第11話「——どちら様ですか?」
----現在
受話器の向こうで、誰かが受話器を奪う気配があった。
『——藤崎君か』
今度は、忘れようがない声だった。
元部長。八年間、藤崎を「若い子はパソコン得意だねえ」で片付け続けた人。
藤崎は無言で、目だけを湊に向けた。
湊は壁にもたれて、コーヒーカップを片手に、こちらの会話を聞こうとしている。
湊にだけは、前職の話を一通り聞かせていた。専務の発言も、徹夜の復旧も、翌朝の「助かったよ」も。湊は最後まで一度も口を挟まずに、ただコーヒーを飲んでいた。
『今、いいかな』
「……どうぞ」
『その、実はな』
部長の声が、ひどく掠れていた。
息の継ぎ目が短い。電話の向こうで、何度も唾を飲み込んでいる。
『昨日の夜から、基幹システムが、全部止まってる』
藤崎は、机の縁を指でなぞった。
止まっている、という言葉が、頭の中で勝手に映像になる。受発注も、出荷指示も、月次の締めも、何もかも止まっている工場のフロア。電話だけが鳴り続けているはずだった。
『朝になっても復旧しない。サーバーの画面に、英語でメッセージが出ていて、ファイルが全部開けない。業者を呼んだら、ランサムウェア、というやつらしい』
知っていた。
あの二十年物の基幹システムの、どこにどんな穴が空いているか。八年かけて全部塞いできたつもりだった。退職時の引き継ぎ資料にも、運用ルールはA4で十数ページ書いた。週次のオフラインバックアップ、ベンダー側の保守契約、パッチ適用のサイクル。
そのうちのどれか一つでも守られていれば、こうはならない。
守られなかったのだ。
『バックアップから戻そうとしたんだが、テープが、半年前のものしか残っていなくて』
「半年前」
思わず繰り返した。
『……すまん。ローテーションが、いつの間にか止まっていたらしい。誰がいつ止めたのか、今となっては分からん』
止めたのではないだろう。
誰も回していなかった、というだけの話だ。八年間、毎週月曜の朝に藤崎がやっていた作業を、引き継ぎ資料の中の一行として渡した。一行になった瞬間、それは誰の仕事でもなくなる。
退職の前日、部長は引き継ぎ資料の表紙だけを見て、「ご苦労さん」と笑った。中身を開いた様子はなかった。
その日のうちに、誰かが棚の奥に挿し込んだのだろう。背表紙の見えない場所に。
「……それで、ご用件は」
わざと、事務的な声を作った。
『藤崎君、戻ってきて——いや』
部長が、自分の言葉を呑み込んだ。
『……御社に、外注できないかと思って』
「御社、というと」
『お前さんの、今いる会社だ。藤崎君のところで、基幹システムの復旧と、その後の、運用保守を……』
「弊社の連絡先、どこから」
『専務だ』
藤崎は、受話器を持つ手にわずかに力を込めた。
『専務が、藤崎君のいる会社の名前を、どこかで見たらしい。あそこに頭を下げろ、と』
あの専務だった。
会議室で、藤崎の目の前で「情シスなんて外注で十分じゃないか」と言い切った人。藤崎が徹夜で復旧した翌朝、報告すら受けていなかった人。
その人の名前が、今、外注先の決裁者として差し出されている。
藤崎は、ゆっくりと受話器を耳から離した。
湊に向かって、無言で差し出す。
湊は片方の眉を上げた。
(俺が?)と目で聞いてくる。
藤崎は小さくうなずいた。
*
「お電話代わりました。CEOの湊と申します」
受話器を受け取った瞬間、湊の声がワントーン上がった。
営業スマイル、というやつだった。藤崎は初めて、湊が客先で使う声を間近で聞いた。
大学の研究室で、論文の締切に追われながらコンビニのおにぎりを齧っていた男と、同じ人間とは思えなかった。
「——なるほど。ランサムウェアですか。いやあ、それは大変ですね」
大変ですね、と言いながら、湊の顔は全く大変そうではなかった。
「ええ、弊社、緊急対応も承っております。ただ、ご存知の通り、この手の案件は初動が命でして」
湊は壁から背を離した。
手元のコーヒーカップを机に置く。
「弊社の緊急対応サービスですと、初月が二百五十万、以降月百五十万。年間でおよそ二千万円ほどになります。これは通常の運用保守の料金ですので、ランサムウェア対応は別建てになります。初動調査だけで、三百万から」
受話器の向こうで、息を呑む音がした。
「ええ。お気持ちは分かります。ただ、二十年動いている基幹システムを、ろくな仕様書もない状態で復旧する仕事ですので。失礼ですが、弊社の人間を一人、半年単位で拘束することになります」
湊は一度言葉を切って、藤崎を見た。
それから、ゆっくりと続けた。
「——その人間を、御社は八年間、年収四百万台で使っていたと聞いています」
受話器の向こうで、何かが落ちる音がした。
「即決が難しいようでしたら、正式な見積書をメールでお送りしますが、いかがしましょう」
長い沈黙があった。
受話器越しに、部長の呼吸だけが聞こえてくる。喉の奥で何かを言いかけて、何度も呑み込む音。
藤崎は、その沈黙をよく知っていた。八年間、自分が何度もしてきた呼吸の仕方だった。会議室で「外注で十分」と言われた瞬間にも、面談で「君の仕事は数字に現れない」と言われた瞬間にも、同じ呼吸をしていた。
『……検討、させていただきます』
「ええ、お待ちしております」
通話が切れた。
湊は肩をすくめて、受話器を藤崎に返した。
「メールアドレス、まだ聞いてなかったな」
「向こうから来るよ」
藤崎は受話器を元の位置に戻した。
*
窓の外を見た。
四月の空が、高かった。
まだ蕾の残る街路樹の上を、雲がゆっくりと流れていく。
胸の奥に、何かが渦を巻いているかと思った。
怒りや、痛快さや、八年分の何か。けれど不思議と、湖の底のように静かだった。
復讐が成立した、という感じは、思っていたより薄かった。
ただ、長く詰まっていた排水口のどこかが、ようやく抜けた。それくらいの感覚だった。
「……"情シスなんて外注で十分"」
藤崎は、独り言のように呟いた。
「——本当にそうでしたね」
湊が、コーヒーカップを取り上げて口に運んだ。
飲み込んでから、横目でこちらを見た。
「お前、意外と性格悪いな」
「八年分だよ」
短く返した。
言ってから、自分の頬がほんの少し緩んでいることに気がついた。八年間、誰に対しても作れなかった表情だった。
湊が小さく笑って、ガラスの仕切りの向こうを指差した。
「会議、戻るぞ。次はアーキテクチャレビューだ」
「分かってる」
藤崎は短く返した。
受話器の余韻は、もう胸の中にはなかった。代わりに、午後の会議で大山に渡すべき手順書の章立てが、いつの間にか頭の中で組み上がっていた。
藤崎は名刺入れを胸ポケットにしまった。
しまう前に、一枚だけ抜いて、指の腹で「CTO」の三文字を撫でた。インクの凹凸が、指先に少しだけ残った。
ふと、思った。
自分のように「誰でもできる仕事」と言われて、ある日静かに去っていった人間が、この国のあちこちにいるのだろう、と。
経理の片隅で伝票を捌いていた誰か。営業事務として電話を取り続けていた誰か。倉庫で在庫を合わせ続けていた誰か。
名前も知らない、声も知らない、けれど、たぶん同じ薄暗い場所で、誰にも数えられない仕事を回し続けてきた誰か。
その誰かが、いつかどこかで、自分の電話を静かに切ることがあればいい。
切った後で、空が高いことに気づけばいい。
藤崎は名刺を戻し、椅子から立ち上がった。
会議室のドアを開ける。
マーカーを握り直して、ホワイトボードの前に立った。




