表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『食堂なんて外部委託でいい』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/21

第15話「仕込み」

 台所に立つと、つい四人分を作ってしまう。


 味噌汁の鍋に水を入れて、火にかけて、昆布を沈めて。そこまでやって、気づく。一人だ。一人分でいい。

 でも、手が勝手に動く。大根を半分切って、残りをラップで包む。豆腐を一丁開けて、半分は冷蔵庫に戻す。十五年の癖が抜けない。


 食堂を辞めて、二ヶ月が経った。


 毎朝六時に目が覚める。身体が覚えているのだ。出汁を引かなければ、と思って起き上がり、ここが自分のアパートの台所だと気づく。行く場所はない。六時十五分になると、裏口の扉が開く音を待っている自分がいる。田口さんは来ない。ここにはいない。

 味噌汁を作って、ご飯をよそって、一人で食べる。テレビをつけてみるけれど、何を見ても頭に入らない。

 作りすぎた味噌汁を、夜にもう一度温めて飲む。十五年前の味とは、少し違う気がした。一人で作る味噌汁は、どこか物足りない。


 かおるさんもみっちゃんも田口さんも、それぞれの場所でそれぞれの日常に戻っているのだろう。連絡は取っていない。何を言えばいいのか、分からなかった。



 六月の夕方、携帯が鳴った。


「よしえさん? かおるだけど」


 久しぶりの声だった。二ヶ月ぶり。でも、声を聞いた瞬間、厨房の空気が蘇った。


「元気?」


「……まあ、ぼちぼち」


「ちょっと聞いてほしいんだけどさ」


 かおるさんの声が、少しだけ弾んでいた。


「前の会社の子たちからね、連絡が来てるの。よしえさんの店があったら絶対行くのにって。一人じゃないよ、何人も」


「店って……」


「よしえさん、調理師免許持ってるでしょ。私もある。田口さんだってある。みっちゃんは……まあ、みっちゃんはホールだけど」


 冗談だと思った。

 でも、かおるさんの声は笑っていなかった。


「四人で集まらない? 話だけでも」



 日曜日の昼。駅前のファミレスに、四人が集まった。


 みっちゃんが一番乗りだった。

 よしえが入口をくぐった瞬間、みっちゃんが立ち上がった。


「よしえさん!」


 目が赤かった。泣いている。二ヶ月ぶりに会って、もう泣いている。


「みっちゃん、泣くの早い」


 かおるさんが後ろから入ってきて、呆れた声を出した。

 でも、かおるさんも少し目が潤んでいるように見えた。


 田口さんは、奥の席でメニューを見ていた。

 よしえたちが座っても、メニューから目を上げなかった。


「田口さん、何見てるの」


「……このハンバーグ、冷凍だな」


 かおるさんが吹き出した。みっちゃんも笑った。

 よしえも、久しぶりに笑った。二ヶ月ぶりに、声を出して笑った気がした。



 話は自然とそちらに向かった。


「場所がないとね」


 かおるさんが言った。


「私、探したんだよ。元の会社から歩いて行ける範囲で」


「えっ、もう探してたの?」


 みっちゃんが目を丸くした。


「あるの。一件だけ。会社から徒歩三分の商店街に、空きテナント。元は定食屋だったところ。小さいけど、四人なら回せる」


 かおるさんはスマホを取り出して、写真を見せた。

 古い建物だった。シャッターが下りている。でも、間口は広くて、奥行きがある。


「厨房の設備は?」


 田口さんが、初めて口を開いた。


「ガスは来てる。水回りも生きてる。換気扇は替えないとだめだけど、あとは中古でいける」


「家賃は」


「月十五万」


 四人で割れば、一人あたり四万弱。決して安くはないが、払えない金額でもない。


 よしえは写真を見つめた。

 小さな店だった。社員食堂のように三百人は入らない。二十席もあるかどうか。

 でも、自分たちの場所だ。誰かの決裁を仰ぐ必要はない。「外部委託にする」と言われることもない。


「……開業資金はどうする」


「退職金がある。四人で持ち寄れば、何とかなるんじゃない」


 かおるさんが言うと、田口さんがポケットから封筒を出した。

 テーブルの上に置いた。


「田口さん、それ——」


「老後の計算は済んでる」


 封筒の中を見る必要はなかった。田口さんが黙って出すものは、いつだって一番多い。市場で魚を仕入れるときもそうだった。無言で、一番いいものを選ぶ。


 みっちゃんが、また泣き始めた。


「泣くな。まだ何も始まっていない」


 かおるさんの声は、少し震えていた。



 そこからは、早かった。


 テナントの契約。保健所へ 届出。営業許可の申請。やることは山ほどあった。

 内装の修繕は四人でやった。壁のペンキを塗り、棚を取り付け、厨房の換気扇を業者に替えてもらった。ペンキの匂いが充満する店内で、みっちゃんが「お店っぽい!」とはしゃいでいた。

 厨房機器は中古を探した。田口さんが「これはだめだ」「これはいける」と一つずつ確認した。コンロ、冷蔵庫、シンク。田口さんの目利きは食材だけじゃなかった。


 仕入れルートは田口さんの市場の人脈で確保した。長年の付き合いがあるから、小口でも卸してくれる。


 メニューは四人で決めた。

 日替わり定食二種と、味噌汁と、小鉢。カレーは田口さんが「やめとけ。うちは定食で勝負しろ」と言ったので、やめた。


 みっちゃんがのれんを縫った。白い布に、紺色の糸で「よしえ食堂」と入れた。


「よしえ食堂って、そのまんまじゃない」


「だって、よしえさんの食堂でしょ」


 みっちゃんが笑った。

 よしえは何も言えなかった。自分の名前がついた店。五十六年間、そんなものは想像したこともなかった。



 開店初日。八月一日。


 朝五時半。まだ暗い。

 よしえは店の裏口から入った。鍵を開ける手が、少しだけ震えていた。


 厨房の電気をつけた。

 中古のコンロ。中古の冷蔵庫。田口さんが選んだ寸胴鍋。全部、新品ではない。でも、磨き上げてある。


 寸胴鍋に水を張った。

 昆布を一枚、底に沈めた。利尻の昆布だ。同じ店から取り寄せた、同じ昆布。


 火をつけた。

 弱火。昆布は沸騰させない。


 三月の最終日に閉めたガスの元栓と、同じ動作。同じ手順。同じ匂い。

 場所が変わっただけで、やることは同じだった。


 六時、田口さんが来た。いつもより早い。

 冷蔵庫を開けて、食材を確認した。


「サバ、いい色してる」


 よしえは笑った。同じだ。同じことを言っている。


 七時、かおるさんが来た。

 九時、みっちゃんが来た。


 四人が揃った。

 厨房が、動き始めた。



 十一時半。

 みっちゃんがのれんを出した。


 店の前を、人が通り過ぎていく。看板はない。のれんだけ。知らない人から見れば、いつの間にか開いた小さな食堂にすぎない。


 十一時四十五分。客はゼロ。

 十二時。まだゼロ。


 みっちゃんが不安そうな顔をした。かおるさんは腕を組んで、入口を見ていた。田口さんは黙って皿を磨いていた。


 よしえは、カウンターの内側に立っていた。

 大丈夫。来なくても、大丈夫。今日はまだ誰も知らない。明日から少しずつ知ってもらえばいい。


 十二時五分。

 のれんが揺れた。


 一人の男が、入ってきた。スーツにネクタイ。見覚えがあった。

 営業部にいた社員だ。名前は——思い出した。高橋くん。いつも日替わりAを頼んでいた子だ。


 高橋くんは、店内を見回した。小さなカウンター。奥の座敷席。壁に手書きのメニュー。

 それから、よしえの顔を見た。


「やっぱり、ここだ」


 よしえは、カウンター越しに笑った。


「いらっしゃい。今日のおすすめはサバ味噌だよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ