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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『空いてる車を当てるだけでしょ』

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第62話「四時五十分の配車表」

 午前四時五十分。

 川越営業所の事務所で、柴崎真理子は配車表の端に赤い線を引いた。


 線の先は、横浜へ向かう中型車だった。

 その車は本来、北央飲料の倉庫で六時に積み、八時半に横浜の共同配送センターへ入る予定だった。だが、机の上に届いたFAXには、積込開始を七時半に変更すると書かれている。


 一時間半の遅れ。

 紙の上では、それだけだった。


 柴崎はFAXの余白へ、三本の矢印を書いた。

 横浜の納品予約。十一時の峰央パッケージ。夕方に戻る冷蔵車の枠。


 一台がずれると、次の便がずれる。

 次の便がずれると、荷受けの予約を外す。予約を外すと、倉庫前で待つ。待った車は営業所へ戻れず、夕方の便に穴が開く。


 配車表の上で、赤い線は一本だった。

 けれど、その線を動かすと、見えないところで五本の線が引きつる。


 事務所の外では、まだ車庫の照明が白く残っている。アイドリングを始めた大型車の低い音が、壁越しに床を震わせた。


 柴崎は電話を取った。


「新河岸運送さん、石田さんいますか。柴崎です」


『早いね』


「昨日、午前に空くって言ってた中型、まだあります?」


『あるけど、午後は使うよ』


「午前だけでいいです。峰央の資材、川越から坂戸まで。帰り荷なし」


『峰央か。十一時積み?』


「十時四十五分に入ってほしい。受付が混む前に」


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。

 石田はスマートフォンより手帳を信用する人だ。午後三時を過ぎると事務所にいない代わりに、朝は四時台でも電話に出る。


『運賃、前回と同じじゃきつい』


「分かってます。雨の予報なので、待機が出たら別で乗せます」


『じゃあ受ける』


「助かります。伝票は七時半までに送ります」


 受話器を置く前に、柴崎は配車表の峰央の欄へ小さく丸を付けた。


 画面の上で空いている車を探すだけなら、石田に電話する必要はない。

 車両管理システムには、自社の四十二台の現在地が表示される。大型十六台、中型二十台、冷蔵車六台。地図上の丸をクリックすれば、車番とドライバー名と帰庫見込みが出る。


 便利にはなった。

 十年前は、戻り時刻を知るためにドライバーへ一本ずつ電話していた。今は丸を見れば、どの道を走っているかは分かる。


 ただ、丸は渋滞で疲れた顔をしない。

 積込口で一時間待たされたことも、受付の担当者が今日だけ不在であることも教えない。昨日の夜、子どもの発熱であまり眠れていない運転手の声も、画面には出ない。


 五時十分。

 点呼場の扉が開き、水野翔太が入ってきた。二十九歳。中型車に乗って二年になる。


「おはようございます」


「おはよう。水野くん、横浜のあと変わった」


「北央ですか」


「積みが七時半。横浜の予約を十時半へずらす。峰央は新河岸さんに振った。あなたは北央の最後の一枚だけ、午後便に残さないで済むように受付を通して」


 水野は壁の時計を見た。


「横浜、間に合いますか」


「普通に走れば間に合わない」


「普通に走らなければ?」


「北央で先に積める分を積ませる。最後の一枚が遅れるなら、北央に分けてもらう。全部待たない」


 水野は少し笑った。


「それ、北央が嫌がりません?」


「嫌がるよ。だから七時前にもう一回電話する」


 水野は運行管理者の河合主任の前へ行き、点呼を受けた。

 河合はアルコールチェックの結果と免許証を確認し、顔色を見る。咳はないか。睡眠は取れているか。昨日の帰庫は何時だったか。


 柴崎は配車を組む。

 河合は安全のために止める。

 二人の仕事は重なるが、同じではない。


 水野が出ていくと、柴崎は自分の机に戻った。

 電話機の横には、母の通院予定を書いた小さなメモが貼ってある。今日は十時半、整形外科。人工関節の手術から三ヶ月、まだ階段では手すりを使う。


 夫は市内の印刷会社へ六時半に出る。

 高校二年の娘は七時十五分に家を出る。

 柴崎は、朝の配車が落ち着いた九時すぎにいったん抜け、母を病院へ送るつもりだった。


 誰かに代わってもらえる日もある。

 けれど、朝五時から八時までの配車だけは、まだ誰にもそのまま渡せない。


 八時二十分。

 所長の浅井が本社からのメールを印刷して、柴崎の机へ置いた。


「柴崎さん、本社から通知」


 紙の見出しには、統合配車センター設置のお知らせ、とあった。


 品川本社に、三営業所の配車業務を集める。

 空車情報を一元化し、車両稼働率を改善する。

 六月から段階的に移行する。


 柴崎は、赤い線だらけの配車表の上に、その紙を置いた。


「川越の配車もですか」


「対象に入ってる」


 浅井の声は重かった。



「配車なんて、画面を見て空いてる車を当てるだけでしょ」


 品川本社から来た江藤美香は、悪気のない声でそう言った。


 六月第三週の火曜日。

 川越営業所の会議室には、古い空調の音が残っている。正面には江藤、隣に浅井、その横に河合。テーブルの上には、本社から持ち込まれたノートパソコンが一台置かれていた。


 画面には、三営業所の車両一覧が並んでいる。

 大型、中型、冷蔵車。現在地。積込予定。帰庫見込み。色分けされた四角が、時間軸の上に整然と配置されていた。


「言い方が軽かったです。すみません」


 江藤はすぐに言い直した。


「経験が必要なのは分かっています。ただ、その経験を特定の営業所だけで抱える状態を変えたいんです。川越に空きがなくても羽生に空きがあるなら使える。全体で見れば効率が上がります」


 理屈は正しい。

 柴崎も、空車情報が一つの画面で見えること自体に反対していなかった。


「この羽生の大型。午後一時から空いてますね」


 江藤が画面を指した。


「川越の飲料便に回せば、川越の中型を別便に使えます」


「その大型は、戻りが羽生です」


 柴崎は言った。


「飲料便の納品先は所沢です。所沢で降ろして、羽生へ戻すだけで二時間近くかかります。そこに事故渋滞が乗ると、夕方の点呼に引っかかります」


「でも、帰庫見込みは十七時半です」


「画面の見込みは、荷待ちがない前提です」


 江藤は黙った。

 責められていると感じたのか、口元を結んだ。柴崎は少し声を落とした。


「羽生の車が悪いわけじゃないです。川越の便に使える日もあります。ただ、その日は羽生のドライバーの前日が軽い日で、所沢の納品先が混まない曜日で、夕方に羽生へ戻さなくていい日です」


「そういう条件を、システムに入れたいんです」


「入るものもあります。入らないものもあります」


 柴崎は会議室の窓を見た。

 車庫では、水野が荷台の扉を開けている。白いシャツの背中に汗がにじんでいた。


「たとえば北央飲料は、受付の人が替わると待ち時間が変わります。峰央パッケージは、月末だけ工場側の検品が長い。南央フーズの冷蔵便は、指定時刻を外すと次の枠まで入れません。新河岸運送の石田さんは朝は強いけど、午後三時を過ぎると連絡が取れません」


 江藤はキーボードへ手を置いた。


「備考欄を増やします」


「備考欄は必要です。でも、備考を読んでから決める人が、現場の電話に出られる距離にいないと間に合わないことがあります」


 会議室が静かになった。


 柴崎は、通知の文面を思い出していた。

 空車情報を一元化する。


 空いている車を見つけることは、配車の一部だ。

 けれど、空いているように見える車を、使わないと決めることも配車だった。

 その判断を誰が、どの時点で持つのか。柴崎が聞きたいのは、そこだった。

 答えが曖昧なまま、次の便はもう動き始めている。

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