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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『私に電話しないでください』

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第66話「手順書にない判断」

 三月の第一火曜日。

 小野寺澄奈は、M-42ガイドレールの検査記録を持ったまま、限度見本の棚の前に立っていた。


 樹脂の細長い部品が、透明な袋に一本ずつ入っている。

 良品。軽微な傷。出荷不可。特採相談。ラベルには三枝遥香の字で、写真番号と過去不具合の管理番号が書かれていた。


 検査記録の数値は、規格内だった。

 幅、厚み、反り。どれも図面の許容差に収まっている。


 問題は、表面の白化だった。


 蛍光灯の下で角度を変えると、端から二センチほどの場所が薄く白く見える。傷ではない。割れでもない。測定器にかけても、寸法には出ない。


 ただ、小野寺は同じような写真を見た覚えがあった。


 過去不具合ケース集。

 北嶺パックシステム。

 高速ライン。

 搬送時の振動で、白化部から割れ。


 小野寺は検査記録を握り直した。

 手のひらに紙の角が当たり、少し痛い。


「小野寺さん」


 製造部の宮原卓が、検査室の入口から声をかけた。


「M-42、どうなってる」


「確認中です」


「規格内だろ」


「数値は規格内です」


「じゃあ出せる」


 宮原の声は強くない。だが、後ろには今日の出荷予定がある。北嶺パックシステム向けの交換部品で、営業からも急ぎと言われていた。


 小野寺は、隣の机に座る遥香を見た。


 遥香はパソコンから顔を上げたが、答えは言わなかった。


「小野寺さんの判定です」


 小野寺は唇を結んだ。


 手順書なら読んだ。

 検査項目も分かる。規格値も分かる。出荷判定のフローも、赤線を引いて覚えた。


 けれど今、目の前にある部品は、手順書の箱にきれいに入らない。


「少し、確認させてください」


 小野寺はそう言って、ケース集を開いた。



 品質保証課の小会議室に、宮原と営業部の梶原莉子が入った。


 真鍋課長は奥の席に座り、遥香は壁際に立っている。小野寺はスクリーンに写真を映した。


「対象はM-42ガイドレール、ロット三月一日成形分です。寸法は規格内です。ただし、端部に白化があります」


 宮原が腕を組んだ。


「白化だけで止めるのか」


「白化だけでは止めません」


 小野寺は次の写真を出した。


「二年前、北嶺パックシステムで似た白化から割れが出ています。使用環境は高速ラインで、部品に連続振動がかかります」


 梶原が画面を見た。


「北嶺さん、あの時かなり厳しかったです」


「はい。過去回答では、白化のある端部は追加確認対象になっています」


 小野寺は、ケース集の該当ページを机に置いた。


 発生日。

 顧客名。

 製品名。

 写真。

 測定値。

 原因。

 再発防止策。

 顧客回答。


 遥香が作ったページだった。

 だが、今そのページを使って説明しているのは小野寺だった。


「判定案は」


 真鍋が聞いた。


 小野寺は一度だけ息を吸った。


「出荷保留です。対象ロットを全数外観確認。白化があるものは保留。清峰樹脂材料の材料ロットを確認します。北嶺向けは代替ロットから先に出荷できるか確認します」


 宮原の眉が動いた。


「今日の出荷は」


「全部は出せません。ただ、白化なしの在庫が二十本あります。梶原さん、北嶺さんへ分納相談できますか」


 梶原は手帳を開いた。


「一次回答に、過去不具合との類似と確認中の内容を入れられるなら、相談します」


「入れます」


 宮原はまだ渋い顔をしていた。


「規格内なのに止めるのは、製造としては納得しづらい」


 小野寺は、限度見本を机の中央へ置いた。


「規格内かどうかだけなら、出せます。でも北嶺向けは、過去にこの見え方で割れています。顧客の使用条件を含めると、出荷可とは言えません」


 梶原が限度見本を手に取った。

 透明な袋の中で、樹脂の端が白く濁っている。写真で見るより、現物の方が分かりやすい。


「これが、顧客に見せられる境目ですか」


「はい。写真番号と管理番号を付けています。北嶺さんには、過去回答と合わせて説明できます」


 宮原も袋を覗いた。


「製造にも、この見本を置けるか」


「置けます。ただ、品質保証の原本とは分けます。現場用は複製として管理します」


 遥香は壁際で、少しだけ頷いた。

 言葉だけで判断するのではない。現物、写真、記録番号を同じ場所へ結びつける。それが、今回の引き継ぎで増やした仕組みだった。

 同じものを見て話せれば、部署ごとの言い分は減る。

 会議の時間も短くなる。


 会議室が静かになった。


 真鍋が頷いた。


「品質保証として、出荷保留」


 宮原は息を吐いた。


「分かった。製造で白化のあるものを分ける」


「ありがとうございます」


 小野寺の声は、思ったより小さかった。


 遥香は壁際で、何も言わなかった。



 午後三時。

 清峰樹脂材料から材料証明書の再送が来た。


 坂下悠真が、四月入社予定の内定者として、今日は入社前研修に来ていた。守秘誓約書は提出済みで、会議室で見る資料は顧客名を伏せた写しに限られている。真鍋の許可で、材料ロットの一覧も管理番号だけの資料になっていた。


「これ、同じグレードだけど、出荷時の含水率が高めに出ていますね」


 坂下が言った。


 小野寺は顔を上げた。


「分かりますか」


「前職で似た材料を扱ってました。含水率が高いまま乾燥が甘いと、成形時に白っぽく出ることがあります。割れやすさまで直結するかは、試験しないと分かりませんが」


 遥香が材料証明書を覗いた。


「清峰へ確認依頼を出しましょう。社内の乾燥条件と材料ロットを紐づけて、対象範囲を絞ります」


「製造側の成形日報も見ます」


 坂下が言った。


「材料が同じでも、乾燥機を替えた日や、立ち上げ直後の品が混ざっていれば、そこに偏りが出ます」


 小野寺はキーボードへ手を置いた。


「私が書きます」


 遥香は頷いた。


「お願いします」


 小野寺はメールを書き始めた。


 件名。

 M-42ガイドレール白化発生に伴う材料ロット確認依頼。


 本文には、対象ロット、検査結果、写真番号、確認したい項目、回答希望日時を書く。


 以前なら、遥香の文面を横から見ていた。

 今は、自分で書く。送信前に真鍋へ回し、必要なら修正する。それが今回の訓練だった。


 送信ボタンを押す前に、遥香が言った。


「証拠が残っていない判断は、判断じゃなくて勘です」


「はい」


 小野寺は添付ファイルを確認した。

 検査記録。写真。限度見本番号。過去不具合ケース集の該当ページ。


 全部揃っている。


 送信した。



 翌朝、清峰樹脂材料から回答が来た。


 対象材料は、規格値には入っているが、出荷時の含水率が通常より高めだった。晴野側の乾燥条件が通常設定のままだった場合、成形時の外観変化に影響した可能性を否定できない。


 小野寺はメールを読み、椅子の背にもたれた。


「止めてよかった」


 声が漏れた。


 遥香が隣で笑った。


「よかった、で終わらせない」


「是正処置ですね」


「そう。清峰には材料ロットごとの含水率管理と、出荷時情報の出し方を確認依頼。社内は受入時の材料ロット確認と乾燥条件の見直しを追加。北嶺には分納と原因調査中の一次回答」


 小野寺はメモを取った。


 やることは多い。

 それでも、怖さの種類が昨日とは違っていた。分からないまま抱える怖さではない。手順と証拠に沿って、一つずつ潰す怖さだった。


 真鍋が会議室から出てきた。


「小野寺、昨日の判定は正式に記録へ残す」


「はい」


「三枝」


「はい」


「完了判定、一つ進めていいな」


 遥香は小野寺を見た。


「今のは、私ならどうしたかじゃない」


 小野寺は顔を上げた。


「小野寺さんが、根拠を持って止めた判断です」


 小野寺は、昨日使った限度見本を棚へ戻した。


 ラベルの横に、新しい管理番号を書き足す。

 自分の字だった。

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