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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『AIで自動化できるでしょ』

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第17話「削り代」

 朝六時。工場の鉄のシャッターを、下から六十センチだけ上げる。


 沢田はその隙間から身をかがめて中に入った。四十年、同じ入り方をしてきた。シャッターを全部開けるのは最後に来る事務員の仕事だ。それまでは職人が一人で、誰にも気づかれずに機械を温める。


 電気をつける。蛍光灯が一本ずつ、時間差で点灯していく。工場の奥に並んだ旋盤の列が、順に姿を現した。

 沢田の機械は、一番奥の右から二台目だ。四十年前、先代の赤羽源蔵が「お前はここだ」と指定したその場所に、今も立っている。


 旋盤の主電源を入れた。

 モーターが低く唸り始める。主軸が回転を始めるまで、一分ほどかかる。そのあいだ、沢田は刃物台の潤滑油をチェックして、切粉受けの奥を点検した。金属の粉が少しでも詰まっていると、精度に影響する。


 二分経った頃、試運転のスイッチを押した。

 無負荷で、主軸だけを低速で回す。これを十五分続ける。油が主軸ベアリングに回って、温度が安定するまで。


 冷えた機械では、ミクロンの精度は出ない。


 この十五分を省略する職人はいない。少なくとも、沢田が知る限りでは。



 六時半になると、副工場長の岡田が入ってきた。


「おはようございます」


「おう」


 岡田はまだ四十過ぎだが、沢田の次に古い。沢田の削るのを見て育った世代だ。


「今日、東邦エアロの精密シャフト、沢田さんに回します」


「公差は」


「プラマイ五」


 プラマイ五ミクロン。髪の毛の太さの二十分の一。この精度は、赤羽精工では沢田しか安定して出せない。


「分かった」


 沢田は短く答えて、図面を受け取った。

 A3の図面を両手で広げる。寸法と公差の指示がびっしり書き込まれている。沢田はまず全体を眺めて、次に一箇所ずつ順に目を走らせた。材質、熱処理、表面粗さ、幾何公差。


 頭の中で、削る順番が組み立てられていく。

 粗削り、中仕上げ、仕上げ。刃物の種類、送り速度、切込み量。すべての工程が、図面を見ているうちに手順書として浮かび上がる。

 紙に書き出す必要はない。四十年、そうしてきた。


 七時半、他の職人たちが出勤してくる。

 若手の水野が、工具箱を抱えて沢田のところに来た。


「沢田さん、この前の難削材、やっぱり送り落とさないとだめですかね」


「材料見せろ」


 水野が切れ端を差し出す。

 沢田は親指で断面をこすった。指先の感覚で、硬さと粘りを読む。


「これは送り半分だ。刃先は新品に替えろ」


「やっぱりですか」


「刃先の摩耗が出ると、仕上げ面が荒れる」


「ありがとうございます」


 水野は頭を下げて、自分の機械に戻った。

 若手たちは、分からないことがあると沢田に聞きに来る。沢田は面倒がらずに答える。先代の源蔵がそうだった。沢田も、そうされて育った。



 午前中、東邦エアロの精密シャフトを削った。

 粗削りを終えて、仕上げに入る。刃先を慎重に送り込む。主軸の回転音、切粉の色、削り音。すべてが調和していた。


 音が、いい。

 沢田は独り言のように思う。機械が鳴く音で、削りの状態が分かる。キュルキュル、という高音は刃先が鈍ったとき。シャーッ、という滑らかな音は、すべてが噛み合っているとき。今は、後者だ。


 仕上げを終えて、測定室に運んだ。

 精密マイクロメーターで外径を測る。図面指示は直径十五・〇〇〇、プラマイ五ミクロン。


 測定値、十五・〇〇三。


 公差内。


 沢田はそれを測定記録に記入して、梱包工程に回した。



 昼食を食べ終わって機械に戻ったとき、岡田が近寄ってきた。


「沢田さん、午後二時に社長が呼んでるって」


「社長が?」


 健太郎が沢田を直接呼ぶのは珍しい。年に数回、形式的な面談があるくらいだ。


「何の用だ」


「分かりません。事務の子が伝えに来ただけで」


 岡田の顔が、少し曇った気がした。

 沢田は「分かった」と言って、午後の作業を続けた。公差の厳しい部品が、まだ二本残っていた。



 午後二時。沢田は作業服のまま、二階の社長室に向かった。

 ノックをして入ると、健太郎がデスクの向こうに座っていた。スーツにネクタイ。四十二歳。先代の源蔵とは似ても似つかない体型で、顔立ちも違う。


「沢田さん、どうぞ」


 健太郎は革張りのソファを指した。沢田は腰を下ろした。


「お忙しいところすみません。今日はご相談がありまして」


「はあ」


「早期退職制度のご案内です」


 健太郎はテーブルに書類を置いた。退職金の上乗せ額が書かれていた。通常の一・五倍。


 沢田は書類を見た。

 数字を理解するのに、少し時間がかかった。


「……俺が対象ですか」


「はい。沢田さん、今年で五十六ですよね。あと十年近くあります。でも、これから会社はNC機械を増やして、AI品質管理に切り替えていく方針で」


 健太郎は、よどみなく話した。


「沢田さんのノウハウは貴重です。だからこそ、AIに学習させて、会社の資産として残したい。過去の加工データは全部デジタル化して、AIが最適な加工条件を出力するシステムを入れます」


「……そうですか」


「NC機械もさらに増設します。職人の勘に頼る部分を、数値化して、再現可能な形にする。属人化の解消です」


 沢田は黙って聞いていた。

 健太郎の顔を見た。悪意はない。むしろ、丁寧に説明しているつもりなのだろう。数字と戦略の言葉で、自分のビジョンを伝えている。


「率直に申し上げると、職人の勘なんて、AIで自動化できるでしょ。NC機械もあるし」


 健太郎は、軽く笑った。


「沢田さんには長い間貢献していただきました。感謝しています。ただ、これからの赤羽精工には、違う形で関わっていただくほうが、お互いのためかと」


 沢田は、書類を見た。

 退職金の数字。二千八百万円。悪くない金額だった。


「……考えさせてください」


「もちろんです。一週間ほどお時間をどうぞ。ただ、できれば前向きにご検討いただければ」


 健太郎は立ち上がった。握手を求めてきた。沢田も立ち上がって、応じた。健太郎の手は柔らかかった。


 社長室を出て、階段を下りた。

 工場に戻ると、午後の作業が続いていた。主軸の唸り、削り音、切粉の飛ぶ音。四十年聞いてきた音だ。


 沢田は自分の機械の前に立って、削りかけの部品を見た。

 公差プラマイ五ミクロン。仕上げまであと三工程。


 手を動かした。

 いつも通りに。



 その日の夜、沢田は家に帰って、妻の明子に話した。

 玄関で作業着のまま、靴を脱ぎながら、「辞めることになった」と言った。


「辞める?」


 明子が振り返った。包丁を持ったまま、台所から顔を出していた。


「早期退職だ。退職金は上乗せしてくれるらしい」


「……あんた」


「決めた。もう決めた」


 明子は包丁を置いた。

 エプロンで手を拭きながら、沢田のそばに来た。


「何て言われたの」


「AIで自動化できるって。俺の仕事は」


 明子は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく息を吐いた。


「あんたが決めたなら、いいよ」


 それだけ言って、台所に戻っていった。

 沢田は靴を脱いで、洗面所に向かった。手を洗った。石鹸をつけて、指先の油を落とす。四十年、毎日同じようにこすってきた手だ。


 鏡を見た。

 五十六歳の男が映っていた。

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