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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
一人情シス、CTOになる

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第9話「母の時間」

 家に帰ると、台所の電気がついていた。


 時計は二十二時を回っている。


「ただいま」


 返事の代わりに、煮物の匂いがした。母は流しの前に立っている。背中が、昔より少しだけ薄くなった気がする。


「遅かったね」


「ごめん」


 藤崎は鞄を椅子に置いた。テーブルの上には、孫たちが置いていったらしい折り紙の鶴が並んでいる。赤と、青と、いびつな黄色。


「姉ちゃん、来てたの」


「夕方ね。下の子が熱出したって、薬取りに寄っただけ」


 母はそう言って、味噌汁の鍋に火を入れ直した。


「上の子、玄関で何回もあんたの靴の場所聞いてた」


「俺の?」


「『おじちゃんの靴、ここでいい?』って。並べて帰ったよ」


 藤崎は靴箱の方を見た。たたきの隅に、自分の革靴がきちんと揃えて置かれていた。誰かが小さな手で動かした角度だった。


 ふいに、目の奥が熱くなった。


 慌てて麦茶のグラスを取りに立った。



 風呂に入って、寝間着のまま台所に戻った。


 母はもう茶の間で、テレビの音を小さくして座っていた。藤崎は冷蔵庫から麦茶を出して、向かいに腰を下ろす。


 画面の中で、知らない芸人が笑っていた。


「お父さんが死んだ年、覚えてる?」


 母が、唐突に言った。


 藤崎は麦茶のグラスを置いた。


「……覚えてるよ。大学四年の春」


「桜が咲く前だった」


「うん」


 あの日、研究室で論文の構成を詰めていた。携帯が鳴って、姉の声が震えていた。家に帰ったら、父はもう病院にいなかった。


 葬式の段取りも、四十九日も、藤崎が動いた。母は布団から出てこられなかった。


 香典返しの宛名書きをしていた夜、隣の部屋から物音がした。襖を開けると、母が壁にもたれて泣いていた。声を出さずに泣いていた。藤崎はかける言葉が見つからなくて、ただ隣に座っていた。


 その夜から、母を一人にすることが怖くなった。



 大学院の願書は、机の引き出しの中にあった。


 東京の会社の内定通知も、その下にあった。外資系のクラウド企業で、研究室の教授が「お前ならいける」と笑った会社だ。


 ある夜、藤崎が買い物から戻ると、母が台所の床に座り込んでいた。包丁の柄に手をかけたまま、動けなくなっていた。


 翌週、藤崎は両方を辞退した。


 地元の中堅メーカーの内定を、新しく取った。家から車で十五分。残業少なめ。給料は安いが、夜は必ず家に帰れる。条件は、それだけでよかった。


 誰にも相談しなかった。相談したら、止められると分かっていたから。


 研究室の教授には、メール一通で済ませた。返信は来なかった。同期にも、東京組には何も言わなかった。SNSのアカウントは、その春から開かなくなった。


 地元に戻る電車の中で、藤崎は窓に映る自分を見ていた。何かを諦めたという感覚すら、その時はまだなかった。ただ、母をひとりにしないこと。それだけが頭の中にあった。



「あんた」


 母の声で、藤崎は我に返った。


「昔は何になりたかったっけ」


 茶碗の縁を、母の指がなぞっている。視線はテレビの方に向いたままだった。


 藤崎は少し考えるふりをして、答えた。


「……覚えてないよ」


「嘘つき」


 穏やかな声だった。


「お母さんは覚えてるの」


「忘れるわけないでしょ。あんたが楽しそうに話してたこと、全部」


 母はやっぱり、こちらを見ない。


 藤崎は麦茶を一口飲んだ。氷はもう溶けていた。



 入社して一年目の冬、母は一日に何度も藤崎の名前を呼んだ。


 二年目の夏、初めて二人で県境の温泉に行った。母は湯上がりに少しだけ笑った。その笑顔を、藤崎は今でも覚えている。


 三年目の秋、姉が結婚した。


 四年目、姉に第一子が生まれた。母が初めて孫を抱いた日、藤崎は会社の会議室にいた。携帯に届いた写真の中で、母の目に光が戻っていた。何年ぶりに見る光だったか、藤崎には分からなかった。


 六年目、姉に第二子。姉夫婦が実家の近くに家を建てた。


 その頃から、母は少しずつ外に出るようになった。孫の保育園の送迎を、姉に頼まれて引き受けるようになった。


 藤崎の方は、夜間の障害対応が増えていた。基幹システムが古くて、夜中によく止まった。母のベッドサイドの椅子に座って、ノートパソコンを開いて、コマンドを叩いた夜が何度もあった。母の寝息と、ファンの音だけが聞こえていた。


 休日にもPCを開いた。会社の仕事ではない、自分のためのコードだった。クラウドに置いた小さなオープンソース。誰かが星をつけてくれることが、唯一、自分が技術者であることを思い出させてくれた。


 それは、藤崎にとって唯一の「自分の時間」だった。


 星の数は、両手で数えられる程度だった。それでも、知らない誰かが「助かりました」とイシューに書き込んでくれた朝のことを、藤崎ははっきり覚えている。台所で味噌汁を温めながら、画面を見て、少しだけ笑った。


 その日も、午後には会社の障害対応で潰れた。



「お母さん、もう大丈夫だから」


 母が言った。


 テレビの音が、急に遠くなった気がした。


 藤崎は何も返せなかった。麦茶のグラスの結露が、コースターに小さな水たまりを作っていた。


 母は、自分の手の甲を見ていた。シミの増えた、細い手だった。


「大丈夫」


 もう一度、母が言った。


 藤崎の喉の奥で、何かがつかえた。


(——お母さんは、時間が経ったから治ったんじゃないんだな)


 ずっと、そう思いたかった。


 月日が流れて、孫が生まれて、季節が巡って、自然と母は良くなっていったのだと。そう思っていれば、自分が選ばなかった八年分のことを、考えなくて済んだ。


 でも、今、藤崎には分かってしまった。


 母は、息子を解放するために、回復したのだ。


 孫を抱くことも、保育園まで歩くことも、夕方に煮物を作ることも、ぜんぶ、息子に「もう大丈夫」と言うために、少しずつ積み上げてきた時間だった。


 藤崎には、それが分かった。分かってしまった。



「お母さん」


「うん」


「……ありがとう」


 言ってから、自分でも何に対しての礼か分からなくなった。


 母は、ふっと小さく息を吐いた。それは笑いに似ていて、ため息にも似ていた。


「お礼を言うのは、こっちでしょ」


 藤崎は俯いた。


 茶の間の電気は少し暗くて、テーブルの木目がよく見えた。父が生きていた頃から、ずっとこの家にあるテーブルだった。



 寝室に戻ったのは、日付が変わる頃だった。


 布団に入って、天井を見上げた。湊の声が、まだ耳の奥に残っていた。『お前の技術を腐らせるな』。今日の夕方、車の中で聞いた声だった。


 あの時、藤崎は何も答えられなかった。湊もそれ以上は押してこなかった。電話は一度切れて、それきりだった。


 枕元のスマホが、ふっと光った。


 藤崎は手を伸ばした。LINEの通知が一件、画面の上に浮かんでいた。


 湊涼介。


『明日、時間作れるか?』


 藤崎は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 襖の向こうで、母の部屋の明かりが消える音がした。


 指先が、しばらく止まった。


 八年の重さが、その三文字を打つのを邪魔しているのか、押し出しているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、襖の向こうの暗さが、今夜だけは、いつもより少し優しく感じられた。


 藤崎は短く返信を打った。


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