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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『欠員補充しただけのつもりだった』

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第69話「欠員補充しただけのつもりだった」

 求人票の仕事内容欄には、最初こう書いた。


 総務、庶務、雑務全般。


 成瀬航平はその七文字を見て、少しだけ迷った。

 それから、何も直さずに保存した。


 ほかにどう書けばいいのか、分からなかった。



 柴田奈緒の退職まで、あと三週間弱だった。


 ハルカゼリンクの会議室Bには、前日と同じ顔ぶれが集まっていた。成瀬、柴田、経理の森下、営業の国枝、開発の大野。机の上には、印刷した求人票と、柴田が作った引き継ぎメモが置かれている。


 引き継ぎメモは、A4で八枚あった。


 郵便物の受け取り。

 備品発注。

 名刺発注。

 会議室予約。

 来客対応。

 健康診断。

 社判管理。

 契約書保管。

 入退社時の書類。

 PC貸与。


 箇条書きの一つ一つは短い。

 だが、紙をめくるたびに、成瀬は昨日の鍵束の音を思い出した。


「派遣さん、短期で入れられないですか」


 国枝が言った。


「展示会前だけでも、名刺と来客まわりを見てもらえると助かります」


「派遣で来てもらっても、契約書と社判は渡せないです」


 森下が言った。


「あと、入社書類。個人情報が入るので、誰でもすぐ、というわけには」


 大野は腕を組んだ。


「PC初期設定だけなら外に出した方が早いです。うちは開発環境の整備で手いっぱいなので」


「じゃあ、総務ってどこまでが総務なんだ」


 成瀬は口に出してから、自分でも驚いた。


 誰もすぐには答えなかった。


 柴田が、引き継ぎメモの端を指で押さえた。


「私も、どこまでって聞かれると……来たものを受けていただけなので」


 来たもの。


 成瀬はその言葉を、ホワイトボードに書きそうになってやめた。

 会社の仕事を、来たもの、と呼ぶのは何か違う気がした。


 でも、その違和感を言葉にできなかった。



 その日の夕方、成瀬は株式会社レルテの湊涼介にメッセージを送った。


 湊とは、スタートアップ向けの勉強会で何度か顔を合わせている。ハルカゼリンクが社内アカウント管理で困ったとき、レルテの資料を見せてもらったこともあった。


『総務の後任募集を出すことになりまして。求人票、ちょっと見てもらってもいいですか』


 十分後、返信が来た。


『いいですよ。』


 次の湊からの返事は早かった。


『この“雑務全般”って、何を含めてます?』


 成瀬は画面を見た。


 入力欄に、いくつか書きかける。


 備品。

 契約書。

 社判。

 入退社。

 健康診断。

 PC。


 そこで止まった。


 PCは総務なのか。

 契約書の内容確認は営業なのか。

 社判を押していいかどうかは、誰が決めるのか。


 返信できないまま、五分が過ぎた。


『すみません、整理してから返します』


『それがいいと思います』


 湊の返信は、それだけだった。


 正解は書かれていない。

 だから余計に、成瀬の手元に求人票だけが残った。



 応募は、思ったより少なかった。


 年収は高くない。会社の規模は二十八名。総務担当は一人。仕事内容欄は、総務、庶務、雑務全般。


 一人目は、受付経験はあるが契約書管理は未経験だった。二人目は、給与計算を希望していたが、社判や備品の管理には首を傾げた。三人目は、面接の前日に辞退した。


 人材紹介会社の担当からは、「経験者はもう少し条件を見ると思います」と言われた。

 通話のあと、補足のメールも届いた。


『総務経験者ほど、業務範囲が曖昧な求人は慎重になります。登録済みの方に一人だけ近い経歴の方がいますが、条件確認が必要です』


 成瀬は求人票を閉じ、数分後にまた開いた。


 仕事内容欄を直そうとして、手が止まる。雑務全般と書けば曖昧になる。かといって、全部を書き出すと、行がいくらあっても足りない。


 社判管理、と入力する。

 その下に、契約書保管、と入力する。

 入退社手続き、と入れたところで、誰が最終確認をするのか分からなくなった。


 三倉紗和の履歴書が届いたのは、募集を出して五日目だった。


 三十歳。

 前職、総務担当。

 社員百二十名規模の中堅メーカーで、総務業務全般を担当。


 職務経歴書には、備品管理、契約書管理、社用車管理、健康診断、入退社手続き、経費処理補助、来客対応と並んでいる。


 成瀬は画面を見ながら、少し息を吐いた。


「こういう人を探してた」


 そう言ってから、すぐに思い直した。


 探していた、というより、来てくれたら助かる人だった。



 面接の日、三倉紗和は五分前に来た。


 薄いグレーのジャケットに、黒い鞄。履歴書を差し出す手は落ち着いていた。声は大きくないが、聞き返す必要はない。


「前職では、総務を一人で担当されていたんですね」


「はい」


 紗和は短く答えた。


「かなり幅広く見られていたようですが」


「幅はありました。ただ、一人で全部を持つ前提なら、次も同じ働き方は難しいです」


 成瀬は、用意していた質問の二つ目を飛ばした。


「同じ働き方、というと」


「窓口が一人に寄ることです。備品も、契約書も、社判も、PCも、健康診断も、全部同じ人に聞けばいい、という形です」


 紗和は責めるようには言わなかった。

 ただ、事実を置いた。


「弊社は、いままさにそうなっているかもしれません」


「求人票を拝見して、そう思いました」


 成瀬は少しだけ背筋を伸ばした。


「雑務全般、ですか」


「はい」


 紗和は鞄から、印刷した求人票を出した。

 仕事内容欄の「雑務全般」に、薄い赤線が引かれていた。


「ここが一番、確認したいところです」


 成瀬は赤線を見た。


 面接を受ける側が、求人票に線を引いてくるとは思っていなかった。



 条件面の話は、楽ではなかった。


 給与は、紗和の前職より少し下がる。入社日は即日ではない。退職後、しばらく休んでいたこともあり、週明けすぐからフルで、というわけにはいかないと言われた。

 紹介会社からも、条件を少し上げるか、少なくとも業務範囲を明記しないと辞退される可能性が高いと念を押された。


 成瀬も迷った。


 欠員補充なら、早く来られる人の方がいい。名刺発注も、郵便も、健康診断も、待ってくれない。


 だが、紗和は条件を一つ出した。


「入社後一ヶ月、業務棚卸しの時間をください」


「引き継ぎではなく、棚卸しですか」


「はい。何を総務で持つか、何を各部署に戻すか、何を外へ出すかを分けたいです。そこを決めずに私が受けると、また一人に寄ります」


 また。


 その言葉だけ、少し温度が違った。


 成瀬は、前職で何があったのか聞かなかった。

 聞いても、今ここで答える話ではない気がした。


「分かりました。給与条件は見直します。一ヶ月、棚卸しに使いましょう」


「ありがとうございます」


 紗和は頭を下げた。


 成瀬はそのときも、まだ思っていた。


 欠員補充としては、少し条件の多い人だ。


 それでも経験者だ。

 落ち着いている。

 来てくれれば、今よりは回る。


 そのくらいの認識だった。



 三倉紗和の初日は、梅雨入り前の曇った月曜日だった。


 柴田の席だった場所に、新しいノートパソコンと、仮の社員証が置かれている。机の上には、柴田が残した引き継ぎメモと、鍵束があった。


「まず、備品棚から案内しますね」


 柴田が言った。


 紗和は頷いたが、その前に机の上の求人票を見た。


 成瀬が面接時の資料を、そのまま置き忘れていたものだった。


「成瀬さん」


「はい」


「赤を入れてもいいですか」


「え?」


 紗和は赤ペンを借りて、仕事内容欄の「雑務全般」に、もう一度線を引いた。


 それから、余白に小さく書いた。


 誰が判断するか。

 誰が記録するか。

 誰が承認するか。


 成瀬は文字を見た。


 備品棚の場所を覚える日だと思っていた。


 けれど、紗和が最初に見ているのは、棚ではなかった。


 成瀬は赤線の意味を、まだ説明できなかった。

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