいだった。

 欠席者も少ない。動画の視聴完了率は百パーセント。課題提出率も百パーセント。


 確認テストの平均点は八十二点。

 研修アンケートの満足度も高い。


「外部動画については、分かりやすい、見返せる、説明が一定で助かる、という回答が多いです」


 佐伯は、アンケートの自由記述を読み上げた。


『自分のペースで進められるのがよかった』


『苦手なところを何度も見られた』


『集合研修の要件整理が、動画の内容とつながって分かりやすかった』


 開発本部長の瀬尾は、資料をめくりながらうなずいた。

 久我悠斗は腕を組んでいる。野上真琴は、画面ではなく佐伯の手元の紙を見ていた。


「大きなトラブルはありませんでした」


 佐伯は言った。


「六月一日から、各部署へ配属可能です」


 言ってから、少しだけ肩が軽くなった。

 二ヶ月間、佐伯は毎朝進捗画面を開いた。

 遅れている新人へ連絡し、課題提出を確認し、質問フォームを現場へ回した。


 動画研修に切り替えたことへの不安はあった。

 けれど、少なくとも表の上では、研修は成功していた。


「では、配属判定に移りましょう」


 瀬尾が言った。


 佐伯は次のシートを開いた。

 十六人分の名前が並んでいる。

 配属先は、第一開発部、第二開発部、プラットフォーム部、保守運用チームに分かれる。

 どの部署も人は欲しい。けれど、欲しい新人の形は違った。


 第一開発部は、すぐに調査とテスト観点出しへ入れる人。

 第二開発部は、既存コードを腰を据えて読める人。

 プラットフォーム部は、Linux操作で詰まらない人。


 佐伯は、それぞれの希望を事前に聞いていた。

 だからこそ、表を作れた。


 配属候補。

 研修成績。

 質問傾向。

 面談メモ。


 去年より、申し送り欄は短い。

 講師が毎週新人を見ていたわけではないからだ。


 それでも、材料はある。

 佐伯はそう考えていた。



「まず片瀬実里さんです」


 佐伯は名前の行を選択した。


「情報系学部卒。確認テストは十六人中二位。課題提出は全件期限前で、動画進捗も標準日程より先行していました」


 画面の右側に、集合型チーム研修の評価が表示される。


 論点整理が早い。

 議事メモが見やすい。

 画面遷移案の抜け漏れが少ない。

 同期への支援あり。


「チーム研修では、自然に中心になっていました。進捗表を作り、遅れているメンバーに資料の場所を共有しています」


「優秀ですね」


 久我が言った。

 その声に、少しだけ期待が混じった。


 第一開発部は六月から新しい大型受託案件に入る。

 既存の予約管理システムを改修し、法人向けの管理画面を追加する案件だ。


 設計はすでに遅れ気味。

 六月中旬にレビュー、七月頭に結合テスト。


 久我は、新人を受け入れる余裕がないと言い続けていた。

 それでも人は足りない。


「うちは、正直手取り足取りはできません」


 久我は表を見たまま言った。


「でも、飲み込みが早くて、自分で進められる子なら助かります。小さい調査やテスト観点出しから入ってもらえる」


 佐伯はうなずいた。


「片瀬さんは面談でも落ち着いていました。困りごとも、今のところ特にありません」


 野上が、そこで指を一本上げた。


「基礎力と整理力は、私も高いと思います」


「何か懸念がありますか」


 瀬尾が聞く。


「懸念というほどではありません。いくつか、配属先で見た方がいい点はあります」


 会議室が少し静かになった。

 空調の風が資料の端をめくる。


 野上は、片瀬の研修メモを開いた。


「まず、チーム研修では論点整理が早かったです。反面、実装レビューで細かく突っ込まれた時の返答は短めでした」


「レビュー慣れの問題ですか」


 瀬尾が聞いた。


「その可能性があります。もう一つ、第一開発部の案件で使う帳票や設計書の書式に、どのくらい早く慣れるか。これは配属してみないと分かりません」


 久我は資料をめくった。


「書式は、うちで教えます。言語はJavaですし、研修と大きくは外れません」


「なら、そこは大きなリスクではなさそうですね」


 佐伯はメモを取った。

 書式、言語、レビュー返答。


 どれも、現場で慣れれば済むように見えた。


「質問フォームは未使用でしたが、課題の出来を見る限り、分かっていたから使わなかった可能性もあります」


 野上は、そこで一度言葉を切った。


「ただ、詰まった時に、どの粒度で聞くかはまだ見えていません。これは片瀬さんだけでなく、今年の方式だと全員見えにくいです」


「全員、ですか」


「はい。動画と確認テストでは、答えに向かう力は見えます。答えの場所が分からない時にどう動くかは、別です」


 久我は、背もたれから体を起こした。


「うちが忙しいのは事実です。でも、忙しいからこそ、全部聞いてくる新人より、まず自分で調べる新人がいい」


 その言い方にも、合理性があった。


 第一開発部には、質問に一時間付き合う余裕がない。

 だから自走できそうな新人が欲しい。


 片瀬は、まさにその条件に見えた。


「片瀬さんは第一開発部候補で進めましょう」


 瀬尾が言った。


 佐伯は、配属先欄に第一開発部と入力した。

 セルが青く塗られる。

 候補は片瀬だけではなかった。

 確認テストで一位の新人は、インフラ動画の章だけ進捗が遅れていた。別の新人は、コード課題は速いが、チーム研修で他人の意見を待つ時間が長かった。


 片瀬は、そのどちらにも当てはまらない。

 点数が高く、手が早く、周りも見ている。書式やレビュー返答の不安を足しても、忙しい部署へ出す理由の方が多かった。


 佐伯は、野上の言葉をメモ欄の端に残した。


『レビュー返答、書式適応、詰まった時の動きは配属後確認』


 ただ、その一文は、配属先を変えるほどの重さを持たなかった。


「次に三好蓮さんです」


 佐伯は、数行下の名前を選択した。


「文系出身。確認テストは中位。課題提出は二件遅れましたが、最終的には全件完了しています」


 質問フォームの欄だけが、他の新人より長い。


 Gitのブランチ。

 SQLのJOIN。

 テストケースの境目。

 既存コードの読み方。


 佐伯は、要約しながら読み上げた。


「質問は多いです。面談でも、既存コードを読むのが不安だと話しています」


 久我は、すぐに首を横へ振った。


「うちは厳しいです。今の案件に入れたら、本人もしんどいと思います」


「第二開発部で受けます」


 野上が言った。


 佐伯は顔を上げた。


「いいんですか」


「保守チームなら、六月は比較的落ち着いています。既存コードを読む練習には向いていますし、質問を作れる人なら伸ばせます」


「三好さんは質問が多いですが」


「多い方が見えます。少なくとも、どこで止まっているかは分かる」


 野上は、三好の質問フォームを見ていた。


「この人は、分からない場所に印を付けられます。そこからなら教えられます」


 佐伯は、第二開発部と入力した。

 片瀬の行の少し下で、別のセルが青くなる。


 同じチェックシート。

 同じ完了済み。


 その下に、二人の配属先が分かれて表示された。


 片瀬実里、第一開発部。

 三好蓮、第二開発部。


 誰も悪意を持っていない。

 誰も研修を軽く見ていない。


 数字を見て、面談を見て、チーム研修での振る舞いを見て、現場の忙しさを考えた。


 そのうえで、判断した。


 佐伯は表を保存した。

 ファイル名の末尾に、確定、と付ける。


 小さな保存音が鳴った。

 会議室の誰も、それを気にしなかった。

 佐伯だけが、保存済みの文字を一度見直した。

 確定という二文字は、思っていたより強い言葉に見えた。

 その音だけが、やけに澄んでいた。


 その日の夜、片瀬実里は駅前の小さな居酒屋にいた。


 研修最終日だからと、同期の何人かが声をかけ合った。十六人全員ではない。それでも、長いテーブルの一つが埋まるくらいには集まった。


 薄いグラスの中で、氷が小さく鳴った。

「終わったね、二ヶ月」


 三好蓮が、烏龍茶のグラスを両手で持って言った。


「チェックシート、全部丸になった時、ちょっと感動した」


「分かる。これでやっと仕事できる感じする」


 片瀬も笑った。

 動画は分かりやすかった。課題も出せた。チーム研修では、要件整理も画面遷移も形にできた。


「でもさ、配属先のプロジェクトって、研修と同じJavaなのかな」


「Javaって聞いたよ。たぶん」


「たぶんが一番怖い」


「書式も違うんじゃない? 設計書とか、会社ごとに方言ありそう」


「それは慣れでしょ」


 誰かが軽く言った。

 片瀬も、そうだと思った。


 言語が違っても調べればいい。

 書式が違っても、見本を見れば合わせられる。

 三好が、箸袋を折りながら小さく言った。


「俺は、質問先が分からなかったらどうしようって思ってる」


「三好は質問できるから大丈夫でしょ」


「質問が多すぎて怒られないかが不安なんだよ」


 また笑いが起きた。


 片瀬は、グラスの水滴を指で拭った。


「私は、聞く前にちゃんと整理しないとって思う」


「片瀬さんは整理できるから大丈夫だよ。チーム研修でも助かったし」


「そうかな」


「そうだよ。第一開発部でしょ。すごいじゃん」


 すごい、という言葉はうれしかった。

 けれど、片瀬の胸の奥で、薄い紙が一枚だけ残った。


 第一開発部は忙しいらしい。

 忙しい場所で聞くなら、ちゃんとまとめてから聞かなければいけない。


 それは不安というほどの形をしていなかった。

 飲み会が終わる頃には、グラスの水滴と一緒に、指先から消えていた。

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