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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『欠員補充しただけのつもりだった』

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第70話「知っている会社だから、ではありません」

 三倉紗和が最初に作った表には、空欄が多かった。


 契約書管理。

 保管場所、営業共有フォルダ、経理共有フォルダ、社長個人フォルダ。


 PC貸与台帳。

 最終更新、半年前。


 SaaSアカウント一覧。

 未作成。


 社判使用履歴。

 紙のノートあり。記入漏れあり。


 成瀬航平は、その表を見て、最初に少し安心した。

 表になっただけで、片付いたように見えたからだ。


 だが、紗和は空欄のセルに薄い黄色をつけていった。

 黄色が増えるほど、表はきれいになるどころか、会社の散らかり方をはっきり見せ始めた。



「契約書、三箇所にあります」


 紗和は朝の小会議でそう言った。


 参加者は成瀬、営業の国枝、経理の森下、開発の大野。机の中央には、紗和が印刷した一覧表が置かれている。


「三箇所?」


 国枝が眉を寄せた。


「営業共有、経理共有、成瀬さんの個人フォルダです。原本の場所は、紙の契約書だけ別管理になっています」


「営業共有にあるのが最新版です」


 国枝が言った。


 森下がすぐ首を振った。


「請求時に見るのは経理共有です。営業共有の見積条件と、経理共有の契約条件が違うことがあります」


 国枝が言葉を止めた。


 成瀬は、昨日の請求額違いを思い出した。


「成瀬さんの個人フォルダは」


 紗和が聞いた。


「最終確認用のつもりだった」


「つもり、ですね」


 紗和は責めなかった。

 ただ、一覧表の保管場所欄に「暫定」と書いた。


 国枝が腕を組んだ。


「でも、契約条件は営業が一番分かっています。総務で持つより、営業に戻した方が早くないですか」


 成瀬は頷きかけた。


「それもありか」


 紗和がペンを置いた。


「契約の内容判断は営業でいいと思います。ただ、更新期限と原本の所在は営業だけに置くと、担当変更で消えます」


「消えますって」


「前職で、消えました」


 それ以上、紗和は言わなかった。


 会議室が少し静かになった。



 昼前、開発の大野が古いノートパソコンを持ってきた。


「これ、誰のPCでしたっけ」


 銀色の天板には、管理番号のシールが貼ってある。

 HLL-PC-014。


 成瀬はPC貸与台帳を開いた。


 番号はあった。

 ただし、使用者欄は空白だった。


「柴田さんが更新してなかったのかな」


 成瀬が言うと、紗和は首を横に振った。


「台帳の最後の更新が半年前です。柴田さんだけの問題ではないと思います」


 大野が画面を覗いた。


「あ、それ、たぶん退職した橋本さんのです。開発で一時的に使ってました」


「退職日は」


「ええと、三ヶ月前です」


 紗和はSaaSアカウント一覧のシートを開いた。


 一覧はまだ作りかけだった。

 名前、部署、メールアドレス、利用サービス、権限、退職日。


 橋本の行はなかった。


「まず、退職者の棚卸しが必要です」


「それ、総務でやるんですか」


 大野が言った。


「総務だけではできません。どのサービスに権限があるかは、開発と営業に聞かないと分かりません」


「ですよね」


「なので、聞きます」


 紗和はそう言って、大野の方へ一覧表を向けた。


 大野は少しだけ笑った。


「逃げられないやつですね」


「はい」



 午後三時、成瀬はレルテの資料を開いた。


 株式会社レルテ。

 情シス向けマネージドサービス。

 SaaSアカウント管理、端末台帳、退職者権限棚卸し、運用設計。


「レルテなら、知ってます」


 成瀬が言うと、紗和は別の資料を机に置いた。


 外注候補比較表。


 成瀬は、少し気まずくなった。


 候補は三社あった。


 一社目は地元のIT保守会社。月額が安く、訪問対応が早い。ただ、SaaS権限管理は対象外。


 二社目はアカウント管理専用のクラウドサービス。導入は早い。ただ、自社で運用ルールを作る必要がある。


 成瀬は二社目の欄に目を止めた。


「これ、早いならいいんじゃないですか」


「早いです」


 紗和は頷いた。


「ただ、誰が退職者を登録するか、誰が権限を消すかは、こちらで決める必要があります」


 三社目がレルテ。費用は一番高い。初期整理に時間もかかる。その代わり、小規模企業向けの運用設計と退職者アカウント棚卸しが含まれていた。


「知っている会社だから、ではなく」


 紗和はそこまで言って、言葉を止めた。


 代わりに、比較表の三つの欄を指差した。


 退職者アカウント棚卸し。

 SaaS権限管理。

 小規模企業向け運用設計。


「今回、空欄が多いのはここです」


 成瀬は表を見た。


 レルテの欄には丸がついている。

 だが、費用の欄には、ほかの二社より大きな数字が入っていた。


「高いな」


「はい」


 紗和はすぐ認めた。


「開始も、来週すぐではありません」


「じゃあ、安い方で」


 成瀬は言いかけて、PC貸与台帳の空欄を見た。


 橋本。

 三ヶ月前に退職。

 使っていたPC、未確定。

 アカウント、未確認。


 安いかどうかを比べる前に、何を頼むのかがまだ分かっていない。


「一回、話を聞きましょう」


 成瀬は言った。



 レルテとのオンライン打ち合わせは、十日後に入った。正式な導入ではなく、棚卸し前の確認会という扱いだった。


 画面の向こうに出たのは、田中美咲という担当者だった。肩書きはバックエンドエンジニア。隣に、導入担当の酒井という男性の名前も表示されている。


「本日は、権限棚卸しシートの確認から始めます」


 田中は画面共有をした。


 サービス名。

 管理者。

 利用者。

 権限種別。

 退職者確認。

 契約更新通知先。


 列は分かりやすかった。


 問題は、ハルカゼリンク側がほとんど埋められないことだった。


「この、管理者の欄なんですが」


 田中が言った。


「請求管理ツールの管理者は、どなたですか」


 成瀬は国枝を見た。

 国枝は森下を見た。

 森下は首を横に振った。


「たぶん、前の営業リーダーです」


 国枝が言った。


「その方は現在」


「退職しています」


 田中の手が止まった。


 画面共有のカーソルが、管理者欄の上で動かなくなった。


「確認します。退職された方のメールアドレスが、現在も管理者として残っている可能性がありますか」


 紗和がメモを取りながら言った。


「可能性ではなく、確認対象です。こちらで退職者一覧を作ります。レルテさん側で、サービスごとの確認手順を出していただけますか」


「はい。持ち帰って、手順を整理します」


 田中はすぐに答えたが、その声は少しだけ硬かった。


 田中は次の説明に進まなかった。


 酒井が、画面の端でマイクを入れた。


「この状態だと、先に御社側で管理者候補を確定していただく必要があります。弊社で代行できる範囲は、その後です」


 成瀬は返事をしようとして、言葉を探した。



 打ち合わせのあと、紗和は契約更新通知のメールボックスを確認した。


 退職者のアカウントは、三つ残っていた。


 一つは、テスト用の古いアカウント。

 一つは、営業資料の共有だけに使われていたもの。


 最後の一つは、請求管理ツールの契約更新通知先だった。


 通知メールは、二週間前に届いていた。


 未読のまま、退職者のメールボックスに残っている。


 件名は、契約更新条件変更のお知らせ。


 成瀬は画面を見て、背中が少し冷たくなった。


「これ、誰も見てなかったのか」


 紗和はすぐには答えなかった。


 未読メールの横で、日付だけが静かに光っていた。


 成瀬は、その日付を見ながら、朝から何度も聞いた「助かりました」という言葉を思い出した。


 誰かが助かっている間に、別のどこかで未読のまま残るものがある。


 それを、誰も一覧にしていなかった。


 成瀬は画面を閉じなかった。閉じれば、また見えなくなる気がした。


 未読は、消えない。

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