第15話「仕込み」
台所に立つと、つい四人分を作ってしまう。
味噌汁の鍋に水を入れて、火にかけて、昆布を沈めて。そこまでやって、気づく。一人だ。一人分でいい。
でも、手が勝手に動く。大根を半分切って、残りをラップで包む。豆腐を一丁開けて、半分は冷蔵庫に戻す。十五年の癖が抜けない。
食堂を辞めて、二ヶ月が経った。
毎朝六時に目が覚める。身体が覚えているのだ。出汁を引かなければ、と思って起き上がり、ここが自分のアパートの台所だと気づく。行く場所はない。六時十五分になると、裏口の扉が開く音を待っている自分がいる。田口さんは来ない。ここにはいない。
味噌汁を作って、ご飯をよそって、一人で食べる。テレビをつけてみるけれど、何を見ても頭に入らない。
作りすぎた味噌汁を、夜にもう一度温めて飲む。十五年前の味とは、少し違う気がした。一人で作る味噌汁は、どこか物足りない。
かおるさんもみっちゃんも田口さんも、それぞれの場所でそれぞれの日常に戻っているのだろう。連絡は取っていない。何を言えばいいのか、分からなかった。
*
六月の夕方、携帯が鳴った。
「よしえさん? かおるだけど」
久しぶりの声だった。二ヶ月ぶり。でも、声を聞いた瞬間、厨房の空気が蘇った。
「元気?」
「……まあ、ぼちぼち」
「ちょっと聞いてほしいんだけどさ」
かおるさんの声が、少しだけ弾んでいた。
「前の会社の子たちからね、連絡が来てるの。よしえさんの店があったら絶対行くのにって。一人じゃないよ、何人も」
「店って……」
「よしえさん、調理師免許持ってるでしょ。私もある。田口さんだってある。みっちゃんは……まあ、みっちゃんはホールだけど」
冗談だと思った。
でも、かおるさんの声は笑っていなかった。
「四人で集まらない? 話だけでも」
*
日曜日の昼。駅前のファミレスに、四人が集まった。
みっちゃんが一番乗りだった。
よしえが入口をくぐった瞬間、みっちゃんが立ち上がった。
「よしえさん!」
目が赤かった。泣いている。二ヶ月ぶりに会って、もう泣いている。
「みっちゃん、泣くの早い」
かおるさんが後ろから入ってきて、呆れた声を出した。
でも、かおるさんも少し目が潤んでいるように見えた。
田口さんは、奥の席でメニューを見ていた。
よしえたちが座っても、メニューから目を上げなかった。
「田口さん、何見てるの」
「……このハンバーグ、冷凍だな」
かおるさんが吹き出した。みっちゃんも笑った。
よしえも、久しぶりに笑った。二ヶ月ぶりに、声を出して笑った気がした。
*
話は自然とそちらに向かった。
「場所がないとね」
かおるさんが言った。
「私、探したんだよ。元の会社から歩いて行ける範囲で」
「えっ、もう探してたの?」
みっちゃんが目を丸くした。
「あるの。一件だけ。会社から徒歩三分の商店街に、空きテナント。元は定食屋だったところ。小さいけど、四人なら回せる」
かおるさんはスマホを取り出して、写真を見せた。
古い建物だった。シャッターが下りている。でも、間口は広くて、奥行きがある。
「厨房の設備は?」
田口さんが、初めて口を開いた。
「ガスは来てる。水回りも生きてる。換気扇は替えないとだめだけど、あとは中古でいける」
「家賃は」
「月十五万」
四人で割れば、一人あたり四万弱。決して安くはないが、払えない金額でもない。
よしえは写真を見つめた。
小さな店だった。社員食堂のように三百人は入らない。二十席もあるかどうか。
でも、自分たちの場所だ。誰かの決裁を仰ぐ必要はない。「外部委託にする」と言われることもない。
「……開業資金はどうする」
「退職金がある。四人で持ち寄れば、何とかなるんじゃない」
かおるさんが言うと、田口さんがポケットから封筒を出した。
テーブルの上に置いた。
「田口さん、それ——」
「老後の計算は済んでる」
封筒の中を見る必要はなかった。田口さんが黙って出すものは、いつだって一番多い。市場で魚を仕入れるときもそうだった。無言で、一番いいものを選ぶ。
みっちゃんが、また泣き始めた。
「泣くな。まだ何も始まっていない」
かおるさんの声は、少し震えていた。
*
そこからは、早かった。
テナントの契約。保健所へ 届出。営業許可の申請。やることは山ほどあった。
内装の修繕は四人でやった。壁のペンキを塗り、棚を取り付け、厨房の換気扇を業者に替えてもらった。ペンキの匂いが充満する店内で、みっちゃんが「お店っぽい!」とはしゃいでいた。
厨房機器は中古を探した。田口さんが「これはだめだ」「これはいける」と一つずつ確認した。コンロ、冷蔵庫、シンク。田口さんの目利きは食材だけじゃなかった。
仕入れルートは田口さんの市場の人脈で確保した。長年の付き合いがあるから、小口でも卸してくれる。
メニューは四人で決めた。
日替わり定食二種と、味噌汁と、小鉢。カレーは田口さんが「やめとけ。うちは定食で勝負しろ」と言ったので、やめた。
みっちゃんがのれんを縫った。白い布に、紺色の糸で「よしえ食堂」と入れた。
「よしえ食堂って、そのまんまじゃない」
「だって、よしえさんの食堂でしょ」
みっちゃんが笑った。
よしえは何も言えなかった。自分の名前がついた店。五十六年間、そんなものは想像したこともなかった。
*
開店初日。八月一日。
朝五時半。まだ暗い。
よしえは店の裏口から入った。鍵を開ける手が、少しだけ震えていた。
厨房の電気をつけた。
中古のコンロ。中古の冷蔵庫。田口さんが選んだ寸胴鍋。全部、新品ではない。でも、磨き上げてある。
寸胴鍋に水を張った。
昆布を一枚、底に沈めた。利尻の昆布だ。同じ店から取り寄せた、同じ昆布。
火をつけた。
弱火。昆布は沸騰させない。
三月の最終日に閉めたガスの元栓と、同じ動作。同じ手順。同じ匂い。
場所が変わっただけで、やることは同じだった。
六時、田口さんが来た。いつもより早い。
冷蔵庫を開けて、食材を確認した。
「サバ、いい色してる」
よしえは笑った。同じだ。同じことを言っている。
七時、かおるさんが来た。
九時、みっちゃんが来た。
四人が揃った。
厨房が、動き始めた。
*
十一時半。
みっちゃんがのれんを出した。
店の前を、人が通り過ぎていく。看板はない。のれんだけ。知らない人から見れば、いつの間にか開いた小さな食堂にすぎない。
十一時四十五分。客はゼロ。
十二時。まだゼロ。
みっちゃんが不安そうな顔をした。かおるさんは腕を組んで、入口を見ていた。田口さんは黙って皿を磨いていた。
よしえは、カウンターの内側に立っていた。
大丈夫。来なくても、大丈夫。今日はまだ誰も知らない。明日から少しずつ知ってもらえばいい。
十二時五分。
のれんが揺れた。
一人の男が、入ってきた。スーツにネクタイ。見覚えがあった。
営業部にいた社員だ。名前は——思い出した。高橋くん。いつも日替わりAを頼んでいた子だ。
高橋くんは、店内を見回した。小さなカウンター。奥の座敷席。壁に手書きのメニュー。
それから、よしえの顔を見た。
「やっぱり、ここだ」
よしえは、カウンター越しに笑った。
「いらっしゃい。今日のおすすめはサバ味噌だよ」




