第73話「質問が少ないのは、順調ですか」
四月一日の研修室は、新しいノートパソコンの匂いがした。
箱から出したばかりのACアダプタが机の下に並び、十六人分のキーボードが、まだ同じ薄い音を立てている。
佐伯玲奈は、入口横の席で出席表に丸を付けた。
名前を呼ぶたび、新人たちが少し背筋を伸ばす。
「今日から二ヶ月、エンジニア職の基礎研修に入ります。動画、課題、確認テスト、週一回の質問枠を組み合わせます」
説明しながら、佐伯は前方のモニターに研修管理画面を映した。
進捗率。
課題提出。
確認テスト。
質問フォーム。
項目は整っていた。
去年より見やすいくらいだった。
「動画は各自のペースで進められます。ただし、標準日程から大きく遅れた場合はこちらから声をかけます」
十六人がうなずいた。
その中で、片瀬実里は一番前の列に座っていた。
黒いリュックを足元にまっすぐ置き、配られた紙の右上に小さく日付を書いている。
情報系学部卒。
内定者時代の適性テストも上位。
面接では、卒業研究で作ったWebアプリの画面を見せながら、認証周りで詰まった話をしていた。
佐伯の手元の名簿には、そう書いてある。
一方、三好蓮は後ろから二列目だった。
文系出身で、プログラミングスクール経験あり。面接では明るく話すが、技術の説明になると一度言葉を探す。
どちらも採用したかった。
だから採用した。
*
一週目の金曜日、研修管理画面は予想よりきれいだった。
Java基礎の動画視聴率は九割を超え、Gitの小課題もほとんど提出されている。
外部動画は、正直によくできていた。
説明の順番が揺れない。
聞き逃したら戻れる。
倍速で聞く人もいれば、同じ章を二回見る人もいる。
去年のように、講師の声が小さいとか、ホワイトボードの字が読めないとか、そういう苦情はない。
佐伯は画面をスクロールした。
片瀬実里。
進捗率百十二パーセント。
課題提出、全件期限前。
確認テスト、九十六点。
「早いな」
思わず口に出た。
人事部の隣席から、同僚の大町が顔を上げる。
「誰ですか」
「片瀬さん。標準日程より一日半くらい先に進んでる」
「優秀な子ですね」
「うん。課題のコメントも丁寧」
佐伯は、片瀬の提出したコードを開いた。
人事の佐伯に細かい良し悪しは分からない。けれど、変数名が読みやすく、コメントも過不足がないように見えた。
動画研修は、個人差が数字で見える。
それは新方式の利点だった。
同じ画面で、三好蓮の名前を見る。
進捗率八十六パーセント。
課題提出、二件遅れ。
確認テスト、七十二点。
ただし、質問フォームの投稿数は一番多かった。
『Gitでブランチを切る意味がまだ腹落ちしていません。動画では作業を分けるためと説明されていましたが、個人課題でも必要ですか』
『SQLのJOINで、結合条件を間違えた時に結果が増える理由が分かりません』
『テストケースを書く時、正常系と異常系の境目はどこで考えるのでしょうか』
質問は長い。
けれど、読めば何に詰まっているか分かった。
佐伯は、三好の名前に黄色い印を付けた。
遅れ気味。質問多め。
次に片瀬の行を見る。
質問フォーム、未使用。
佐伯は一度手を止めた。
けれど、点数と進捗を見て、印は付けなかった。
問題なし。
そう判断する材料の方が多かった。
*
五月十五日と十六日は、集合型のチーム研修だった。
二ヶ月すべてを動画にするのは不安だと、瀬尾が残した二日間だ。
講師は瀬尾自身と、設計責任者の辻村が担当した。
研修室の前方には、架空の予約管理システムの仕様書が配られている。
実装はしない。
やるのは、要件整理、画面遷移、例外ケース、テスト観点の洗い出しだった。
「お客様が予約を変更する、という要件があります」
辻村は白板に太い字で書いた。
「変更できるとは、何を変えられることですか。日付、人数、プラン、支払い方法。全部同じ扱いでいいですか」
新人たちは四人ずつのチームに分かれた。
紙の仕様書に線を引き、付箋を貼る。
片瀬のチームは、最初の三十分で議事メモの場所を決めた。
片瀬が共有フォルダにファイルを作り、画面遷移案のたたき台を置いたからだ。
「先に、変更できる項目とできない項目を分けませんか」
片瀬が言うと、同じチームの新人がうなずいた。
「キャンセル料が発生する時間も別で見た方がいいかも」
「じゃあ、それは例外ケースに入れます」
片瀬の手は早かった。
議事メモに論点を並べ、誰かの発言を短く整えて残す。
遅れている同期には、該当する動画の章番号を教えた。
「テスト観点は、昨日の動画の七章が近いです。正常系と異常系を分けるところ」
声は大きくない。
けれど、机の上の紙が片瀬の方へ集まっていく。
佐伯は後ろから見ていた。
リーダーを決めたわけではない。
それでも、片瀬が中心に見えた。
瀬尾も途中で足を止めた。
片瀬のチームの画面遷移案を見て、少しだけ口元を緩める。
「ここ、例外ケースを先に出せているのはいいですね。実装前に揉めるところです」
「ありがとうございます」
片瀬は短く答えた。
ほめられて浮つく様子はない。
ただ、レビューの時間になると、返答は短かった。
「この変更不可の条件、誰に確認しますか」
「仕様担当です」
「仕様担当がいない時は?」
「上長に確認します」
「上長も分からなかったら?」
片瀬は一拍置いた。
「確認先を探します」
間違いではない。
ただ、辻村は何か言いかけて、次のチームへ移った。
*
翌週の技術質問枠には、野上真琴が入った。
研修室の後ろに座り、質問フォームを開きながら新人を呼ぶ。
三好はノートを二冊持ってきた。
「JOINで増える理由、まだ少し怪しいです」
「どこまで分かっていますか」
「片方の表に複数行あると増えるのは分かるんですが、実際のデータでどこを見ればいいのかが分からなくて」
野上は、三好のノートに小さな表を書いた。
説明を聞きながら、三好は何度も「そこです」と言った。
次に片瀬が呼ばれた。
「片瀬さん、質問フォームは使っていないですね。困っているところはありますか」
「今のところ大丈夫です」
「課題はかなり早いです。無理に進めていませんか」
「大丈夫です。動画で戻れるので、分からないところは見返しています」
答えは整っていた。
佐伯なら、安心したと思う。
野上は、片瀬の提出課題を開いた。
「基礎はかなり強いですね」
「ありがとうございます」
「ただ、現場に出ると、動画みたいに章で分かれていません。分からない時に、どこから聞くかが大事になります」
「はい」
「その練習は、まだ少ないかもしれません」
「はい。気をつけます」
会話はそこで終わった。
片瀬は椅子を戻し、次の動画へ進んだ。
野上はしばらく画面を見ていた。
夕方、佐伯の社内チャットにメッセージが届いた。
『片瀬さん、質問が少ないのが少し気になります』
佐伯は、研修管理画面をもう一度開いた。
片瀬の進捗率は百二十パーセントを超えている。
確認テストも上位。チーム研修の評価欄にも、論点整理が早いとある。
佐伯は返信欄に指を置いた。
『ありがとうございます。配属後、様子を見ます』
送信ボタンを押すと、画面の下に小さく既読が付いた。
それ以上、何も起きなかった。
研修室では、片瀬が次の動画を再生していた。
イヤホンから漏れる講師の声は小さく、佐伯の席までは届かなかった。




