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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第16章『欠員補充しただけのつもりだった』

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第68話「社長の一日は、十五分ずつ削られる」

 成瀬航平のスマホは、朝七時四十二分に震えた。


 洗面所で歯ブラシをくわえたまま画面を見ると、社内チャットの通知が三件並んでいた。


『成瀬さん、名刺の追加ってどこに頼めばいいですか。来週の展示会で足りなさそうです』


『すみません、会議室Aのプロジェクター、また映りません』


『今日届く契約書、社判必要でしたっけ』


 成瀬は歯ブラシをコップに置き、親指で返信欄を開いた。


 名刺は前回の印刷会社。担当は総務の柴田が知っている。プロジェクターはHDMIの変換アダプタが抜けていることが多い。社判は契約書の内容による。


 どれも、一分で返せる。


 だから返した。


 返信している間に、洗面所の鏡が少し曇った。ネクタイはまだ結んでいない。朝食のトーストは、台所の皿の上で冷めていく。


 成瀬はスマホを伏せた。

 伏せた瞬間に、もう一度震えた。


『すみません、今日の来客、十時でしたっけ、十時半でしたっけ』



 株式会社ハルカゼリンクは、駅から徒歩七分の雑居ビルの五階にある。


 中小企業向けに、受発注と在庫と請求をまとめるクラウドツールを作っている。社員は二十八名。営業はよく動き、開発はよく残り、成瀬はその両方の間を走っている。


 九時二分。

 エレベーターを降りると、宅配業者が段ボール箱を二つ抱えて立っていた。


「ハルカゼリンクさん、こちらでいいですか」


「あ、はい。受け取ります」


 成瀬は印鑑を探した。

 受付横のペン立てにあるはずの認印がない。昨日、営業の誰かが郵送物の受け取りに使ったまま、自席へ持っていったのだろう。


 仕方なく、鞄から自分の認印を出した。


 箱はコピー用紙だった。

 五階の廊下からオフィスの奥まで運ぶだけで、ワイシャツの背中に汗がにじんだ。


「社長、すみません」


 営業の国枝がノートパソコンを抱えて近づいてきた。


「昨日の見積書、最新版ってどこでしたっけ。先方に送るやつです」


「営業共有の案件フォルダにない?」


「あるんですけど、三つあって。どれが最後か分からなくて」


 成瀬は自席に鞄を置く前に、国枝の画面を覗き込んだ。


 見積書_最終。

 見積書_最終2。

 見積書_先方修正後。


 成瀬は日付を見て、金額を見て、契約書のドラフトを開いて、ようやく一つ選んだ。


「これ。送る前にPDFにして」


「助かります。五分だけと思って」


「いいよ」


 時計を見る。

 九時十八分だった。



 九時半の定例会議は、十分遅れて始まった。


 遅れた理由は、会議室Aのプロジェクターだった。変換アダプタは抜けていなかった。電源タップのスイッチが切れていただけだった。


 会議中、成瀬のスマホは机の上で三回震えた。

 ロック画面に、社内チャットの短い文面が順に浮かぶ。


『健康診断の案内、今年いつ出しますか』


『入社予定の松井さんのPC、誰が用意します?』


『来客用のお茶、なくなってます』


 会議の議題は、来月の大型リリースだった。

 開発リーダーの大野が、画面にガントチャートを映している。


「このままだと、請求連携のテストが一週ずれます」


「営業側のデモ日は変えられない」


 国枝が言った。


「そこは調整しよう。デモ環境だけ先に——」


 成瀬はそう言いかけて、スマホの通知を見た。


『社判、どこですか』


 契約書の件だ。

 朝の三件目。


「すみません、五分だけ」


 成瀬は会議室を出た。


 社判は鍵付きの小さなキャビネットに入っている。鍵は総務の柴田奈緒が持っている。柴田は今、午前休を取っていた。


 予備の鍵は、成瀬の机の一番下の引き出しにある。


 だが、その引き出しの鍵はどこにあるのか。


 成瀬は一瞬、考えた。

 自分で決めた置き場所なのに、思い出すのに時間がかかった。



 昼休みになっても、成瀬は席を立てなかった。


 経理の森下が、紙の請求書を三枚持ってきた。


「成瀬さん、これ、契約書の金額と請求額が違うんですけど、営業側で変更ありました?」


「国枝に確認して」


「国枝さんは、社長が最後に見てるはずって」


 成瀬は箸を割る前のコンビニ弁当を机の端へ寄せた。


 契約書を探す。

 契約書フォルダにはなかった。営業共有にもなかった。最終的に、国枝が個人フォルダに入れていたPDFを見つけた。


 変更はあった。

 だが、誰も経理に伝えていなかった。


「ごめん、こっちで共有漏れてた」


「いえ、助かりました」


 森下は請求書を抱えて戻っていった。


 助かりました。


 成瀬はその言葉を、一日に何度も聞く。

 悪い言葉ではない。むしろ、嬉しいはずだった。


 けれど、助けるたびに、どこかが十五分ずつ削られていく。


 弁当の白米は、少し固くなっていた。



 午後三時、柴田奈緒が出社した。


 柴田は三年間、総務として働いてきた。来月から夫の転勤で神戸へ移る。退職日は今月末。あと三週間を切っている。


「すみません、午前中ありがとうございました」


「大丈夫。社判の鍵、ちょっと探したけど」


「あ、予備の鍵、下の引き出しです」


「下の引き出しの鍵を探した」


 柴田は小さく笑った。


「慣れですよ、慣れ。細かいことは、やりながら覚えれば大丈夫です」


 成瀬も笑った。


「そうだよな」


 そう言うしかなかった。


 柴田の仕事は、特別な専門職というより、細かいことを覚えている仕事に見えていた。郵便物、備品、名刺、社判、健康診断、来客、鍵、契約書の場所。


 一つずつなら、誰でもできる。


 ただ、全部が同じ日に来る。



 夕方、管理部門の小さな打ち合わせを開いた。


 参加者は成瀬、柴田、経理の森下、営業の国枝、開発の大野。

 議題は、柴田の後任だった。


「派遣さんで回せませんか」


 国枝が言った。


「受付とか郵便とか、毎日ある作業が中心ですよね」


 森下がすぐ首を振った。


「月末の請求と入退社が重なると無理です。経理で兼務できるのは、せいぜい振込データの確認までです」


「PC初期設定は、外に出せると思います」


 大野が言った。


「うちは開発の手が足りないので、社内PCまで見るのは正直きついです」


 柴田はメモを取りながら、少し困った顔をしていた。


「でも、総務ってそんなに範囲広かったですかね。私も、前任の人からざっくり教わって、あとはやりながら覚えたので」


 成瀬はホワイトボードに、出てきた単語を書いた。


 郵便。

 備品。

 名刺。

 契約書。

 社判。

 健康診断。

 入退社。

 PC。

 請求。

 来客。


 字が、右端まで埋まった。


「後任、急いで探します」


 成瀬は言った。


 会議は三十分で終わった。

 決まったのは、後任が必要だということだけだった。



 退勤前、柴田が鍵束を持って成瀬の席へ来た。


「念のため、置き場所だけ共有しておきますね」


 小さな輪に、金庫、キャビネット、郵便受け、備品棚、会議室倉庫の鍵がついている。似たような銀色の鍵が五本並んでいた。


「これは社判のキャビネット。こっちは契約書原本の棚。郵便受けは、朝と夕方に見ます。倉庫は、コピー用紙と防災備蓄が一緒です」


 成瀬はメモを取った。


 社判。

 契約書。

 郵便。

 倉庫。

 防災備蓄。


 メモ欄はすぐに埋まった。


「社判って、誰が押していいんだっけ」


 成瀬が聞くと、柴田は鍵束を持ったまま止まった。


「ええと。基本は、成瀬さんの確認後です」


「基本じゃない場合は」


「……前からそうしていたので」


 鍵が、柴田の手の中で小さく鳴った。


 成瀬はメモの余白を探した。

 もう、書く場所がなかった。


 鍵束は、まだ柴田の手の中にあった。


 受け取れば済む、という重さではなかった。

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