第10話「決断と退職」
駅前のカフェは、平日の昼にしては妙に空いていた。
奥の窓際に、湊はもう座っていた。
「フジ、こっちこっち」
手を上げて笑う。八年前と同じ顔だった。少しだけ、スーツが似合うようになっていた。
藤崎は会釈して、向かいに座った。
「悪いな、急に呼び出して」
「いや」
「コーヒーでいい? 俺、頼んどく」
湊はメニューを見ずにカウンターに歩いていく。歩き方まで起業家じみていた。藤崎は窓の外を眺めた。十月の街路樹が、少しだけ色を変え始めていた。
戻ってきた湊は、紙ナプキンの上にA4を二枚置いた。サービス概要だった。
「B2B SaaS。情シス向けのマネージドサービス。野良ツール、棚卸しから運用代行までワンストップでやる」
「……」
「お前が一番苦しんできた領域だろ」
湊はカップに口をつけずに、まっすぐ藤崎を見た。
「お前ならプロダクトが作れる。机上の論理じゃない、現場の地獄を知ってる人間にしか作れないやつだ」
藤崎は資料に目を落とした。アーキ図の右下に、空欄の四角があった。「CTO」と書きかけて、消した跡があった。
「俺は、八年ブランクがある」
ようやく出た声は、思っていたより掠れていた。
「最新の技術は追えてない。コンテナもオーケストレーションも、論文だけだ」
「フジ」
湊は前のめりになった。
「八年、現場で地獄を見てきた奴が、ブランクって言うな」
藤崎は顔を上げた。
「キャッチアップなんざ三ヶ月で済む。お前が八年かけて積み上げたもんは、三ヶ月じゃ誰も追いつけない」
窓の外で、誰かが笑い声を上げて通り過ぎていった。
「考えさせてくれ」
「ああ、考えろ。考えて、来てくれ」
湊はそれだけ言って、ようやくコーヒーを口に運んだ。押し付けがましさは、なかった。
藤崎の中で、長いこと動かなかった何かが、ゆっくりと持ち上がる音がした。
大学の研究室で、深夜まで分散システムの論文を書いていた頃のことを、ふいに思い出した。ホワイトボードに走り書きされた構成図。そのときの自分は、世界のどこかに自分が作ったものが届くと、本気で信じていた。
あの感覚を、忘れていたわけではなかった。引き出しの奥にしまって、鍵をかけていただけだった。
「フジ、無理に答えなくていいぞ」
湊はカップを置いて、静かに言い足した。
「ただ、お前の八年に値段をつけられる人間は、この国にそう多くない。それだけは言わせてくれ」
*
その夜、台所で湯を沸かしながら、藤崎は母に話した。
母は流しの前で、洗い物の手を止めた。
「東京の会社か」
「いや、地元に拠点を作るらしい。週の半分はリモートでいいって」
母はしばらく黙っていた。湯が沸く音だけが、台所に響いた。
「そう」
振り返った母は、笑っていた。
「やっと言えたね」
藤崎は何も言えなかった。
ガスを止めて、急須に湯を注いだ。湯気がふたりの間に立ち上がって、すぐに消えた。
母は何も訊かなかった。条件も、給料も、リスクも。ただ「やっと言えたね」だけを、もう一度小さく繰り返した。
*
退職届を出したのは、その週の金曜日だった。
昼休み明け、部長席に封筒を置いた。
「……えっ」
部長は老眼鏡を上にずらして、封筒の表書きを二度見した。
「藤崎君、これ」
「お世話になりました」
「困るなあ、急に言われても」
部長は本気で困った顔をしていた。困らせたいわけではなかった。でも、何かを言える気もしなかった。
「次、決まってるの」
「はい」
「どこ」
「スタートアップです」
部長は意味を測りかねる顔をして、それから「ふうん」と言った。スタートアップという単語の手触りが、たぶんよく分かっていない。
専務には、最後まで報告されなかった。退職届の存在すら、たぶん知らないままだった。
*
引き継ぎ資料を書いた。
基幹システム。二十年物のスクラッチ。誰かが書き、誰かが触り、誰かが消し忘れた地層が、テーブルとストアドの中に何層も積み重なっている。それを掘り下げて、図にした。
夜間バッチのジョブ。百二十本。うち三十二本はもう何も処理していない。けれど止め方を誰も知らないから、毎晩律儀に走り続けている。その八十八本と三十二本の見分け方を、藤崎は八年かけて一本ずつ潰してきた。その由来も全部書き残した。
各部署の野良ツール。Excelマクロ、Accessフォーム、いつ誰が作ったか分からないバッチファイル。依存関係の矢印を引いていくと、紙が足りなくなった。A3を継ぎ足した。
ベンダー連絡先。担当者の癖。電話の通じやすい時間帯。
各部署の暗黙ルール。経理は月初の三日間は基幹を触るな。製造は金曜の夕方に必ず棚卸しを流す。営業の山田課長はパスワードをよく忘れるが、絶対に再発行と言わずに「あれ、なんだっけ」と言ってくる——。
書き始めて十日目に、A4で百ページを超えた。
誰も書けと言わなかった。誰も読み方を知らなかった。それでも、書かないと止まる場所がいくつもあった。書きながら何度も、自分の手書きのメモが頼りになった。八年間、机の引き出しに溜め込んできた走り書きが、ここにきて唯一の取扱説明書になっていた。
藤崎はプリントアウトの束を眺めて、ふと手を止めた。
(これは、引き継ぎ資料じゃない)
自分が八年かけて積み上げてきた仕事の地図だった。誰にも見えなかった地下の配管図だった。
誰も読まないだろう、と思った。読んだとしても、意味を取れる人間がこの会社にいない。
それでも書いた。書き終えて、表紙にタイトルを入れた。「情報システム運用ハンドブック」。事務的な名前にした。
*
最終日は、雨だった。
いつもの時間に出社して、いつものようにシステムの不調を二件さばいた。総務のプリンターが詰まって、呼ばれて、紙くずを取り出した。製造部のVPNが切れたという連絡を受けて、設定を直した。
昼前に、部長が席まで来た。
「藤崎君さあ、外注先の選定なんだけど、何か心当たりある?」
藤崎は手を止めて、少しだけ考えるふりをした。
「……いえ、特に」
部長は「そっか」とだけ言って、席に戻った。
午後、廊下で専務とすれ違った。
専務はスマホを見ながら歩いていて、顔も上げなかった。すれ違ったあとも、振り返らなかった。藤崎の顔を、たぶん最後まで覚えなかった。
夕方、デスクの私物を鞄にまとめた。マグカップひとつ、USBメモリ二本、ノート一冊。それだけだった。
パソコンの電源を落とした。
「お疲れさまでした」
頭を下げた。
数人が顔を上げて、軽く手を振った。派遣の事務スタッフだけが、立ち上がって深く頭を返してくれた。
鞄ひとつで、ビルを出た。
*
雨は小降りになっていた。
駅のホームで、藤崎はスマホを取り出した。湊のトーク画面を開いて、短く打った。
「引き受ける」
送信ボタンを押した。
返信は、ホームの黄色い線を見つめている間に来た。
「待ってた」
それだけだった。湊らしかった。
藤崎は顔を上げた。
雲の切れ間から、薄い夕日が差していた。十月の空は、思っていたより高かった。
電車のアナウンスが流れる。鞄の中で、百ページの地図が静かに重さを持っていた。
明日からのことは、まだ何も分からなかった。それでも、八年ぶりに、自分の足で次の駅に向かおうとしていた。




