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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『食堂なんて外部委託でいい』

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第13話「プラスチックの蓋」

 四月一日。食堂が変わった。


 壁が白く塗り直されていた。テーブルの配置も変わっている。カウンターの上にはラミネート加工のメニュー表が立てかけてあって、写真つきで「本日のおすすめ」と書いてある。照明も明るくなった気がする。

 きれいだな、と素直に思った。


 俺——高橋裕也、入社三年目——は、トレーを持って列に並んだ。

 前の人との間隔が広い。以前なら、この時間はもう詰まっていたはずだ。初日だからか、みんな様子見をしているのかもしれない。

 制服を着たスタッフが三人、カウンターの向こうに立っている。知らない顔だった。全員、同じ給食会社のロゴが入ったエプロンをしていた。


「日替わりA、Bからお選びください」


 事務的な声だった。

 Aはハンバーグ、Bは焼き魚。カレーは継続。メニューの数は、前より少し減ったように見える。


「Aで」


 受け取ったのは、プラスチックの容器に入ったハンバーグ定食だった。

 蓋を外す。パキ、と乾いた音がした。


 食べた。

 悪くない。普通にうまい。ハンバーグはちゃんとジューシーだし、付け合わせのポテトサラダも味がついている。


 ただ、味噌汁を一口飲んで、首を傾げた。

 何かが違う。出汁が薄いのか、味噌が違うのか。飲めないわけじゃない。でも、さっきまで感じていた「普通にうまい」が、ここで少しだけ揺らいだ。


(……まあ、初日だし)


 気にしすぎだろう。業者が変わったんだから、味が変わるのは当たり前だ。



 一週間が経った。


 メニューの写真と実物が、微妙に違う。写真では彩りよく盛り付けられているのに、実際はプラスチック容器の仕切りに押し込まれているだけだ。キャベツの千切りが水っぽくて、容器の底に水が溜まっている。

 火曜日のBがカレーうどんで、木曜日のBもカレーうどん。ローテーションが短い。


 水曜日、味噌汁を飲んだ。

 温かい。味噌の味もする。でも、奥行きがない。口に入れた瞬間の、ふわっと鼻に抜けるあの香りがない。具は豆腐とワカメだけで、季節の野菜が入ることはなくなった。


 金曜の昼、同期の安藤が隣に座った。


「高橋、最近の食堂どう思う」


「んー……まあ、普通じゃね」


「俺さ、先週からコンビニにしてんだよね」


「え、なんで」


「小鉢がなくなったじゃん。あれ地味にでかいんだよ」


 言われて気づいた。

 以前は定食にひじきの煮物や切り干し大根の小鉢がついていた。あれは確か、おばちゃんたちが朝のうちに作り置きしていたものだ。今のメニューにはない。


 それから、もう一つ気になることがあった。

 経理の斎藤さんが、弁当を持参するようになっていた。斎藤さんは乳製品のアレルギーがある。以前は——よしえさんがいた頃は——カウンターで「斎藤さん、今日のグラタンにチーズ使ってるから、Bの方がいいよ」と声をかけてくれていた。

 今の食堂では、アレルギー対応は「事前申告制」になった。毎週月曜日までに、専用フォームに翌週のメニューと自分のアレルギー情報を入力して送信する。面倒で、斎藤さんは二週目からやめたらしい。


「カウンターで聞けばいいんじゃないの」


「聞いたら『フォームからお願いします』だってさ」


 安藤が肩をすくめた。



 一ヶ月が経った。


 値段が百円上がった。

 掲示板に貼り紙があった。「食材費高騰のため」と書いてある。

 日替わりの選択肢がABの二択からAだけになった日がある。麺メニューが消えた。きつねうどんも、たぬきそばも、もう出てこない。


 カレーのルーが変わった。

 前のカレーは、スパイスの香りがして、食べると額に汗が滲んだ。玉ねぎを飴色になるまで炒めていたのを、カウンター越しに見たことがある。今のカレーは甘い。市販のルーをそのまま溶かしたような、均一な味がする。


 昼休みに食堂に行くと、空席が目立つようになっていた。

 以前は十一時半の時点で列ができていたのに、今は十二時を過ぎても席が埋まらない。テーブルの上に、片付けられていないトレーが放置されていることも増えた。


 代わりに増えたのは、コンビニの袋を持って自席で食べる社員だ。給湯室の電子レンジの前に行列ができるようになった。弁当持参の社員も、目に見えて増えている。


 営業部の先輩が言っていた。


「取引先とのランチ会議、前は食堂でやれたんだよ。よしえさんに言えば、見栄えのいい御膳を出してくれたから。今? プラスチック容器のハンバーグを出すわけにいかないだろ。わざわざ外に出てるよ」


 そういうことだったのか、と思った。

 よしえさんたちがやっていたことの輪郭が、いなくなってから少しずつ見えてくる。アレルギー対応、取引先向けの御膳、新入社員への気配り。全部、あの四人がやっていたことだ。

 メニュー表には載っていない仕事が、山ほどあったのだろう。



 六月のある昼。


 俺はコンビニのおにぎりを二つ買って、オフィスの自席で食べていた。もう食堂には週に一回行くかどうかだ。周りを見れば、同じようにコンビニの袋を広げている社員が何人もいる。半年前にはなかった光景だ。

 パソコンの画面を見ながら、鮭おにぎりのフィルムを剥がす。指先に米粒がついた。


 ふと、思い出した。


 入社一年目の夏。慣れない仕事でミスが続いて、昼飯を食べる気力もなかった日。

 食堂に行ったら、よしえさんがカウンター越しに俺の顔を見て言った。


『高橋くん、いつもの?』


 いつもの。日替わりAのことだ。俺がほとんど毎日Aを頼んでいることを、よしえさんは覚えていた。


『今日はね、サバ味噌が当たりだよ。田口さんのサバだから』


 田口さんのサバ、という意味は当時分からなかった。

 ただ、勧められるままにサバ味噌定食を受け取って、席について、一口食べた。


 味噌の甘さと、サバの脂と、白いご飯。

 それだけのことなのに、なぜか目の奥が熱くなった。味噌汁を飲んだら、出汁の香りが鼻に抜けて、身体の内側が温まるような感じがした。


 俺は結局、その日の午後をなんとか乗り切った。サバ味噌のおかげかどうかは分からない。でも、あの一食がなかったら、もう少し辛かったと思う。

 あの日、よしえさんは俺の顔色を見て、サバ味噌を勧めたのかもしれない。考えすぎかもしれないけれど、よしえさんならやりかねない。経理の木村くんの盛りをこっそり増やしていたのを、俺は知っている。



 コンビニのおにぎりを飲み込んだ。

 悪くない。米も具も、品質は安定している。


 でも、誰かの顔は見えない。

 自分の名前を呼ばれることもない。


(よしえさんの味噌汁、なんであんなに美味かったんだろう)


 考えても、答えは出なかった。出汁が違うのか、味噌が違うのか、それとも、別の何かが違ったのか。

 分からないまま、昼休みが終わった。


 フロアに戻る途中、一階の食堂の前を通った。

 ガラス越しに中が見える。十二時半を過ぎているのに、半分以上の席が空いていた。

 カウンターの向こうで、給食会社のスタッフが手持ち無沙汰に立っている。


 一年前のこの時間、あの場所は戦場だった。

 よしえさんが盛り付けながらカウンターに立ち、みっちゃんがトレーを回し、奥で包丁の音が響いていた。


 今は、静かだった。

 プラスチックの蓋を開ける音だけが、かすかに聞こえていた。

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