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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『欠員補充しただけのつもりだった』

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第71話「書類の場所を聞かれなくなった日」

 その日は、朝から雨だった。


 ハルカゼリンクの入口に置いた傘立ては、九時半の時点でいっぱいになっていた。床に水滴が落ち、来客用のスリッパの前に小さな水たまりができている。


 三倉紗和が来てから、一か月と少しが過ぎていた。棚卸しは終わった、とはまだ言えない。終わっていない場所に、付箋が貼られるようになっただけだ。


 成瀬航平は、以前ならそこでしゃがみ込んで雑巾を探していた。


 だが、その朝は違った。


 受付横の小さな棚に、薄いグレーの箱が置かれていた。

 ラベルには「雨天時」と書いてある。


 中には、吸水マット、替えの雑巾、ビニール袋、来客用タオル。


 成瀬が箱を見ていると、営業の若手が自分でマットを広げた。


「三倉さんに、ここにあるって聞いてます」


 そう言って、何事もなかったように席へ戻っていった。


 成瀬は、少し遅れて頷いた。


 聞かれなかった。


 それだけのことに、体がまだ慣れていなかった。


 成瀬は、自分の席へ戻る途中で二度振り返った。誰かが呼ぶ気がしたからだ。


 だが、営業の若手は濡れた床を拭き、開発の大野は傘を畳んで自席へ向かい、森下は郵便受けから封筒を取っていた。


 それぞれが、自分の手元の小さなことを処理していた。



 午前十時、予定外の入社手続きが入った。


 来月入社予定だった営業アシスタントが、家庭の都合で入社日を一週間早めたいと言ってきたのだ。


 以前なら、成瀬の席に人が集まった。


 雇用契約書はどこか。

 社員証は誰が作るのか。

 PCは間に合うのか。

 健康診断はいつ受けてもらうのか。


 今日は、紗和が机の上に一枚のチェックリストを置いた。


 入社前。

 入社当日。

 入社後一週間。


 項目の横には、担当欄がある。


 雇用契約書、成瀬確認。

 労務書類、社労士確認。

 PC貸与、開発確認。

 アカウント発行、レルテ連携。

 席と備品、総務。


「労務書類は、社労士さんに確認を投げています」


 紗和が言った。


「PCは大野さんに在庫を確認中です。アカウントは、昨日レルテさんから暫定手順が来ています。ただ、管理者承認は社内で必要です」


「俺は何を見ればいい?」


「雇用条件の最終確認だけです」


 だけ。


 その言葉が、成瀬には少し怖かった。

 何かを見落としているような気がする。


 しかし、チェックリストには、誰が何を見るかが書いてある。


 成瀬は雇用条件の欄にだけ目を通し、電子承認を押した。


 五分では終わらなかった。

 健康診断の日程は未定のまま残り、社員証は初日だけ仮カードになる。だが、未定の欄には、未定と書かれていた。



 十一時半、契約更新の件で止まった。


 請求管理ツールの更新条件が変わる。料金体系が変わり、最低利用ID数が増えるらしい。


 通知は、退職者のメールボックスで二週間止まっていた。

 レルテとの棚卸しで見つかったものだ。


「営業で判断していいですか」


 国枝が言った。


「利用ID数の話なら、営業側の顧客数に関係します」


 森下が首を振る。


「支払額が変わるなら、経理でも見ます」


 大野も画面を見ていた。


「API連携してるので、契約プランが変わると開発にも影響あります」


 三人が同時に成瀬を見た。


 成瀬は、反射的に言いそうになった。


 じゃあ、俺が見る。


 その言葉は、喉のところで止まった。


 紗和が、契約更新の確認表を机に置いた。


「営業確認、経理確認、開発確認の三つが必要です。成瀬さんの確認は最後です」


「最後?」


「はい。先に成瀬さんが抱えると、三部署の確認が止まります」


 国枝が苦笑した。


「耳が痛いです」


 森下も小さく頷いた。


「でも、その方が助かります」


 成瀬は確認表を見た。


 営業、経理、開発。


 空欄が三つある。


 その空欄を、自分の名前で埋めるのは簡単だった。

 今まで、ずっとそうしてきた。


「分かった。国枝、まず利用ID数。森下さん、費用差分。大野、API影響。十五時に戻そう」


 三人がそれぞれ頷いた。


 仕事は止まった。


 だが、成瀬の机で止まったわけではなかった。



 午後一時、PC故障の連絡が来た。


 営業のノートパソコンが起動しない。午後三時から顧客デモがある。


 以前なら、成瀬が大野を呼び、代替PCを探し、誰のアカウントでログインするかをその場で決めていた。


 今日は、紗和がPC貸与台帳を開いた。


「予備機は一台あります。HLL-PC-031。前回の棚卸しで初期化済みです」


 レルテから届いた暫定手順には、代替機利用時のアカウント発行依頼フォームが添付されていた。


 紗和はフォームを開き、必要項目を営業本人に確認した。


 所属。

 利用サービス。

 利用期限。

 顧客デモ用の権限。


 送信してから十分後、レルテの一次回答が来た。


『権限付与には、御社管理者の承認が必要です。添付の確認手順に沿って、承認者を指定してください』


 署名は導入担当の酒井だった。下の技術確認欄に、田中美咲の名前が小さく入っている。


 成瀬は大野を呼び、確認手順を一緒に開いた。

 承認ボタンは、成瀬の画面には出ない。管理者欄に残っていた退職者の名前を、大野が現任の担当者へ差し替えてから、ようやく押せるようになった。


 顧客デモには間に合った。

 ぎりぎりだった。



 昼に外へ出るつもりだった。


 結局、成瀬がビルを出たのは午後二時十分だった。雨は弱くなっているが、路面はまだ濡れている。


 近くの定食屋は、昼のピークを過ぎていた。

 白い暖簾に「よしえ食堂」と染め抜かれている。以前、一度だけ入った店だった。厨房から、出汁の匂いが流れてくる。


 カウンターの奥で、年配の女性が味噌汁をよそっていた。

 成瀬は焼き魚定食を頼み、端の席に座った。


 遅い昼食だった。

 それでも、席に座って食べている。


 スマホは鳴った。

 ただ、通知のほとんどは自分宛ではなかった。


 契約更新確認表に、国枝が数字を入れた。

 森下が費用差分を添付した。

 大野がAPI影響なし、とコメントした。


 成瀬は味噌汁を一口飲んだ。


 熱い。


 それだけで、自分が昼を食べていることに気づいた。



 午後三時、契約更新の確認表が戻った。


 営業、経理、開発の欄は埋まっている。

 最後の承認欄だけが空いていた。


 成瀬はコメントを読み、更新条件を確認し、承認した。


「終わりました」


 紗和が言った。


「止まりましたけどね」


 成瀬は苦笑した。


「止まった場所が、前と違いました」


 紗和はそれだけ言って、求人票の紙を成瀬に戻した。


 面接の日に赤を入れたものだった。


 総務、庶務、雑務全般。


 赤線の下に、紗和の小さな字がある。


 判断。

 記録。

 承認。


 その横に、成瀬が後から書き足したメモも残っていた。

 PC貸与は総務か、開発か。

 契約更新は営業か、経理か。

 社判は誰が預かり、誰が履歴を見るのか。


「欠員補充しただけのつもりだったんです」


 成瀬は言った。


 紗和は、すぐには返事をしなかった。


 代わりに、赤字の入った求人票を指で少し押した。


「次に出すなら、ここは直した方がいいと思います」


「雑務全般、ですよね」


「はい」


 決め台詞のようなものはなかった。

 ただ、紙が一枚戻ってきただけだった。



 夕方、成瀬は求人票のテンプレートを開いた。


 仕事内容欄に、まだ同じ文字が残っている。


 総務、庶務、雑務全般。


 カーソルを合わせ、削除する。


 すぐに綺麗な言葉は出てこなかった。


 総務。

 労務。

 契約管理。


 そこまで書いて、手が止まる。


 PC貸与。

 アカウント管理窓口。

 社判管理。

 健康診断。

 入退社手続き。


 どこまで書くべきか、まだ分からない。


「三倉さん」


 成瀬は声をかけた。


「はい」


「求人票の仕事内容、あとで一緒に見てもらえますか」


 紗和は顔を上げた。


「はい。現状の業務一覧から拾いましょう」


 成瀬は頷いた。


 空欄を、一人で埋めようとはしなかった。


 外では、雨が上がっていた。

 傘立ての下には、朝の水たまりがもうなかった。


 誰かが拭いた跡だけが、床に薄く残っていた。


 その跡を見て、成瀬はようやく、自分が今日一度も雑巾を探していないことに気づいた。

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