表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『私に電話しないでください』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/76

第65話「人が抜けるのも、工程変更です」

「妊娠しました」


 三枝遥香は、品質保証課長の真鍋孝之にそう告げた。


 十二月の朝だった。

 晴野精工株式会社の品質保証課は、まだ始業前の静けさを残している。窓際の複合機が低い音で温まり、検査室へ続く扉の向こうから、測定器の電源が入る小さな電子音が聞こえた。


 真鍋は一度だけ目を丸くし、それから椅子の背を立てた。


「おめでとう」


「ありがとうございます」


「体調は」


「今のところ大丈夫です。ただ、来年の六月には産休に入る予定です」


 真鍋は、机の上に置いてあった会議用ノートを開いた。


「じゃあ、工程変更として扱おう」


 遥香は少しだけ息を吐いた。

 その言い方が、いちばん助かった。


 困った。

 急に言われても。

 誰が代わりをやるんだ。


 そういう言葉を想像していなかったわけではない。けれど真鍋は、祝福の次に工程を見た。人が抜けることを、個人の事情ではなく品質リスクとして扱った。


「すみません」


「謝る話じゃない。必要なのは謝罪じゃなくて、影響範囲だ」


 真鍋はボールペンを持った。


「いつから、小野寺に渡せる」


「一月から棚卸しを始めます。三月には実案件を持たせたいです」


「四月に一人入れる」


「人事、通りますか」


「通す。抜けた後に入れても遅い」


 遥香は頷いた。


「人が抜けるのも、工程変更です」


 真鍋はノートにそのまま書いた。


 人が抜けるのも、工程変更。


 文字になると、当たり前のことに見えた。

 けれど、その当たり前を最初に書く会社は、案外少ない。



 晴野精工株式会社は、狭山第三工業団地の端にある中堅メーカーだった。


 主力は、食品包装機械向けの樹脂部品である。M-42ガイドレール、P-18樹脂スペーサー、搬送用の小型部材。製品は大きくない。手のひらに乗るものも多い。


 ただし、小さいから軽い仕事ではない。


 食品工場のラインに入る部品は、止まると顧客の生産を止める。樹脂の白化や細かなバリが、長時間の振動で割れにつながることもある。規格内の寸法でも、顧客の使い方によっては不具合になる。


 品質管理係は測る。

 品質保証課は、測った結果で会社が何を約束できるかを決める。


 遥香の机には、朝から紙が並んでいた。

 検査記録。顧客メール。是正処置報告書の下書き。測定器の校正期限表。北嶺パックシステムの監査チェックリスト。


 小野寺澄奈が、マグカップを持って隣へ来た。


「三枝さん、真鍋課長から聞きました」


「どこまで」


「六月から産休って。おめでとうございます」


「ありがとう」


 小野寺は二十七歳。品質保証課三年目で、手順書を読むのが速い。文書管理のフォルダも、遥香よりきれいに整理する。


「引き継ぎ、私ですよね」


「主担当は小野寺さん。四月に中途で一人入る予定」


「手順書があればできますよね」


 遥香は、机の上の検査記録を一枚持ち上げた。


「手順書は入口です」


「入口」


「ここに書いてあるのは、測定値をどう読むか。だけど品質保証で迷うのは、測定値が出た後」


 遥香は赤ペンで、検査記録の端を指した。


「規格内だけど、過去の不具合に似ている。顧客別の使い方だと危ない。出荷していいか、保留するか、特採で顧客に相談するか。その判断は、手順書だけでは足りない」


 小野寺はマグカップを両手で持ったまま、少し黙った。


「三枝さんならどうするか、を聞くしかないやつですか」


「そこを変える」


 遥香は新しいExcelファイルを開いた。


 業務棚卸し表。


 列は、頻度、業務名、担当、判断者、失敗時の影響、引き継ぎ方法、完了判定。


「三枝さんならどうするか、ではなく、この条件ならどうするかにします」


 小野寺は画面を覗き込んだ。


「毎日、毎週、毎月」


「年一回と不定期も」


「年一回は後でもよくないですか」


「頻度が低いものほど、起きたときに誰も覚えていない」


 遥香は、北嶺パックシステムの監査チェックリストを棚卸し表へ入れた。


 顧客監査対応。

 頻度、年一回。

 失敗時の影響、取引条件見直し。

 引き継ぎ方法、過去二年分の指摘事項レビューと模擬監査。


 小野寺の表情が変わった。


「年一回なのに、重いですね」


「品質保証はそういう仕事が多い」


 遥香は次の行へ移った。


 仕入先不具合対応。

 頻度、不定期。

 失敗時の影響、顧客流出、再発防止未完了、仕入先評価低下。


 測定器校正期限管理。

 頻度、毎月。

 失敗時の影響、測定記録の信頼性喪失。


 変更管理。

 頻度、不定期。

 失敗時の影響、旧仕様混入。


 出荷停止判断。

 頻度、不定期。

 失敗時の影響、顧客ライン停止。


 小野寺は、途中から口を閉じた。

 画面の行が増えるたび、マグカップの中のコーヒーが冷めていく。



 昼前、真鍋が品質保証課の小会議室に全員を集めた。


 製造部の宮原卓も呼ばれている。営業部からは梶原莉子が来た。人事の担当者もいる。


 遥香は棚卸し表をスクリーンに映した。


「六月に産休へ入ります。今日から引き継ぎを始めます」


 人事担当が手元の資料をめくった。


「六月なら、五月に派遣か中途を」


「四月です」


 真鍋が遮った。


「四月に一人入れます。二ヶ月並走させる」


「二ヶ月も必要ですか」


「必要です」


 真鍋は、棚卸し表の出荷停止判断の行を指した。


「この判断を、三枝がいなくなってから初めてやらせるわけにはいかない。品質保証の失敗は、出てから戻す方が高い」


 梶原が頷いた。


「顧客への一次回答も、証拠が揃っているかどうかで全然違います。出荷後に揉めるより、止める理由があるなら先に止めた方がいいです」


 宮原は腕を組んだ。


「製造としては、止められると困る」


「困るから、止める基準を先に決めます」


 遥香が言った。


「誰かの気分で止めるのではなく、条件を満たしたら止める。条件を満たさないなら出す。その境目を残します」


 宮原は不満そうだったが、反論はしなかった。


 真鍋が人事担当へ、別の表を渡した。


「補填を四月にする理由も、数字で出しておきます」


 表には、過去三年の品質トラブル対応時間が並んでいた。

 顧客への一次回答。再検査。代替品手配。原因調査。是正処置報告書。顧客監査の追加対応。


「不良が流出した場合、再検査だけで二十時間を超える。顧客ラインに影響すれば、うちの部品代より大きい損害になる」


 人事担当は表を見た。


「人件費の話ではなく、損害回避の話ですね」


「そうです」


 真鍋は短く答えた。


「三枝が抜ける前に人を入れるのは、余裕ではありません。出荷停止の判断を遅らせないための予防処置です」


 真鍋はノートを閉じた。


「引き継ぎ完了は、三枝と小野寺の自己申告では終わらせない。実案件で小野寺が判断し、三枝が横で見て、最後は俺が確認する」


 小野寺の肩が少し上がった。


「私が判断するんですか」


「そう」


 遥香は小野寺を見た。


「ただし、一人では決めない。根拠を持って会議に出す」


 小野寺は棚卸し表を見た。


 毎日。

 毎月。

 年一回。

 不定期。

 突発。

 顧客別。

 過去クレーム。


 手順書があればできますよね、と言ったときの軽さは、もう顔に残っていなかった。


 遥香は表の最後に一行を追加した。


 引き継ぎ完了判定。

 頻度、一回。

 失敗時の影響、産休後の品質保証停止。


 小野寺が小さく息を吸った。


「止めないために、止める練習をするんですね」


「そう」


 遥香は保存ボタンを押した。


「私に電話しないでください、って言えるところまでやります。必ず」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ