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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『AIで自動化できるでしょ』

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第18話「鉄粉の匂い」

 最終出勤日。三月三十一日。


 沢田はいつも通り、朝六時に工場のシャッターを下から六十センチ上げて、身をかがめて中に入った。四十年間、変わらなかった入り方だ。今日も変えなかった。


 蛍光灯を順に点けた。

 一番奥の右から二台目。自分の旋盤の前に立つ。主電源を入れた。モーターが低く唸り始める。主軸が回り出すのに一分。試運転で十五分。

 今日も、この機械を温めた。


 温める必要はなかったのかもしれない。今日の午後には、沢田はもうここにいない。この機械は、沢田のために温められる最後の日だった。

 それでも、十五分かけた。



 六時半、岡田が入ってきた。


「……おはようございます」


 声が少し小さかった。


「おう」


 沢田はいつも通り返事をした。岡田は言葉を継がなかった。作業服を整えて、自分の機械に向かっていった。


 七時半、水野が来た。いつもなら真っ先に「沢田さん、おはようございます」と声をかけてくる若手だ。

 今日は、機械の前で立ち止まった。こちらを見ている。


「水野、何してる」


「……沢田さん、本当に今日で」


「今日までだ」


 水野は言葉を探していた。

 ほかの若手たちも、自分の機械の前から沢田を見ていた。いつの間にか、工場の空気が止まっていた。


「何で辞めるんですか」


 水野の声は、少し震えていた。


「俺はもう古いからな」


 沢田はそれだけ言って、図面を取り上げた。

 今日、最後に削る部品。東邦エアロ向けの精密シャフト。公差プラマイ五ミクロン。昨日、岡田が「沢田さんの最後の仕事に、これを」と回してきた。


 水野は、何か言いかけて、止めた。

 自分の機械に戻っていった。背中が、少し丸まっていた。



 午前中、沢田は最後の一本を削った。


 材料をチャックに固定する。センターを出す。刃物を選ぶ。送り速度を決める。切込み量を決める。

 全部、身体が覚えていた。考える必要はなかった。


 粗削り、中仕上げ、仕上げ。

 仕上げの刃物を送り込む瞬間、沢田は息を止めた。

 切粉が流れる。短く、小さく、螺旋を描いて落ちる。機械が鳴く。シャーッ、という滑らかな音。


 いい音だ、と思った。

 四十年、この音を聞いてきた。


 仕上げを終えて、部品を外した。

 手のひらに乗せる。まだ温かい。削りたての鉄は、体温よりも少しだけ高い。掌に伝わる温度で、削りの状態が分かる。均等に温かい。変な熱の偏りはない。


 測定室に運んだ。

 精密マイクロメーターを当てた。


 十五・〇〇〇。


 ジャストだった。

 プラマイゼロ。公差の中心。


 沢田はそれを測定記録に記入して、梱包工程に回した。

 測定記録用紙の下の「担当者」欄に、自分の名前を書いた。沢田慎一。この欄に自分の名前を書くのも、今日が最後だった。



 午後三時。最後の片付けが終わった。


 切粉を掃いて、油を拭いて、刃物を工具箱に収めた。マイクロメーター、ノギス、ダイヤルゲージ。四十年使ってきた道具を、全部、拭いて仕舞った。

 刃物台の上を、ウエスで磨き上げた。鈍く光るまで。先代の源蔵が「道具は最後まで光らせろ」と言った。沢田はそれを守ってきた。


 工場の隅に、全員が集まってきた。

 二十人ほど。岡田、水野、ほかの職人たち。若手も中堅も。


 岡田が「何か一言」と言った。

 沢田は少し迷った。


「……世話になった」


 それだけ言って、頭を下げた。

 四十年の言葉は、それ以上出なかった。


 水野が泣いていた。

 ほかの若手たちも、目が赤かった。


 岡田が「沢田さん」と言って、花束を差し出した。

 沢田はそれを受け取って、もう一度頭を下げた。


 工場を出るとき、振り返らなかった。

 シャッターの向こうで、主軸の音がまだ続いていた。誰かが機械を回している。当たり前の音だった。



 家に帰ると、明子が玄関に立っていた。


「おかえり」


「ああ」


 花束を渡した。明子は黙って受け取って、台所に運んでいった。

 沢田は作業着のまま、居間のソファに座った。


 部屋の時計が、四時十分を指していた。

 普段ならまだ工場で仕事をしている時間だ。

 手持ち無沙汰だった。


 夕飯のとき、明子が「お疲れさまでした」と言った。

 沢田は「おう」と答えた。それ以上の会話はなかった。四十年、夫婦はそういう暮らし方だった。



 翌朝六時、目が覚めた。

 身体が覚えている。工場に行く時間だ。


 しかし、行く場所はない。

 沢田はしばらく布団の中で天井を見ていた。それから起き上がって、台所で水を一杯飲んだ。

 明子はまだ寝ていた。


 庭に出た。三月の朝はまだ冷える。

 庭木に水をやった。それから、伸びた草を少し抜いた。十五分ほどで、することがなくなった。


 六時十五分を少し過ぎた頃、意味もなく腕時計を見た。

 工場では、この時間、岡田が出勤してくる。「おはようございます」と言う声が聞こえているはずだった。

 ここには、その声はなかった。



 三週間が過ぎた。


 朝の庭仕事、昼の買い物、夕方の散歩。毎日、同じことを繰り返した。商店街に出ると、魚屋の前で足を止めて、今日の刺身を眺めた。明子がもう買ってきているのを知っていても、眺めた。

 商店街の奥まで歩いた。いつもは行かない方まで、歩いてみた。


 その日、古い建物に紺色ののれんがかかっているのが目に入った。


 「よしえ食堂」。


 見覚えのない店だった。

 のれんの布は真新しい。手縫いのようだ。字も手書きで、紺色の糸で縫ってある。誰かの名前が店名になっている。


 昼時を少し過ぎた時刻だった。暖簾の向こうに、人の気配があった。匂いが漏れていた。出汁の匂い。味噌汁の、懐かしい匂いだ。


 沢田は少し立ち止まった。

 それから、通り過ぎた。

 まだ、入る気にはなれなかった。定食屋に一人で入る習慣が、沢田にはなかった。昼は工場の近くの食堂で仲間と食べるか、弁当を持って行くか、どちらかだった。

 今は、どちらでもない。



 家に帰って、居間でテレビをつけたとき、携帯が鳴った。

 液晶画面に「三島章吾」と出ていた。


 沢田は電話に出た。


「沢田さん、三島だ。久しぶり」


 三島鉄工所の社長。沢田より一歳下。同業の老舗で、先代同士が付き合いのあった家だ。先代の源蔵の葬式で、三島も泣いていたのを覚えている。


「三島さん」


「赤羽さんとこ辞めたって聞いた。本当か」


「本当だ」


 電話の向こうで、三島が短く息を吐いた気配があった。


「沢田さん、うちに来てくれないか」


「……」


「昔から、一度は頼みたいと思ってた。うちの若い衆に、手で削る感覚を教えてほしい。給料は前のとこ以上出す。肩書きは技術顧問でどうだ」


 沢田は、縁側の外を見た。

 庭に干した作業着が、風に揺れていた。洗っても鉄粉の匂いが取れない。四十年染みついた匂いだ。


「……考えさせてもらっていいか」


「もちろんだ。いつでもいい。でも、早く返事をくれたら嬉しい」


 電話を切った。

 沢田は作業着を見ていた。

 庭の風が、少し春めいていた。

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