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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『空いてる車を当てるだけでしょ』

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第63話「画面に載らない条件」

「本社の方針は変わらないんだな」


 浅井所長が言った。


 会議室の空調は、同じ音で回り続けている。けれど、さっきまで整って見えていた車両一覧の画面が、柴崎には急に薄く見えた。


「はい。八月一日から、品川で受けます」


 江藤は、今度ははっきり言った。


「ただし移行期間を置きます。柴崎さんには品川へ来ていただいて、三営業所の運用設計に入ってほしいと考えています」


 柴崎は、差し出された辞令案を見た。


 勤務地、品川本社。

 始業時刻、八時三十分。

 職務、統合配車センター運用担当。


 紙の文字は、きれいだった。

 きれいすぎて、朝五時の点呼場の匂いがまったくしなかった。


「川越には、配車担当を置かないんですか」


「早番の事務が連絡を受けます。判断は品川でします」


「早番の事務は、配車を組んだことがありません」


「だから標準化します」


 江藤は真剣だった。

 人を軽く見ているのではない。むしろ、誰か一人に頼り切る状態を危険だと思っている。


 柴崎も、それは分かっていた。

 自分が休むと朝の配車が重くなる。母の通院に合わせて抜けるたび、浅井と河合に負担をかける。その状態が良いはずはない。


 けれど、属人化をなくすことと、現地の判断席をなくすことは違う。



 その夜、柴崎は川越市内の自宅で、辞令案をダイニングテーブルに置いた。


 母は椅子に座ったまま、右脚をゆっくり伸ばしている。人工関節の手術後に教わった運動だ。テレビでは野球中継が流れ、実況の声が食器棚へ反射していた。


「品川?」


 夫が紙を読んだ。


「うん。八月から」


「通えないことはないけど」


「朝の配車は早番がやるって。私は八時半から」


「真理子がやってた仕事を、早番の人がやるのか」


 柴崎は答えなかった。


 母が脚を下ろした。靴下が床を擦る音がした。


「私の通院なら、一人で行ける日もあるよ」


「階段があるでしょ」


「ゆっくり行けばいい」


「そういう話じゃないよ」


 柴崎は辞令案を裏返した。

 母の通院だけではない。始発に近い電車で品川へ通い、川越の道路を知らない人間へ、画面越しに川越の配車を教える。その形で何年続けるのか。考えるほど、答えは同じ場所へ戻った。


「行けば、会社のためにはなるんじゃない?」


 夫が言った。


「うん」


「でも、真理子が壊れたら意味ないよ」


 柴崎は笑おうとして、うまく笑えなかった。


 仕事は好きだった。

 朝の電話も、急な変更も、無理なお願いも好きではない。それでも、一日の最後に全部の車が戻ってくると、胸の奥が静かになった。


 誰でもできる仕事ではない。

 けれど、自分だけができる仕事にしたかったわけでもない。


 ただ、会社が用意した答えは、柴崎の生活を通らなかった。



 一週間後。

 午前四時半の事務所は、いつもより静かだった。


 柴崎はプリンターから出した配車表を、浅井の机へ置いた。


「七月末で辞めます」


 浅井は封筒を見て、すぐには手を伸ばさなかった。


「品川は、難しいか」


「はい」


「本社には、もう一度言う」


「ありがとうございます。でも、私の中では決めました」


 浅井は封筒を受け取った。


「止められなくて、すまない」


「所長のせいじゃないです」


「引き継ぎ、頼めるか」


「やります。でも、電話番号を渡すだけじゃ足りません」


 柴崎は壁の地図を見た。

 川越から所沢、坂戸、入間。色の違う線が交差している。線の一本ずつに、受付の癖と待ち時間と、無理を聞いてくれた回数がある。


「一ヶ月で全部は、渡せないです」


 浅井は一度だけ頷いた。


 車庫の外では、朝一番の大型車がゆっくり門を出ていく。赤いテールランプが、まだ暗い県道へ曲がった。



 九月第一週。

 水野翔太は、空の荷台を背負って関越道を走っていた。


 午前九時四十分。

 所沢インターチェンジを過ぎたあたりで、ハンズフリーの着信音が鳴った。品川の統合配車センターからだった。


『水野さん。川島ロジスティクスへ寄って、食品包材を積んでください』


 電話の声は、若い男性だった。

 統合後に何度か話したことがある。丁寧だが、いつも少し急いでいる。


「川島ですか。午後は北央飲料の積み込みが入ってますけど」


『確認しています。今、空車ですよね』


 水野はフロントガラスの先を見た。

 荷台は空だった。確かに荷物はない。だが、所沢から川島ロジスティクスへ回り、受付をして、積み込みを待ち、北央飲料へ戻るには、余裕がない。


「川島は予約なしだと一時間待つことがあります」


『先方には連絡しています。積み込みは十一時半予定です』


「十一時半に積み終わる、ではないですよね」


 電話の向こうで、キーボードの音が止まった。


『確認します』


 少し待たされた。

 その間に、水野の車は出口の分岐へ近づいていく。


『現地判断でお願いします』


 その言葉を聞いた瞬間、水野は困った。

 現地判断と言われても、運転手が勝手に便を外すわけにはいかない。積めば次が遅れる。積まなければ、品川の画面では水野が断ったように残る。


「河合主任に確認してから向かいます」


『急ぎなので、できれば先に動いてください』


「確認します」


 水野は電話を切り、営業所へかけ直した。


 河合主任はすぐに出た。


『どうした』


「品川から、川島へ寄れと」


『午後の北央は』


「残ってます」


『川島の受付は予約なしだろ』


「先方連絡済みとは言ってました。ただ、積み込みが十一時半予定です」


 河合は短く息を吐いた。


『川島へ向かうな。いったん営業所へ戻れ』


「品川には」


『俺から言う』


 水野は左へ流れそうになっていた車線を戻した。


 柴崎がいたころ、こういう電話は水野へ直接来なかった。

 柴崎は先に川島へ電話し、受付の混み具合を聞き、北央へ遅れの許容を聞き、河合に運転時間を確認してから、水野へ指示を出した。


 水野が聞くのは、結論だった。

 行って。行かないで。先に戻って。一本だけ拾って。


 簡単そうに聞こえる言葉の手前で、いくつもの電話が鳴っていたのだと、柴崎がいなくなってから分かった。



 品川本社の統合配車センターで、江藤美香は画面を見ていた。


 川越、羽生、品川。

 三営業所の車両が一つの地図に並ぶ。八月の稼働率は、数字の上では改善していた。


 空車回送は減った。

 荷主からの急な依頼にも、以前より早く車を当てられるようになった。

 役員会に出した資料の折れ線グラフは、きれいに上向いている。


 それでも、江藤の机には遅延報告の紙が増えていた。


 十五分遅れ。

 二十分待機。

 受付予約外れ。

 協力会社手配不可。


 事故ではない。

 大きな失敗でもない。

 だから最初は、移行期の揺れだと思った。


 だが、同じ言葉が何度も出てくる。

 荷待ち。

 指定時刻。

 ドライバー残り時間。


 どれも一件ずつなら小さな揺れだった。

 けれど、小さな揺れは、配車表の上で次の車へ移っていく。江藤はその移り方を、まだ線として見られていなかった。


 江藤は川越の車両一覧を開いた。

 水野の中型車は、システム上では空車になっている。次の積み込みは午後一時。現在地から北央飲料までは四十分。


 画面だけを見れば、川島ロジスティクスへ寄れる。


 だが河合からの内線は、違うことを言った。

 数字の余白に見えた場所には、まだ名前のついた仕事が残っていた。


『その便は外してください』


「水野さん、空車では」


『荷台は空です。でも使える車じゃない』


 江藤は、以前の自分の言葉を思い出した。

 画面を見て空いてる車を当てるだけでしょ。

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