第65話「人が抜けるのも、工程変更です」
「妊娠しました」
三枝遥香は、品質保証課長の真鍋孝之にそう告げた。
十二月の朝だった。
晴野精工株式会社の品質保証課は、まだ始業前の静けさを残している。窓際の複合機が低い音で温まり、検査室へ続く扉の向こうから、測定器の電源が入る小さな電子音が聞こえた。
真鍋は一度だけ目を丸くし、それから椅子の背を立てた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「体調は」
「今のところ大丈夫です。ただ、来年の六月には産休に入る予定です」
真鍋は、机の上に置いてあった会議用ノートを開いた。
「じゃあ、工程変更として扱おう」
遥香は少しだけ息を吐いた。
その言い方が、いちばん助かった。
困った。
急に言われても。
誰が代わりをやるんだ。
そういう言葉を想像していなかったわけではない。けれど真鍋は、祝福の次に工程を見た。人が抜けることを、個人の事情ではなく品質リスクとして扱った。
「すみません」
「謝る話じゃない。必要なのは謝罪じゃなくて、影響範囲だ」
真鍋はボールペンを持った。
「いつから、小野寺に渡せる」
「一月から棚卸しを始めます。三月には実案件を持たせたいです」
「四月に一人入れる」
「人事、通りますか」
「通す。抜けた後に入れても遅い」
遥香は頷いた。
「人が抜けるのも、工程変更です」
真鍋はノートにそのまま書いた。
人が抜けるのも、工程変更。
文字になると、当たり前のことに見えた。
けれど、その当たり前を最初に書く会社は、案外少ない。
*
晴野精工株式会社は、狭山第三工業団地の端にある中堅メーカーだった。
主力は、食品包装機械向けの樹脂部品である。M-42ガイドレール、P-18樹脂スペーサー、搬送用の小型部材。製品は大きくない。手のひらに乗るものも多い。
ただし、小さいから軽い仕事ではない。
食品工場のラインに入る部品は、止まると顧客の生産を止める。樹脂の白化や細かなバリが、長時間の振動で割れにつながることもある。規格内の寸法でも、顧客の使い方によっては不具合になる。
品質管理係は測る。
品質保証課は、測った結果で会社が何を約束できるかを決める。
遥香の机には、朝から紙が並んでいた。
検査記録。顧客メール。是正処置報告書の下書き。測定器の校正期限表。北嶺パックシステムの監査チェックリスト。
小野寺澄奈が、マグカップを持って隣へ来た。
「三枝さん、真鍋課長から聞きました」
「どこまで」
「六月から産休って。おめでとうございます」
「ありがとう」
小野寺は二十七歳。品質保証課三年目で、手順書を読むのが速い。文書管理のフォルダも、遥香よりきれいに整理する。
「引き継ぎ、私ですよね」
「主担当は小野寺さん。四月に中途で一人入る予定」
「手順書があればできますよね」
遥香は、机の上の検査記録を一枚持ち上げた。
「手順書は入口です」
「入口」
「ここに書いてあるのは、測定値をどう読むか。だけど品質保証で迷うのは、測定値が出た後」
遥香は赤ペンで、検査記録の端を指した。
「規格内だけど、過去の不具合に似ている。顧客別の使い方だと危ない。出荷していいか、保留するか、特採で顧客に相談するか。その判断は、手順書だけでは足りない」
小野寺はマグカップを両手で持ったまま、少し黙った。
「三枝さんならどうするか、を聞くしかないやつですか」
「そこを変える」
遥香は新しいExcelファイルを開いた。
業務棚卸し表。
列は、頻度、業務名、担当、判断者、失敗時の影響、引き継ぎ方法、完了判定。
「三枝さんならどうするか、ではなく、この条件ならどうするかにします」
小野寺は画面を覗き込んだ。
「毎日、毎週、毎月」
「年一回と不定期も」
「年一回は後でもよくないですか」
「頻度が低いものほど、起きたときに誰も覚えていない」
遥香は、北嶺パックシステムの監査チェックリストを棚卸し表へ入れた。
顧客監査対応。
頻度、年一回。
失敗時の影響、取引条件見直し。
引き継ぎ方法、過去二年分の指摘事項レビューと模擬監査。
小野寺の表情が変わった。
「年一回なのに、重いですね」
「品質保証はそういう仕事が多い」
遥香は次の行へ移った。
仕入先不具合対応。
頻度、不定期。
失敗時の影響、顧客流出、再発防止未完了、仕入先評価低下。
測定器校正期限管理。
頻度、毎月。
失敗時の影響、測定記録の信頼性喪失。
変更管理。
頻度、不定期。
失敗時の影響、旧仕様混入。
出荷停止判断。
頻度、不定期。
失敗時の影響、顧客ライン停止。
小野寺は、途中から口を閉じた。
画面の行が増えるたび、マグカップの中のコーヒーが冷めていく。
*
昼前、真鍋が品質保証課の小会議室に全員を集めた。
製造部の宮原卓も呼ばれている。営業部からは梶原莉子が来た。人事の担当者もいる。
遥香は棚卸し表をスクリーンに映した。
「六月に産休へ入ります。今日から引き継ぎを始めます」
人事担当が手元の資料をめくった。
「六月なら、五月に派遣か中途を」
「四月です」
真鍋が遮った。
「四月に一人入れます。二ヶ月並走させる」
「二ヶ月も必要ですか」
「必要です」
真鍋は、棚卸し表の出荷停止判断の行を指した。
「この判断を、三枝がいなくなってから初めてやらせるわけにはいかない。品質保証の失敗は、出てから戻す方が高い」
梶原が頷いた。
「顧客への一次回答も、証拠が揃っているかどうかで全然違います。出荷後に揉めるより、止める理由があるなら先に止めた方がいいです」
宮原は腕を組んだ。
「製造としては、止められると困る」
「困るから、止める基準を先に決めます」
遥香が言った。
「誰かの気分で止めるのではなく、条件を満たしたら止める。条件を満たさないなら出す。その境目を残します」
宮原は不満そうだったが、反論はしなかった。
真鍋が人事担当へ、別の表を渡した。
「補填を四月にする理由も、数字で出しておきます」
表には、過去三年の品質トラブル対応時間が並んでいた。
顧客への一次回答。再検査。代替品手配。原因調査。是正処置報告書。顧客監査の追加対応。
「不良が流出した場合、再検査だけで二十時間を超える。顧客ラインに影響すれば、うちの部品代より大きい損害になる」
人事担当は表を見た。
「人件費の話ではなく、損害回避の話ですね」
「そうです」
真鍋は短く答えた。
「三枝が抜ける前に人を入れるのは、余裕ではありません。出荷停止の判断を遅らせないための予防処置です」
真鍋はノートを閉じた。
「引き継ぎ完了は、三枝と小野寺の自己申告では終わらせない。実案件で小野寺が判断し、三枝が横で見て、最後は俺が確認する」
小野寺の肩が少し上がった。
「私が判断するんですか」
「そう」
遥香は小野寺を見た。
「ただし、一人では決めない。根拠を持って会議に出す」
小野寺は棚卸し表を見た。
毎日。
毎月。
年一回。
不定期。
突発。
顧客別。
過去クレーム。
手順書があればできますよね、と言ったときの軽さは、もう顔に残っていなかった。
遥香は表の最後に一行を追加した。
引き継ぎ完了判定。
頻度、一回。
失敗時の影響、産休後の品質保証停止。
小野寺が小さく息を吸った。
「止めないために、止める練習をするんですね」
「そう」
遥香は保存ボタンを押した。
「私に電話しないでください、って言えるところまでやります。必ず」




