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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『チェックシートは全部埋まってます』

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第72話「二ヶ月も現場を止められない」

「今年、このスケジュールのままでは無理です」


 十二月十八日、午後四時。

 会議室三の長机に、来年度の新卒研修計画表が広げられていた。


 紙の左端には四月一日から五月三十一日までの日付が並び、右へ目を移すと、フロントエンド、バックエンド、インフラ、仕様設計、テスト設計、コードレビューという講義名が続く。


 さらに右端には、講師の名前が入っていた。

 去年までは、その欄が埋まっていることを頼もしく見ていた。


 今年は違った。


「久我さん、第一開発部から六コマ出せませんか」


 人事部の佐伯玲奈は、ボールペンの先で表の一列を押さえた。

 インクの出が悪く、紙の端に薄い青い点が残る。


 第一開発部の久我悠斗は、腕を組んだまま椅子の背に体重を預けた。

 目の下に、昼休みを削った人の色があった。


「六コマどころか、一コマでも厳しいです。四月に本番移行が二つあります。新人研修で半日抜けたら、その分を誰かが夜に戻すことになります」


「去年は久我さんがレビュー講義を持ってくださいましたよね」


「去年の自分に言ってください。たぶん逃げます」


 冗談の形をしていたが、声は乾いていた。

 佐伯は笑えず、表の別の欄に視線を移した。


 第二開発部の野上真琴は、ノートパソコンの画面を少し下げた。

 去年のテスト設計講義を担当した人だ。講義後のアンケートで一番評価が高かった。


「うちも五月に保守契約の更新が重なります。二日なら出せます。でも、去年みたいに毎週は無理です」


「野上さんでも、ですか」


「私でも、というより、私だから止まる仕事があります」


 野上は淡々と言った。

 責めているのではない。表の空欄と同じ温度で、事実を置いただけだった。


 佐伯は、会議室の壁時計を見た。

 秒針の音が妙に大きい。


 株式会社水瀬システムズは、社員三百二十名の中堅システム開発会社だ。

 客先常駐、受託開発、自社プロダクト保守を抱えている。


 毎年四月には、新卒エンジニアを十数名採用する。

 今年の内定者は十六名。


 研修は、会社が大事にしてきたものだった。

 現場のエンジニアが講師を務め、二ヶ月かけて基礎を教える。フロントの人が画面を見せ、バックエンドの人がログを見せ、インフラの人がサーバーの考え方を話す。


 最後にはチーム課題もあった。

 小さな仕様書を読ませ、画面遷移を考えさせ、テスト観点を出させる。


 負担は重い。

 けれど、講師たちは新人の顔を覚えた。


 質問が遅い人。

 分かったと言いながら手が止まる人。

 逆に、うるさいほど聞くけれど切り分けが早い人。


 去年の配属申し送りメモには、そういう短い言葉が残っている。


『レビューで黙り込むが、事前資料があると強い』


『質問は多いが、切り分けが早い』


『コードは早い。仕様変更時に確認が抜ける』


 佐伯は、そのメモを採用フォルダの奥で見つけた時、少し驚いた。

 評価表よりも、人の手が入っている感じがしたからだ。

 去年の六月、そのメモを受け取った第二開発部のリーダーは、新人の席を先輩の隣ではなく、質問しやすい島の端に置いた。

 レビューで黙り込む新人には、会議の前日に資料を渡した。質問の多い新人には、最初から十五分の確認枠を入れた。


 それで劇的に何かが変わったわけではない。

 ただ、一年たった今も誰も辞めていない。


 佐伯はその時、申し送りという言葉を少し軽く見ていた。

 今は、あの短いメモを誰が書くのかが決まっていない。


「研修をやめたいわけではありません」


 開発本部長の瀬尾拓真が、机の上で指を組んだ。

 元バックエンドエンジニアで、会議ではいつも結論より先に条件を並べる。


「ただ、今年の案件状況で去年と同じ講師体制は組めない。四月から六月まで、クラウド移行と大型受託が重なります。育休に入るメンバーもいる」


「では、採用人数を減らすべきでしたか」


 佐伯が言うと、瀬尾は首を横に振った。


「それも難しい。現場は人が足りない。採用しないと来年も同じです」


 会議室の空調が低くうなった。

 ホワイトボードの端に貼られたマグネットが、かすかに震えている。


「外部の研修動画を使う案があります」


 佐伯は、別の資料を開いた。

 研修サービスの見積書とカリキュラム一覧。


「Java基礎、SQL、HTTP、Git、単体テスト。確認テストと課題もあります。進捗管理画面も人事で見られます」


「動画だけですか」


 野上がすぐに聞いた。


「基本は動画です。ただ、質問フォームを設置します。週一回、技術質問枠も残せないかと」


「週一なら、うちから出せるかもしれません」


 野上は言い、すぐに眉を寄せた。


「ただ、課題が解けることと、現場で聞けることは別です。そこは切り分けてください」


「どういう意味ですか」


「研修課題は、答えがあるように作られています。現場のコードは、答えの場所から探します。質問も、何を聞くかを自分で作らないといけない」


 佐伯はメモを取った。

 ペン先が紙をこする音が、会議室に小さく残る。


「質問フォームと週一質問枠で拾えませんか」


「拾える人もいます。でも、拾えない人もいます。分からないことを、分からないと言える人ばかりではないので」


 久我が短く息を吐いた。


「とはいえ、現場から講師を出せないのは事実です。うちは六月には新人を受け入れる側でもあります。研修で二ヶ月現場を止めて、配属時に何も受け入れられません、では本末転倒です」


 その言い方はきつかった。

 けれど、間違ってはいなかった。


 佐伯は、去年の研修計画表と今年の案件予定表を並べた。

 紙の上では、どちらも同じ四月だった。


 片方には講義名。

 もう片方には納期、移行日、検収予定日。


 同じ日付が、別の重さで埋まっている。


「折衷にしましょう」


 瀬尾が言った。


「基礎は外部動画に寄せる。課題と確認テストは人事で進捗を見る。技術質問枠は週一回。五月中旬に一日か二日、集合型のチーム研修を入れる。上流工程なら、私か設計責任者クラスで持てます」


「実装ではなく、要件整理やテスト観点ですか」


「そうです。現場の若手を毎週抜くよりは、負荷が読める」


 佐伯は、表の空欄を見た。

 まだ不安は残っている。


 それでも、去年と同じ表を守ろうとして、全部を壊すわけにはいかなかった。


「では、この案で組み直します」


 佐伯は研修計画表を開き直した。

 講師名の欄にカーソルを合わせる。


 去年の名前を、一つずつ消した。


 野上真琴。

 久我悠斗。

 プラットフォーム部の井坂。

 第二開発部の古賀。


 消すたびに、表が少し軽くなる。

 軽くなった分、どこかが見えなくなっていく気もした。


 佐伯は新しい欄を作った。


 外部動画。

 課題。

 確認テスト。

 チェックシート。


 最後に、五月中旬の二日分だけ、集合型チーム研修と入れる。


 講師欄には、瀬尾と書いた。


 その下の申し送り欄で、佐伯の指が止まる。

 去年は、講師名の横に自然と書き手がいた。新人の癖を見た人が、そのまま短い言葉を残した。


 今年は、進捗率と点数なら残る。

 質問フォームも残る。


 けれど、分かったと言った時の声の小ささや、レビューで黙った時の手の位置までは、どこにも自動で保存されない。


 佐伯は申し送り欄に、仮、とだけ入れた。


 セルの枠線がきれいに整った。

 会議が終わっても、野上はすぐに席を立たなかった。

 消えた講師名の列を見て、何かを数えるように指先を机に置いていた。

 それだけで、計画は前へ進んだように見えた。

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