第67話「普通、止まるんですか?」
三枝遥香の席には、誰も座っていなかった。
七月の第一週。
品質保証課の窓際に置かれたその机には、パソコンと電話機だけが残っている。引き出しの中は空になり、机上の小さな観葉植物は小野寺澄奈の席へ移された。
遥香は産休に入った。
品質保証課は止まらなかった。
朝八時半。
小野寺は、業務棚卸し表を開いた。今日の確認項目は、測定器の校正期限、北嶺パックシステム向けの出荷判定、清峰樹脂材料からの是正処置回答確認。
坂下悠真は、製造部から上がってきたロット一覧を見ている。
四月に中途入社してから三ヶ月目。まだ品質保証の言葉に詰まることはあるが、製造工程の癖を読む速さは課内で一番になっていた。
真鍋課長は、会議室で営業部と顧客監査の日程を詰めている。
遥香はいない。
けれど、遥香が作った表はある。限度見本もある。過去不具合ケース集もある。誰が何を見て、どこで止めるかも決まっている。
その日の午前九時十二分。
営業部の梶原莉子から内線が入った。
『東央フードラインからです。P-18樹脂スペーサーに割れが出たそうです』
小野寺はペンを持った。
「使用中ですか、納入時ですか」
『稼働中。食品包装ラインの交換部品です。現場写真が来ています』
「写真とロット番号を転送してください。一次回答は、品質保証で確認中。対象ロットと使用条件を確認します、で止めてください」
『三枝さんには』
「連絡しません」
梶原が一瞬黙った。
『分かりました。転送します』
小野寺は電話を置き、坂下を呼んだ。
「P-18、東央フードライン。割れです。ロット追えますか」
「受注番号は」
「今来ます」
「来たら製造ロットと材料ロットを引きます」
坂下は椅子を回し、ロットトレース表を開いた。
小野寺は過去不具合ケース集のP-18を開く。
割れ。変形。取り付け時破損。使用中破断。
似た写真は、三年前に一件あった。
原因は乾燥条件ではなく、成形後の冷却時間不足だった。内部応力が残り、稼働中の振動で割れた。
小野寺の背中に汗が浮いた。
空調の風が首筋に当たり、冷たく感じる。
怖い。
だが、手は止まらなかった。
*
十時。
品質保証課の小会議室に、真鍋、坂下、梶原、製造部の宮原が集まった。
小野寺はスクリーンに写真を映した。
「東央フードラインでP-18樹脂スペーサーに割れが発生。対象は七月二日納入分。顧客現場で稼働中に破断しています」
宮原が画面へ身を乗り出した。
「取り付けミスじゃないのか」
「可能性はあります。ただ、割れの位置が三年前の社内不具合に似ています」
小野寺はケース集のページを出した。
「三年前は冷却時間不足。今回は製造ロットが七月一日夜勤分に集中しています」
坂下が続けた。
「材料ロットは二つに分かれています。割れ連絡が来たものは、今のところBロット側だけです。ただ、まだ顧客から全数情報が来ていません」
梶原が手帳を開く。
「東央さんは昼までに一次回答がほしいと言っています。ライン停止はしていませんが、予備品交換でしのいでいる状態です」
宮原は腕を組んだ。
「全部止めるのは厳しいぞ」
「全部は止めません」
小野寺は、判断基準表を映した。
「対象範囲は、七月一日夜勤分のP-18、材料Bロット使用分。出荷済みは顧客へ使用状況確認。社内在庫は出荷停止。別ロット品を代替候補にします」
真鍋が聞いた。
「根拠は」
「過去不具合との割れ位置の類似。現時点での発生ロット集中。材料Bロットとの相関可能性。顧客ライン停止リスクです」
「三枝に確認したか」
「していません」
小野寺は、そこだけははっきり言った。
「ケース集、判断基準表、ロットトレースで判断しました」
真鍋は頷いた。
「品質保証として、対象範囲の出荷停止。梶原、一次回答」
「はい」
「宮原、七月一日夜勤分の成形条件と冷却時間を確認」
「分かった」
「坂下、材料Bロットの受入記録と保管条件」
「見ます」
会議は十分で終わった。
短い。
だが、決めるべきことは決まった。
*
午後一時半。
梶原は東央フードラインへ一次回答を送った。
件名は、P-18樹脂スペーサー破損に関する初報。
本文には、発生状況、対象ロット、暫定処置、代替品手配、追加確認項目が並んでいる。写真番号とロットトレース表も添付した。
顧客へ謝るだけではない。
何を確認し、どこまで止め、いつ次の回答を出すかを示す。
梶原は送信後、小野寺の席へ来た。
「三枝さんに電話しなくてよかったんですよね」
「はい」
「ちょっと、したくなりました」
「私もです」
小野寺は正直に言った。
電話すれば早い。
遥香なら、写真を見ただけで過去不具合の管理番号を思い出したかもしれない。顧客への言い回しも、もっと滑らかだったかもしれない。
でも、それでは引き継いだことにならない。
「三枝さんならどうするか、ではなく、この条件ならどうするか」
小野寺は、机の端に貼った付箋を見た。
自分の字で書いた言葉だった。
*
翌日。
原因は、七月一日夜勤分の冷却条件のズレだった。
設備トラブルで一時的に冷却時間を短くした記録があり、作業者はその後の戻し確認を記録していなかった。材料Bロットだけが悪いわけではなかったが、対象範囲を絞る手がかりにはなった。
出荷停止した社内在庫から、同じ割れ傾向が二本見つかった。
小野寺は、その写真をケース集へ追加した。
坂下は、製造部と一緒に冷却条件のチェック欄を日報へ足した。
梶原は、東央フードラインへ代替品の納入予定を伝えた。
真鍋は、是正処置報告書の一次版を確認した。
誰も、遥香へ電話しなかった。
午後五時、品質保証課の机に電話が鳴った。
小野寺が取る。
『東央の品質担当です。初動が早くて助かりました。監査の時、今回の対応記録を確認させてください』
「はい。記録一式をまとめておきます」
電話を切ったあと、小野寺は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
会社は止まらなかった。
顧客のラインも止まらなかった。
不良は出た。対応は必要だった。残業もした。
でも、困りはしなかった。
それが、遥香の引き継ぎの成果だった。
*
八月の終わり。
遥香は赤ちゃんを抱いて、会社近くの喫茶店にいた。
職場へ顔を出すつもりはなかった。まだ育休中で、会社の仕事に戻る日ではない。ただ、真鍋から「近くまで来るなら、無理のない範囲で」と連絡があり、小野寺と坂下が昼休みに店へ来た。
赤ちゃんは、遥香の腕の中で眠っている。
店内にはコーヒーの香りがあり、冷房の風が紙ナプキンを少し揺らしていた。
「P-18の件、聞きました」
遥香が言った。
小野寺は背筋を伸ばした。
「はい。対象範囲を止めて、代替品を出しました。是正処置報告書も一次版まで出ています」
「私に電話、来ませんでした」
「しませんでした」
坂下が笑った。
「したら怒られそうだったので」
「怒りませんよ」
遥香は赤ちゃんの背を軽く叩いた。
「でも、しなくてよかったです」
小野寺は、鞄から小さなファイルを出した。
P-18の新しいケースページだった。写真、ロット、原因、暫定処置、恒久対策。最後の欄には、小野寺と坂下の名前が入っている。
遥香はページを見て、静かに頷いた。
「止まらなかったんですね」
「はい」
小野寺は、少し不思議そうに首を傾げた。
「普通、止まるんですか?」
遥香は答えなかった。
代わりに、赤ちゃんの小さな手を見た。
止まらなかった会社では、失敗談は残らない。
ただ、ケース集に一ページ増える。
小野寺がファイルを閉じた。
「次に似たことが起きても、見られます」
「それで十分です」
遥香は笑った。
品質保証は、一人の頭で会社を支える仕事ではない。
誰かが抜けても、同じ理由で止められるようにしておく仕事だ。
喫茶店の窓の外で、晴野精工の昼休みを知らせるチャイムが鳴った。
小野寺と坂下が立ち上がる。
「戻ります」
「はい」
小野寺はファイルを抱え直した。
その背中は、少し前まで遥香の横で迷っていた後輩のものではなかった。
遥香は赤ちゃんを抱き直し、窓の外を見た。
会社は今日も動いている。
それは、誰か一人が戻らないと動かない会社ではなかった。




