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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『食堂なんて外部委託でいい』

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第16話「のれん」

 開店三日目の朝、みっちゃんがスマホを片手に厨房に駆け込んできた。


「よしえさん、見てください! 高橋くんがSNSに書いてくれたんです!」


 画面を見せられたけれど、よしえにはSNSの仕組みがよく分からない。小さな文字で「あの味噌汁が帰ってきた」と書いてあるのは読めた。写真には、よしえの味噌汁が湯気を立てて写っていた。


 その日の昼に、元の会社の社員が五人来た。


「よしえさん、本当にお店やってたんだ」


「やってるよ。いらっしゃい」


 五人とも、日替わり定食を頼んだ。味噌汁を飲んで、「これだよ、これ」と言った。

 よしえは嬉しかった。けれど、顔には出しすぎないようにした。



 一週間で、昼は満席になった。


 元の会社の社員だけではなかった。商店街の人や、近隣のオフィスの会社員も来るようになった。「隣のビルの人に聞いて」「通りすがりに見えたので」。理由はそれぞれだ。


 二十席の小さな店が、十一時半から一時まで途切れなく埋まる。

 社員食堂の三百人には遠く及ばない。でも、一人一人の顔が近い。カウンター越しに「おいしかったです」と言ってもらえる距離だ。


 かおるさんが段取りを組み直した。回転を上げるために、定食の盛り付けを少しだけ早くできるように皿の配置を変えた。社員食堂で八年培った段取り力が、小さな店でも遺憾なく発揮されている。


「よしえさん、味噌汁のお椀、もう五つ追加ね」


「分かった」


 田口さんが仕入れ量を調整した。初日は二十食分だった食材が、一週間で四十食分になった。無駄は出さない。田口さんの計算は、昔から正確だ。



 二週間。行列ができた。


「もう回せない!」


 みっちゃんが嬉しそうに悲鳴を上げた。トレーを三つ同時に運びながら、笑っている。


「笑ってないで動け」


 かおるさんの声が飛ぶ。でも、かおるさんも口の端が上がっている。


 よしえはカウンターの中で盛り付けながら、四人の動きを見ていた。

 田口さんが皿を洗うペースは、社員食堂にいた頃と同じだ。かおるさんの仕込みの段取りも変わらない。みっちゃんの笑顔も、同じ。

 場所が変わっただけだ。四人が揃えば、厨房は回る。



 八月の半ば。開店から二週間と少し経った昼のことだった。


 よしえがカウンターから出て、空いた皿を下げに行ったとき、入口のあたりに立っている男に気づいた。


 のれんの前で、足を止めている。

 スーツにネクタイ。五十代。背が高い。


 よしえは、すぐに分かった。

 橋本部長だった。


 部長はのれんの文字を見ていた。「よしえ食堂」。紺色の糸で縫われた、みっちゃんの手縫いの文字。

 数秒、立ち止まっていた。それから、意を決したようにのれんをくぐった。


 目が合った。


「……久しぶりだね」


 部長の声は、小さかった。


「いらっしゃいませ」


 よしえは、それだけ言った。

 客として扱った。それ以上でも以下でもない。


 部長は空いていたカウンターの端に座った。居心地が悪そうに、背筋を伸ばしている。壁に貼ってある手書きのメニューを見ている。よしえの字で書いた、日替わり定食の品書き。


「日替わり定食を」


「はい。少々お待ちください」


 よしえは厨房に戻った。

 サバ味噌の定食を盛り付けた。味噌汁をよそった。小鉢のひじき煮を添えた。白いご飯は少し多めによそった。大柄な男の人には、いつもそうする。部長だからではない。

 いつも通りに。他の客と同じように。


 部長の前にトレーを置いた。湯気が立ち上った。


 部長は箸を取った。

 味噌汁を一口飲んだ。


 箸が、止まった。


 しばらく、椀を見つめていた。それから、サバ味噌を一切れ口に入れた。白いご飯を食べた。小鉢のひじきに箸を伸ばした。


「……これだったんだな」


 小さな声だった。独り言のようだった。

 よしえには聞こえていた。


 部長は箸を置いた。

 よしえを見た。


「戻ってきてくれないか」


 よしえは、手を止めた。


「条件は相談する。待遇も見直す。だから——」


「橋本さん」


 よしえは、穏やかに言った。

 怒ってはいなかった。恨んでもいなかった。ただ、もう終わったことだった。


「"食堂のおばちゃんなんてどこに頼んでも同じ"なんですよね? どこかに頼んでください」


 部長の顔から、血の気が引いた。

 自分が言った言葉だ。五ヶ月前、会議室でよしえに通告したときの言葉。覚えていないかもしれない。でも、よしえは覚えていた。


 部長は何か言いかけた。口が動いた。でも、声にはならなかった。


 よしえは、笑った。

 優しくも冷たくもない、静かな笑みだった。


「定食、冷めないうちに召し上がってください」


 部長は、黙って箸を取り直した。

 サバ味噌を食べた。味噌汁を飲んだ。ご飯を最後の一粒まで食べた。小鉢も空にした。


 会計は八百円だった。部長は千円札を出して、お釣りを受け取って、「ごちそうさまでした」と言った。

 声が、かすれていた。


 のれんをくぐって、出ていった。振り返らなかった。



 部長が出た後、かおるさんが厨房から顔を出した。


「何あの人。ずっと黙ってたけど」


「前の会社の人」


「ふーん。まあ、お客さんはお客さんだからね」


 かおるさんはそれ以上聞かなかった。かおるさんは、そういう人だ。聞かなくていいことは聞かない。


 みっちゃんが「なんか緊張感あったね」と小声で言った。


「そう?」


「よしえさん、全然顔に出さないんだもん。すごいなあ」


 すごくはない、とよしえは思った。

 顔に出さなかっただけで、心臓はずっと早く打っていた。でも、それを言う必要はなかった。



 午後二時。昼の営業が終わった。


 のれんを下ろして、片付けをして、四人で厨房の奥にある小さなテーブルに座った。

 賄いの時間だ。社員食堂のときは、片付けが終わった後にそれぞれバラバラに食べていた。でも、この店では四人で一緒に食べる。テーブルが小さいから、肘がぶつかる。

 今日の賄いは、余ったサバ味噌と、味噌汁と、白いご飯。客に出すのと同じものを、四人で食べる。


 みっちゃんが「いただきます」と手を合わせた。

 田口さんが黙って箸を取った。


 よしえは味噌汁を飲んだ。

 出汁の香りが、鼻に抜けた。今朝、自分で引いた出汁だ。


「明日の仕込み、何にする?」


 よしえが言った。


 かおるさんがエプロンのポケットからメモ帳を出した。


「肉じゃがと、あとは魚。田口さん、明日の市場どう?」


「アジがいい時期だ」


「じゃあアジフライ。みっちゃん、タルタルの仕込みお願い」


「了解でーす」


 みっちゃんが笑った。

 田口さんが黙って茶を飲んだ。


 よしえは四人の顔を見回した。

 この場所がある。この四人がいる。明日も仕込みがある。


 ふと、思った。

 "誰でもできる仕事"と言われて辞めた人は、みんなどうしているのだろう。同じように、自分の場所を見つけているのだろうか。


 答えは分からない。

 でも、少なくともよしえは——ここにいる。



 片付けを終えて、よしえは店の前に出た。


 夕方の風が吹いていた。八月の風は生暖かいけれど、日が傾くと少しだけ涼しくなる。


 のれんが風に揺れていた。

 みっちゃんが縫った「よしえ食堂」の紺色の文字が、夕陽に照らされて、ゆらゆらと揺れている。


 明日もここで出汁を引く。

 明日も四人で、厨房に立つ。


 のれんが、もう一度大きく揺れた。

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