第12話「食堂のおばちゃん」
朝六時。厨房の蛍光灯はまだ点けない。
換気扇のスイッチだけ入れて、よしえはガス台の前に立った。
三月の朝はまだ冷える。ステンレスの調理台に触れると、指先がひやりとした。
寸胴鍋に水を張る。
昆布を一枚、底に沈めた。利尻の昆布だ。田口さんが「これがいい」と言って、十二年間ずっと同じ店から取り寄せている。水に浸した瞬間、昆布の表面からうっすらと白い粉が溶け出す。
火をつける。
弱火。昆布は沸騰させない。じわじわと温度が上がるにつれて、厨房に海の匂いが広がっていく。鍋の縁に小さな泡が並び始めるのを、よしえはじっと見ていた。
六時十五分。裏口の鉄の扉が開く音がした。
田口さんだ。毎朝、同じ時間に来る。一分と狂わない。
無言でエプロンを結び、冷蔵庫を開け、今日の食材を確認する。
「サバ、いい色してる」
田口さんが言うのは、それだけだった。
昨日、市場で自分の目で選んできたサバだ。褒めているのではなく、確認している。身の張り、目の澄み具合。田口さんの目利きを十五年見てきたけれど、外れたことは一度もない。
六時半。よしえは昆布を引き上げ、鰹節を入れた。
ふわっと立ち昇る湯気に、鰹の香りが混じる。この匂いを嗅ぐと、一日が始まる気がする。十五年、毎朝そう思ってきた。
*
七時、かおるさんが来る。
「おはよう。今日の日替わり、サバ味噌とチキン南蛮ね」
「うん。サバは田口さんが昨日——」
「見た見た。あれは当たりだわ」
かおるさんは言いながら、もうまな板の前に立っている。
キャベツの千切りが始まった。リズミカルな包丁の音が厨房に響く。
九時、みっちゃんが来る。
「おはようございまーす! 今日寒くないですか?」
入ってきた瞬間に、厨房の空気が明るくなる。みっちゃんはいつもそうだった。
エプロンをつけながら、盛り付け用の皿を数え始める。
四人が揃うと、厨房が動き始める。
よしえが味付けの指示を出し、かおるさんが段取りを組み、田口さんが食材を切り出し、みっちゃんが皿を並べる。十五年、八年、五年、十二年。年数はばらばらだけれど、身体が覚えている。
言葉は少ない。鍋の音、包丁の音、水の音。それだけで、厨房は回る。
*
十一時半。
社員食堂のシャッターを上げた瞬間、もう列ができていた。
「よしえさん、今日のおすすめ何?」
「サバ味噌。田口さんのサバだから、間違いないよ」
「じゃあそれで!」
カウンター越しに、顔が見える。名前も分かる。
三百人の社員のうち、昼に来る二百人の顔は、ほとんど覚えていた。
営業二課の山中さんは甲殻類がだめだ。今日の味噌汁にエビは入れていないけれど、念のため声をかける。
「山中さん、今日の味噌汁は大丈夫だからね」
「ありがとうございます、いっつもすみません」
経理の木村くんは入社一年目。最近、顔色が悪い。
よしえは何も言わず、チキン南蛮の盛りをほんの少しだけ多くした。
ピーク時の三十分間は、戦場だった。
かおるさんが鍋を振り、田口さんが皿を洗い、みっちゃんがトレーを受け取り、よしえが盛り付けながらカウンターに立つ。声を出さなくても、目が合えば通じる。
みっちゃんが醤油差しの残量に気づいて補充する。田口さんが食器の回転を見て洗い場のペースを上げる。かおるさんがカレーの残量を見て、追加の仕込みに入る。
誰も指示していない。
十五年かけて、この四人はそういうチームになった。
*
午後二時。片付けが終わり、明日の仕込みの段取りを確認していたとき、内線が鳴った。
「よしえさん、総務の橋本ですが、今からちょっと来てもらえますか」
総務部長の橋本。年に一度の面談以外で呼ばれることは、ほとんどない。
エプロンを外して、三階の会議室に向かった。
橋本部長は、書類を一枚、テーブルの上に置いた。
「来期から、食堂の運営を外部委託にすることが決まりました」
よしえは、書類の文字を見た。
大手給食会社の名前が書いてあった。
「コストの見直しということで、本社の方針です。三月末で現在の契約を終了させていただきます」
「……三月末」
「長い間、ありがとうございました」
橋本部長は、淡々としていた。
悪意があるわけではないのだろう。彼にとっては、仕事の一つだ。食堂の運営費を二割削減する。数字の話。それだけのこと。
「誰でもできる仕事ですから、引き継ぎも要りません。食堂のおばちゃんなんて、どこに頼んでも同じでしょ。味が変わったって、誰も気づきませんよ」
部長は、軽く笑った。
フォローのつもりだったのかもしれない。
よしえは、何も言わなかった。
書類を受け取り、会議室を出た。
*
厨房に戻ると、三人がよしえの顔を見た。
「……来期から、外部委託だって」
かおるさんが手を止めた。
みっちゃんが、目を見開いた。
「え……うそ」
「三月末で、終わり」
みっちゃんの目に涙が浮かんだ。かおるさんが「泣くな」と言ったけれど、その声は少し震えていた。
田口さんは、水切りかごに皿を置いた。
「そうか」
それだけ言って、シンクに向き直った。
翌朝も、田口さんはいつも通り六時十五分に来た。
*
最終日は、三月三十一日だった。
いつも通りに仕込みをして、いつも通りに昼の営業をした。
メニューはサバ味噌と肉じゃがと、きつねうどん。最後だからといって特別なものは作らなかった。いつもの味を、いつも通りに。
十一時半にシャッターを上げたとき、営業二課の山中さんが目を丸くした。
「え、よしえさん、今日で最後って本当ですか?」
「うん。今日までだよ」
「聞いてないですよ! 誰からも何も——」
山中さんだけではなかった。
列に並んだ社員たちが、次々に同じことを言った。
「最後? いつ決まったんですか」
「嘘でしょ。来週からどうなるんですか」
「よしえさんの味噌汁、もう飲めないんですか」
告知されていなかったのだ。
会社からの正式な通知は、翌日から新しい業者が入るという事務連絡だけだった。よしえたちが辞めることは、どこにも書かれていなかった。パートが四人いなくなることは、通知するほどのことではなかったらしい。
みっちゃんが「ありがとうございました」と言いながら、ずっと泣いていた。
かおるさんが「泣くなって言ってんでしょ」と言いながら、自分も鼻をすすっていた。
田口さんは黙って、最後の一皿が出るまで皿を洗い続けた。
*
午後三時。
片付けが全部終わった。
調理台を拭き、コンロの周りを磨き、冷蔵庫を空にした。
かおるさんとみっちゃんと田口さんは、先に帰った。みっちゃんは最後まで泣いていた。かおるさんは「また連絡するから」と言って、振り返らずに出ていった。田口さんは「世話になった」とだけ言った。
よしえは一人、厨房に残った。
窓から午後の光が差し込んでいた。
磨き上げたステンレスの調理台が、鈍く光っている。
十五年間、毎朝火をつけてきたガス台の前に立つ。
元栓に手をかけた。
ここで出汁を引くことは、もうない。
三百人分の味噌汁を作ることも、山中さんのアレルギーを気にすることも、木村くんの盛りをこっそり増やすことも。
よしえは元栓を閉めた。
かちり、と小さな音がした。
換気扇を止めた。
厨房が、静かになった。
十五年分の音が、全部消えた。




