第8話「パソコン詳しいだけでしょ」
その日、薄暗い情シスの部屋で、内線電話が鳴っていた。
朝八時十五分。藤崎はまだコートを脱ぎきっていない。
「藤崎さん、ログインできないんだけど」
経理の女性の声だった。
「ID入れてもパスワード違いますって出るのよ」
「キャプスロックか、半角全角どちらか押してませんか」
「押してないわよ。ちゃんとやってる」
藤崎は受話器を肩に挟んだまま、サーバーの管理画面を開いた。
アカウントロック。深夜のうちに誰かがパスワード総当たりを試した形跡がある。海外からのIPだった。
「ロック解除しました。もう一度お願いします」
「ありがとう。やっぱり藤崎さんに聞くのが早いわね」
受話器を置く。同時に内線がまた鳴った。
二階の総務から、複合機が紙詰まりを起こしたという連絡だった。
藤崎はサーバールームを出て階段を上がった。
複合機の前で総務の派遣社員が困った顔をしている。
「ここ、開け方が分からなくて……」
ガイドのとおりに緑のレバーを引き、紙片を抜く。
「ここを引くと開きます。次回、覚えていただけると助かります」
言ったあと、すぐに(言うだけ無駄か)と思い直した。
毎月同じ人が、同じ場所で詰まらせる。
*
席に戻ると、ベンダー営業からのメールが二十二通溜まっていた。
基幹システムの保守ベンダー、ネットワーク機器のリース会社、複合機の点検業者、セキュリティソフトの更新案内。
全部、藤崎宛だ。
部長宛にも同報されているが、部長はメーラーをほとんど開かない。決裁はいつも藤崎が紙に印刷して持っていく。
ベンダー営業の一通に「サポート終了のご案内」とあった。
基幹システム周りのミドルウェアが、半年後に保守切れになる。後継製品への移行費用は、見積もり三千万円。
藤崎は短く息を吐いた。
この件は去年から部長に三回伝えている。三回とも「専務に上げとくよ」で止まったままだ。
午前十時、営業部からの内線。
「藤崎さん、Accessのツール、また落ちるんだけど」
受注管理の野良ツール。十年前に辞めた前任者が作り、誰もメンテできなくなったやつだ。
藤崎は二階に上がり、ノートパソコンを覗き込んだ。
VBAのコードを開く。エラーは見覚えがある。
月初に取引先マスタの件数が一定値を超えると、配列の上限を踏み抜く。八年前に一度直した記憶があった。
その場で五行直して、保存する。
「直りました。たぶん、来月の頭にまた出ます」
「えー、根本的に直らないの?」
「直すなら作り直しです。半年と二百万ぐらい」
「うちはそんな予算ないわよ」
知っている。
*
午後一時、VPNが切れたと支店から連絡が入った。
ファイアウォールのログを舐める。接続設定が変わっている。回線の問題ではなさそうだった。
藤崎は機器の管理画面に入り、設定を確認した。
二十年物の基幹システムの裏で、いまも夜間に走り続ける夜間処理が百二十本ある。
誰が何のために書いたのか、ドキュメントは一行もない。
藤崎は入社してから八年かけて、一本ずつ追って、全部解読した。
そのうちの三十二本は、もう要らないジョブだった。残りの八十八本は、止めたら必ずどこかで業務が止まる。
止めたら止まる、ということを知っているのも、この会社で藤崎だけだった。
VPNは三十分で復旧した。
支店の所長から礼の電話が来た。
「いやあ、藤崎さんがいてくれて助かるよ。若い子はパソコン得意でいいねえ」
藤崎は「いえ」とだけ返した。
*
午後三時、役員会議の議事録メモが部内チャットに流れてきた。
部長が会議で取った走り書きをそのまま貼ったらしい。
末尾の方に、こうあった。
『専務発言:情シスなんて外注で十分じゃないか。固定費削減の対象として要検討』
藤崎は画面を見つめた。
怒りは胃の奥でぐっと縮こまり、そのまま沈んでいった。
飲み込むのには慣れている。
席から立ち、給湯室で湯を沸かして、インスタントコーヒーを淹れた。
戻る途中、廊下で総務部長とすれ違った。
「藤崎くん、悪いんだけどさ、うちの部署のプリンター、ちょっと見てくれない?」
「はい」
ちょっと、を聞き流せなくなったのはいつからだろうと思った。
*
夜、誰もいないフロアで携帯を開いた。
大学同期のSNSに投稿が三件並んでいた。
ひとりは海外のAIカンファで登壇したらしい。スライドの写真。スーツが板についている。
ひとりはシリコンバレーへの赴任が決まったとあった。家族写真。
ひとりは、メガベンチャーでマネージャーに昇進、と書いていた。
藤崎は三件すべてに、いいねだけ押した。
コメントは思いつかなかった。
夜間バッチの監視画面を開く。
今夜も、百二十本のジョブが順に走り出す。
藤崎はそれを最後まで見届けてから、車で家に帰った。
*
翌週の火曜、午前八時四十分。
基幹システムが落ちた。
受注、出荷、在庫、会計、すべてのトランザクションが止まった。
藤崎は朝礼の途中で携帯が鳴り、そのままサーバールームへ走った。
原因は、先週ベンダーが当てた小さなパッチと、八年前に藤崎が解読した謎ジョブの一本との、相性だった。
藤崎以外、誰も触れない領域だった。
昼を食べないまま、夕方になり、夜になった。
部長は何度か様子を見に来て、そのたびに「どう? まだ?」とだけ聞いた。
深夜二時、藤崎はようやくロールバックの順番を組み立て終えた。
午前四時半、最後のジョブが完走した。
画面に並んだログを目で追いながら、藤崎は椅子に背を預けた。
窓の外はまだ暗い。
*
翌朝、十時。
部長が出社してきて、藤崎の席まで来た。
「助かったよ」
それだけだった。
専務にこの件が報告されているのかどうか、藤崎は聞かなかった。
たぶん、されていない。
*
夕方六時、藤崎は会社を出た。
駐車場の車に乗り込み、エンジンをかけたところで、ハンドルに額を押し当てた。
眠かった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でも判別がつかなかった。
ただ、ずっと喉の奥に引っかかっているものがある気がした。
国道に出て信号で止まったとき、助手席の携帯が震えた。
画面を見る。
登録していない番号だった。市外局番が、東京。
無視して切ろうとしたが、指が止まった。
なぜか、出てみようと思った。
藤崎は路肩に車を寄せ、ハザードを焚いた。
深く息を吸って、通話ボタンに指をかけた。




