第64話「二人で見る地図」
「理由を教えてください」
品川の統合配車センターで、江藤美香は受話器を握り直した。
内線の向こうで、河合主任が答える。
『川島は予約なしだと待つ。十一時半積み込み予定なら、積み終わりは読めない。北央を外すと、午後の飲料が横浜へ出ません。水野は昨日の帰庫が遅い。これ以上詰めると、夕方に休憩が削れる』
河合の声は荒くなかった。
ただ、短かった。
『柴崎さんは、その前に切ってました』
江藤は返事に詰まった。
「その判断を、品川でできるようにしたいんです」
『だったら、品川に現場の電話を全部鳴らしてください』
「鳴っています」
『違います。電話番号が鳴るだけじゃなくて、どの電話を先に取るかを決めるんです』
内線が切れたあと、江藤は画面の備考欄を開いた。
川島ロジスティクス。
予約なし待機一時間程度。
それだけでは足りない。
曜日によって変わる。担当者によって変わる。雨で荷下ろし場が詰まる。前の車が大型か中型かで、バースの回転も変わる。
全部は書けない。
けれど、書けないから存在しないことにすると、車は遅れる。
夕方、水野は川越営業所へ戻った。
点呼場の机には、遅延連絡のメモが重なっている。河合は運転日報を受け取り、時刻へ赤い丸を付けた。
「北央、ぎりぎりだったな」
「川島に寄ってたら無理でした」
「だから止めた」
水野はペンを返した。
「品川には、残り時間も見えてるはずですよね」
「見える。ただ、数字が残ってることと、走らせていいことは別だ」
河合は日報を閉じた。
「柴崎さんは、どうやって見てたんですかね」
「全部は見てない」
「え」
「全部見えてたわけじゃない。見えないから、早めに聞いてた。聞いて、怪しいところを先に切ってた」
水野は事務所の奥を見た。
柴崎の机は空になっている。電話機の横には、誰も使わなくなった赤いボールペンが一本残っていた。
「品川だけじゃ無理なんですか」
「品川だけでも、川越だけでも無理だ」
河合は壁の地図を見た。
「本当は、二人で見なきゃいけなかったんだ」
水野は、その言葉を覚えていた。
*
九月第二週の水曜日。
朝から雨だった。
水野が北央飲料の積込口へ着いたとき、予約枠は次の車へ移っていた。受付で待つように言われ、荷台を空にしたまま駐車場へ入る。
関越道では事故渋滞が出ていた。
戻りに使う道が詰まっていると、品川の画面に出る帰庫見込みは一気に頼りなくなる。
時計は九時十五分。
遅れは十五分だった。
水野は品川へ電話を入れた。
「北央、受付待ちです。十五分遅れ」
『分かりました。次の峰央パッケージは正午積みです』
「厳しいです」
『まだ二時間近くあります』
「積み込みが始まっていません」
電話の向こうで、別の電話が鳴っている。
統合配車センターの人間も忙しいのだろう。水野はそれを分かっていた。だが、分かっていても、荷台は空のままだ。
『北央が終わり次第、峰央へ向かってください』
「河合主任にも入れます」
水野は電話を切り、営業所へかけた。
河合は一言で判断した。
『峰央は外す』
「品川は、終わり次第向かえと」
『向かわせない。俺から言う』
*
川越営業所では、電話が三本同時に鳴っていた。
浅井所長が濡れた傘を入口のバケツへ差し、点呼場の机に置かれたメモを読む。
「峰央は」
「水野じゃ間に合わない。西埼玉に聞いてる」
「南央は」
「冷蔵車を守る。動かさない」
「川島の包材は」
「午後へずらせるか確認中」
河合は受話器を肩と頬で挟み、別の内線を取った。
呼出音が長い。西埼玉配送も、雨の日に車が余っているわけではない。
『高梨です』
「河合です。急で悪い。峰央の資材、一本だけ頼めないか」
『また今日か』
「今日だけだ」
『今日だけが三回目だぞ』
河合は返事に詰まった。
その通りだった。統合後、急な外注依頼は増えている。
「分かってる。今回は運賃、待機込みで出す」
『十時半に川越を出る。帰り荷は取れない』
「それで助かる」
河合は礼を言い、受話器を置いた。
浅井が壁の地図を見る。
「一つ遅れると、全部来るな」
「柴崎さんは、全部来る前に切ってたんですよ」
河合は峰央の欄に、西埼玉と書いた。
外注すれば費用は上がる。それでも、工場ラインを止めるよりは小さい。冷蔵車を別便へ回して食品の納品を遅らせるよりもいい。
正解が一つあるわけではない。
どの遅れを引き受け、どの遅れを広げないかを選ぶ。
品川から内線が鳴った。
『川越の中型を一台、峰央へ一時的に回せませんか』
「回せません」
『画面上は空いています』
「その中型は、午後へずらした川島の包材に回します。冷蔵車も南央の指定がある。そこを抜くと、食品側まで遅れます」
『では、水野さんが北央後に』
「水野は走らせません」
『まだ運転時間は残っています』
「残っていることと、足していいことは別です。昨日の帰庫が遅い。今日の雨で荷待ちも出てる。これ以上詰めません」
河合の声が少し強くなった。
「安全判断として止めます」
電話の向こうで、江藤が息を呑んだ気配がした。
『分かりました。峰央は西埼玉配送ですね』
「はい。川島は午後へずらします。南央は冷蔵車を残します。北央の遅れは水野一本で止めます」
『柴崎さんなら、同じ判断をしましたか』
河合は、柴崎の空の机を見た。
「たぶん、もっと早く切ってました」
*
十一時。
水野はまだ北央飲料にいた。
積み込みは終わった。
だが次の峰央パッケージには間に合わない。峰央の資材が遅れると、午後の工場ラインに影響する。
水野のスマートフォンが鳴った。
河合だった。
『峰央は西埼玉に頼んだ。お前は北央を終えたら営業所へ戻れ。休憩を取る』
「すみません」
『謝るな。十五分の遅れを一時間にしないために外した』
水野は返事をしたあと、荷台の扉を閉めた。
雨はまだ降っている。
受付の屋根から落ちる水が、アスファルトに細い線を作っていた。
柴崎がいれば、雨を止められたわけではない。
事故をなくせたわけでもない。
ただ、十五分の遅れが一時間になる前に、どこか一本を切っていた。
*
その日の夕方。
品川の統合配車センターで、江藤は遅延報告をまとめていた。
峰央パッケージ、外注手配。
南央フーズ、定刻。
川島ロジスティクス、午後へ変更。
北央飲料、十五分遅れで納品完了。
大事故にはならなかった。
だが、江藤はそれを成功とは書けなかった。
川越の河合が止めなければ、水野に無理な便が乗っていた。南央用の冷蔵枠を崩していれば、食品側が止まっていた。西埼玉配送へ頼む判断が遅れれば、峰央の工場ラインに影響が出ていた。
画面は役に立つ。
車両の全体像を見るには、必要だった。
しかし、画面に見えないものを、現場の誰かが補う前提で設計してはいけなかった。
江藤は新しい運用案の一行目に、こう書いた。
『判断を一人の頭に戻さない』
*
三ヶ月後。
川越営業所の壁には、新しい配車表が貼られていた。
品川の統合画面は残っている。
ただし、川越営業所にも配車席が戻った。早番の事務を一人増やし、河合が安全判断を横で確認する。品川は全体の空車を見て、川越は現地の便を組み替える。
早番の事務には、河合と品川の担当者が一ヶ月かけて、朝の判断手順を教えた。
失敗したのは、画面ではない。
画面に見えないものまで、ないことにした運用だった。
江藤は月に一度、川越へ来るようになった。
この日も、会議室ではなく点呼場の横に立っていた。
「この車、画面では午後空いてます」
早番の事務員が言った。
河合が首を振る。
「空いてるけど、使わない。昨日遅かった」
「備考に入れます」
「備考に入れて、明日の朝もう一回見る」
江藤は、その会話をノートに書いた。
空いている車を当てる。
その前に、空いているように見える車を使わない理由を確認する。
それが、川越で覚えるべき手順だった。
*
同じころ。
柴崎真理子は、所沢市にある西埼玉配送の事務所で、壁の地図を見ていた。
武州環流運輸を辞めたあと、二ヶ月休んだ。
母の通院に付き添い、家の押し入れを片づけ、朝四時台に目が覚める癖が少しずつ薄れたころ、西埼玉配送から声がかかった。
配車担当を一人で置きたいのではない。
若手二人を育てたい。
その言葉を聞いて、柴崎は週三日だけ手伝うことにした。
「柴崎さん、これ、俺が一人で組めるようになるまで、どれくらいかかりますか」
若手の飯田が、配車表を見たまま聞いた。
柴崎は赤いペンを置いた。
「一人で組まなくていいよ」
「でも」
「一人でできるようになっても、一人でやらない。森下さんに見てもらう。運行管理者にも止めてもらう。私も、そうすればよかった」
飯田はペンを持ったまま、ゆっくり頷いた。
電話が鳴った。
午後の納品先から、受付が三十分遅れるという連絡だった。
飯田の顔が固くなる。
柴崎は配車表を少し引き寄せた。
赤い線を引く前に、地図を見た。所沢から入間、坂戸、川越。線はまだ動かせる。
「じゃあ、もう一回組み直そうか」
飯田が頷き、森下が横から画面を覗き込む。
三人で見る地図の上で、一本の便が静かに横へ動いた。




