第68話「社長の一日は、十五分ずつ削られる」
成瀬航平のスマホは、朝七時四十二分に震えた。
洗面所で歯ブラシをくわえたまま画面を見ると、社内チャットの通知が三件並んでいた。
『成瀬さん、名刺の追加ってどこに頼めばいいですか。来週の展示会で足りなさそうです』
『すみません、会議室Aのプロジェクター、また映りません』
『今日届く契約書、社判必要でしたっけ』
成瀬は歯ブラシをコップに置き、親指で返信欄を開いた。
名刺は前回の印刷会社。担当は総務の柴田が知っている。プロジェクターはHDMIの変換アダプタが抜けていることが多い。社判は契約書の内容による。
どれも、一分で返せる。
だから返した。
返信している間に、洗面所の鏡が少し曇った。ネクタイはまだ結んでいない。朝食のトーストは、台所の皿の上で冷めていく。
成瀬はスマホを伏せた。
伏せた瞬間に、もう一度震えた。
『すみません、今日の来客、十時でしたっけ、十時半でしたっけ』
*
株式会社ハルカゼリンクは、駅から徒歩七分の雑居ビルの五階にある。
中小企業向けに、受発注と在庫と請求をまとめるクラウドツールを作っている。社員は二十八名。営業はよく動き、開発はよく残り、成瀬はその両方の間を走っている。
九時二分。
エレベーターを降りると、宅配業者が段ボール箱を二つ抱えて立っていた。
「ハルカゼリンクさん、こちらでいいですか」
「あ、はい。受け取ります」
成瀬は印鑑を探した。
受付横のペン立てにあるはずの認印がない。昨日、営業の誰かが郵送物の受け取りに使ったまま、自席へ持っていったのだろう。
仕方なく、鞄から自分の認印を出した。
箱はコピー用紙だった。
五階の廊下からオフィスの奥まで運ぶだけで、ワイシャツの背中に汗がにじんだ。
「社長、すみません」
営業の国枝がノートパソコンを抱えて近づいてきた。
「昨日の見積書、最新版ってどこでしたっけ。先方に送るやつです」
「営業共有の案件フォルダにない?」
「あるんですけど、三つあって。どれが最後か分からなくて」
成瀬は自席に鞄を置く前に、国枝の画面を覗き込んだ。
見積書_最終。
見積書_最終2。
見積書_先方修正後。
成瀬は日付を見て、金額を見て、契約書のドラフトを開いて、ようやく一つ選んだ。
「これ。送る前にPDFにして」
「助かります。五分だけと思って」
「いいよ」
時計を見る。
九時十八分だった。
*
九時半の定例会議は、十分遅れて始まった。
遅れた理由は、会議室Aのプロジェクターだった。変換アダプタは抜けていなかった。電源タップのスイッチが切れていただけだった。
会議中、成瀬のスマホは机の上で三回震えた。
ロック画面に、社内チャットの短い文面が順に浮かぶ。
『健康診断の案内、今年いつ出しますか』
『入社予定の松井さんのPC、誰が用意します?』
『来客用のお茶、なくなってます』
会議の議題は、来月の大型リリースだった。
開発リーダーの大野が、画面にガントチャートを映している。
「このままだと、請求連携のテストが一週ずれます」
「営業側のデモ日は変えられない」
国枝が言った。
「そこは調整しよう。デモ環境だけ先に——」
成瀬はそう言いかけて、スマホの通知を見た。
『社判、どこですか』
契約書の件だ。
朝の三件目。
「すみません、五分だけ」
成瀬は会議室を出た。
社判は鍵付きの小さなキャビネットに入っている。鍵は総務の柴田奈緒が持っている。柴田は今、午前休を取っていた。
予備の鍵は、成瀬の机の一番下の引き出しにある。
だが、その引き出しの鍵はどこにあるのか。
成瀬は一瞬、考えた。
自分で決めた置き場所なのに、思い出すのに時間がかかった。
*
昼休みになっても、成瀬は席を立てなかった。
経理の森下が、紙の請求書を三枚持ってきた。
「成瀬さん、これ、契約書の金額と請求額が違うんですけど、営業側で変更ありました?」
「国枝に確認して」
「国枝さんは、社長が最後に見てるはずって」
成瀬は箸を割る前のコンビニ弁当を机の端へ寄せた。
契約書を探す。
契約書フォルダにはなかった。営業共有にもなかった。最終的に、国枝が個人フォルダに入れていたPDFを見つけた。
変更はあった。
だが、誰も経理に伝えていなかった。
「ごめん、こっちで共有漏れてた」
「いえ、助かりました」
森下は請求書を抱えて戻っていった。
助かりました。
成瀬はその言葉を、一日に何度も聞く。
悪い言葉ではない。むしろ、嬉しいはずだった。
けれど、助けるたびに、どこかが十五分ずつ削られていく。
弁当の白米は、少し固くなっていた。
*
午後三時、柴田奈緒が出社した。
柴田は三年間、総務として働いてきた。来月から夫の転勤で神戸へ移る。退職日は今月末。あと三週間を切っている。
「すみません、午前中ありがとうございました」
「大丈夫。社判の鍵、ちょっと探したけど」
「あ、予備の鍵、下の引き出しです」
「下の引き出しの鍵を探した」
柴田は小さく笑った。
「慣れですよ、慣れ。細かいことは、やりながら覚えれば大丈夫です」
成瀬も笑った。
「そうだよな」
そう言うしかなかった。
柴田の仕事は、特別な専門職というより、細かいことを覚えている仕事に見えていた。郵便物、備品、名刺、社判、健康診断、来客、鍵、契約書の場所。
一つずつなら、誰でもできる。
ただ、全部が同じ日に来る。
*
夕方、管理部門の小さな打ち合わせを開いた。
参加者は成瀬、柴田、経理の森下、営業の国枝、開発の大野。
議題は、柴田の後任だった。
「派遣さんで回せませんか」
国枝が言った。
「受付とか郵便とか、毎日ある作業が中心ですよね」
森下がすぐ首を振った。
「月末の請求と入退社が重なると無理です。経理で兼務できるのは、せいぜい振込データの確認までです」
「PC初期設定は、外に出せると思います」
大野が言った。
「うちは開発の手が足りないので、社内PCまで見るのは正直きついです」
柴田はメモを取りながら、少し困った顔をしていた。
「でも、総務ってそんなに範囲広かったですかね。私も、前任の人からざっくり教わって、あとはやりながら覚えたので」
成瀬はホワイトボードに、出てきた単語を書いた。
郵便。
備品。
名刺。
契約書。
社判。
健康診断。
入退社。
PC。
請求。
来客。
字が、右端まで埋まった。
「後任、急いで探します」
成瀬は言った。
会議は三十分で終わった。
決まったのは、後任が必要だということだけだった。
*
退勤前、柴田が鍵束を持って成瀬の席へ来た。
「念のため、置き場所だけ共有しておきますね」
小さな輪に、金庫、キャビネット、郵便受け、備品棚、会議室倉庫の鍵がついている。似たような銀色の鍵が五本並んでいた。
「これは社判のキャビネット。こっちは契約書原本の棚。郵便受けは、朝と夕方に見ます。倉庫は、コピー用紙と防災備蓄が一緒です」
成瀬はメモを取った。
社判。
契約書。
郵便。
倉庫。
防災備蓄。
メモ欄はすぐに埋まった。
「社判って、誰が押していいんだっけ」
成瀬が聞くと、柴田は鍵束を持ったまま止まった。
「ええと。基本は、成瀬さんの確認後です」
「基本じゃない場合は」
「……前からそうしていたので」
鍵が、柴田の手の中で小さく鳴った。
成瀬はメモの余白を探した。
もう、書く場所がなかった。
鍵束は、まだ柴田の手の中にあった。
受け取れば済む、という重さではなかった。




