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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『食堂なんて外部委託でいい』

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第14話「誰の判断だ」

 月曜の朝。デスクでパソコンを立ち上げた。

 メールを確認する前に、先にやることがある。


 橋本は、共有フォルダから食堂の利用率レポートを開いた。

 毎月第一月曜日に、給食会社から送られてくるデータだ。先月の利用者数、メニュー別の注文数、廃棄率。数字が並んだエクセルファイル。


 利用率、先月比四十パーセント減。


 橋本は、画面の数字を二度見た。

 四十パーセント。外部委託に切り替えて三ヶ月で、利用者が半分以下になっている。


 切り替え前の利用率は常に八十パーセントを超えていた。三百人の社員のうち、二百人以上が毎日食堂を使っていた。今は五十人を切っている。


 コーヒーを一口飲んだ。冷めていた。


 コスト削減。それが外部委託の目的だった。

 よしえたちのパート契約を解除して、大手給食会社に委託すれば運営費が二割下がる。試算通りの数字が出ていた——はずだった。

 利用率がここまで落ちると、給食会社の採算が合わなくなる。委託費は固定だが、食材の仕入れや人件費は利用者数に連動する。赤字が出れば、値上げか、メニュー削減か、どちらかだ。


(どちらも、利用者をさらに減らすだけだ)


 橋本は画面を閉じて、手帳を開いた。

 今日の午後二時、給食会社の担当者との定例打合せが入っている。



 午後二時。三階の会議室。


 給食会社の担当者——三十代半ばの男だった——が、テーブルの向かいに座った。名前は吉川。ネクタイの結び目がきつい。

 吉川の手元には、印刷されたレポートが三部重ねてあった。


「率直に申し上げます」


 吉川が切り出した。


「利用率が想定の半分です。このままでは採算が取れません」


「分かっている。改善策はあるのか」


「メニューの選択肢を絞らせていただければ、食材ロスを減らせます。現在の日替わり二種を一種にして——」


「それでは余計に客が離れるだろう」


 橋本の声が硬くなった。


「承知しております。であれば、委託費の増額をご検討いただくしかありません」


「増額? コスト削減のために委託したんだ。増額では本末転倒じゃないか」


「ですが、現状の委託費ではスタッフの配置を維持できません。すでに三名から二名に減らしています」


「二名? それで回るのか」


「回っています。利用者が減りましたので」


 吉川は淡々と言った。表情は変わらない。事実を述べているだけだ。

 橋本は言葉に詰まった。利用者が減ったからスタッフを減らせる。その利用者が減った原因は、サービスの質が落ちたからだ。負のスパイラルの中にいることは、橋本にも分かっていた。

 会議室の空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……値上げは、もうしたよな」


「はい。先月、百円改定しました」


「さらに上げるつもりか」


「現時点では予定しておりません。ただ、次の四半期の数字次第では——」


「分かった。持ち帰って検討する」


 橋本は、それ以上聞きたくなかった。

 吉川は書類をまとめ、「ご検討をお願いいたします」と言って会議室を出た。



 打合せが終わって三十分後。

 デスクの内線が鳴った。


「橋本くん、今から来てくれるか」


 常務の声だった。

 三階の奥、役員室。橋本は手帳を持たずに立ち上がった。持っていく資料はない。言い訳の材料がないことは、自分が一番よく分かっていた。


 役員室のドアをノックして、入った。

 常務は窓を背にして座っていた。デスクの上には何もない。書類もパソコンもなく、橋本の顔だけを見ていた。


「食堂の件だ」


「……はい」


「先週、取引先の伊藤物産さんからうちの営業に苦情が入った。ランチ会議で出された弁当が酷かったと。プラスチック容器にハンバーグだったそうだな」


「申し訳ありません」


「それだけじゃない。先月の採用面接で、学生にも言われたらしい。うちの会社は社食が自慢だと聞いて志望しましたって。で、実際に見たら——」


 常務は言葉を切った。

 橋本は、黙って立っていた。


「橋本くん」


「はい」


「食堂の外部委託。誰の判断だ」


 声は静かだった。怒鳴っているわけではない。だからこそ、余計に重い。

 橋本の背中に汗が流れた。

 本社の方針だ、と言いかけた。経費見直しの一環だ、と。だが、稟議書を書いたのは自分だ。「食堂の運営を外部委託にすることで年間約六百万円のコスト削減が見込めます」と書いた。その稟議書に常務の判子がある。常務も承認したはずだ。


 だが、今この場でそれを言えば、常務の判断を問うことになる。


「……私の起案です」


「そうだな。で、その結果がこれだ」


 常務はデスクの引き出しから紙を一枚出した。

 食堂の利用率推移のグラフだった。右肩下がりの線が、三ヶ月で半分まで落ちている。橋本が今朝見たのと同じデータだ。


「取引先への印象、採用への影響。数字に出ないコストは、計算に入っていたのか」


 橋本は答えられなかった。

 計算に入れていなかった。食堂は福利厚生のコストだと思っていた。経費の一行。それ以上でも以下でもない。年間の運営費を削れるかどうか。パートのおばちゃんを四人切れば六百万円浮く。そこまでしか考えていなかった。

 よしえに通告したとき、自分は何と言ったか。「食堂のおばちゃんなんて、どこに頼んでも同じでしょ」。あのとき、よしえの表情がどうだったか、思い出せない。覚えていないのではなく、見ていなかった。


「善処します」


「善処、ではなく、対策を持ってこい。来週までに」


 常務は視線を外した。

 もう出ていいという合図だった。



 デスクに戻ると、パソコンの画面にメール通知が点滅していた。


 差出人は吉川。給食会社の担当者。さっき会議室で向かい合っていた男だ。

 件名は「契約に関するご相談」。


 橋本は、嫌な予感がしてメールを開いた。


「誠に恐縮ではございますが、現状の利用率では弊社としても事業の継続が困難な状況です。つきましては、九月末をもちまして契約を終了させていただきたく——」


 撤退通告だった。


 打合せでは「検討」と言っていた。だが、メールはすでに出来上がっていたのだろう。打合せの結果に関係なく、本社の判断で送るつもりだったのだ。


 橋本は画面を見つめた。

 九月末で給食会社が撤退する。十月から食堂はどうなる。二百人が使っていた食堂が、五十人を切り、そして誰もいなくなる。


 新しい業者を探すか。だが、この利用率のデータを見せて引き受ける業者がいるだろうか。前の業者が三ヶ月で撤退した現場を、好んで引き受ける会社はない。

 よしえたちを呼び戻すか。三月末に切った相手を。「どこに頼んでも同じ」と言い放った相手に、頭を下げて戻ってくれと言うのか。

 橋本は、自分の手を見た。手のひらが汗で湿っていた。


 橋本は椅子の背にもたれた。

 天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に痛い。


 常務の言葉が、頭の中で繰り返していた。


(——誰の判断だ)


 自分だ。

 稟議書を書いたのも、よしえに通告したのも、「どこに頼んでも同じ」と言ったのも。

 全部、自分の判断だ。


 橋本は、一人、会議室に移動した。

 デスクでは、この顔を他の社員に見られたくなかった。


 窓の外を見た。

 六月の空は高く、雲が流れていた。

 一階の食堂から、何の音も聞こえてこなかった。

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