第7話「CTOの名刺」
「で、結局フジはマネージドKubernetesに寄せたい派ってこと?」
湊が、ホワイトボードの前で腕を組んだ。
「寄せたい、というか」
藤崎はマーカーのキャップを外した。
「最初の半年は、運用に人を割けない。マネージドで殴れるところは殴る」
会議室、というには小さすぎる部屋だった。
ガラスの仕切りの向こうに、まだ家具のないフロアが広がっている。引っ越して二週間、観葉植物すら届いていない。床に養生テープの切れ端が何枚か残っている。
ホワイトボードに、雑な箱と矢印を描いた。
「コントロールプレーンを抱えた瞬間、夜間に呼ばれる人間が出る。それは三人目以降にやらせる仕事だ」
「俺の経験値だな、それ」
湊が小さく笑った。
「お前の前職の経験値だよ」
藤崎は淡々と返した。
冗談のつもりはなかった。けれど、長机の向こうで若い社員が小さく吹き出した。
社員五人。エンジニアは藤崎を含めて三人。あとは湊と、業務委託のデザイナーが一人。
その三人のエンジニアが、長机の片側に並んで座っている。みんな手元のノートパソコンに、ホワイトボードの図を写しはじめた。
「あの、CTO」
一番若い男——先月入った大山が、おそるおそる手を挙げた。
「CTO、はやめてくれって言わなかったか」
「あ、すみません、藤崎さん」
「監視、何の話だった」
「監視は、何で入れますか。前職、Zabbixを生で運用してたんですけど、ここでも同じ感じで……」
「Zabbixが悪いわけじゃない。お前が前職で運用できていたなら、それは立派な経験だ。ただ、ここに必要なのは『お前が休んでも止まらない監視』だ」
「最初はマネージドのやつでいい。アラートが鳴る場所と、誰が一次受けするかさえ決まっていれば、ツールは後から差し替えられる」
言いながら、自分の声に少し驚いていた。
誰かに技術選定の理由を、最後まで説明できる場所にいる。質問を遮られない。話の途中で「で、結局いつ直るの」と被せられない。そんな当たり前のことが、まだ慣れない。
「それと」
藤崎はマーカーをホワイトボードの縁に置いた。
「俺が落ちたとき用の手順書を、来週中に一本書いてくれ。短くていい。手順だけでいい。属人化は、お前らがやらなきゃいけない仕事の半分だ」
「半分、ですか」
「もう半分は、書いた手順を半年後に自分で読み直せる形にしておくこと」
大山がノートに何かを書きつけた。
藤崎は、その仕草をしばらく見ていた。
手順書を書け、と部下に言える日が来るとは、八ヶ月前の自分は思っていなかった。
あの頃は、自分が書いた手順書を、自分以外の誰も読まない部屋にいた。
*
会議が中だるみしたタイミングで、湊が立ち上がった。
「コーヒー淹れてくる。フジ、ブラックでいい?」
「いい」
「相変わらず色気がないなあ」
ぼやきながら、湊が部屋を出ていった。
大山ともう一人のエンジニアも、伸びをしながら席を立った。給湯スペースの方からカップを取り出す音が、ガラス越しに聞こえてくる。
藤崎は椅子の背にもたれた。
胸ポケットから、名刺入れを出す。革の匂いがまだ抜けていない。先週、湊に押しつけられたものだった。
「お前、名刺くらい自分で買えよ」と、あの日も湊は笑っていた。「CTOがコンビニの名刺ホルダーで客先に行くな」
一番上の名刺を、指でつまんで引き出した。
『株式会社◯◯ Co-founder / CTO 藤崎』
名前の上の二行を、何度見ても他人事のように感じる。
Co-founder。CTO。文字としては知っている単語だ。けれど、自分の名前と並ぶと、何かの間違いではないかと一瞬思ってしまう。
前職の名刺は、肩書のスペースが空白だった。
部長が「総務情シス係」とだけ印字させたあの紙の束を、八年間、何百枚配っただろう。配るたびに、相手はちらりと肩書の欄を見て、小さく頷いて、それきりだった。
(八ヶ月前は……)
胸の中で呟きかけて、止めた。
その続きを口に出すと、まだ少し息が浅くなる。
名刺を、もう一度撫でた。
肩書の文字の輪郭を、指の腹が確かめる。八ヶ月前の自分にこの紙を見せても、たぶん信じない。冗談だと思って薄く笑って、それからすぐに内線電話の方を振り返るのだろう。
名刺を入れ直した、その瞬間だった。
机の上のスマホが、震えた。
画面に目をやる。
非通知。
藤崎は少し迷ってから、画面をスライドさせた。
受け取りボタンに親指を置いて、一拍だけ間を置いた。八年間しみついた癖だった。電話に出る前に、肩の力を一度抜く。
「もしもし」
『あ、あの……お久しぶりです。藤崎さん、ですよね』
知らない声、ではなかった。
女性の声。語尾がかすかに上ずっている。聞き覚えはある。けれど、すぐには名前と顔が結びつかない。
『あの、◯◯部長の下にいた、派遣の——』
そこまで聞いて、思い出しかけた。
前職の情シス部、机の島の隅にいた事務スタッフの女性だった。資料のコピーや備品発注を任せていた人。八年間、隣の島に座っていたのに、業務の話以外をした記憶がほとんどない。
ただ、彼女の番号を知っているはずがなかった。
非通知でかけてくる理由も、分からない。
窓の外を見た。
四月の朝の光が、まだ家具の入っていないフロアの床に長く差し込んでいる。
『あ、あの、私が電話してるんじゃなくて、その、部長が、どうしても代わってほしいって、それで私が会社の電話じゃなくて自分の携帯から……』
声が、半泣きに近かった。
言葉の端々に、あの頃の情シスの部屋の空気が混じっている気がした。蛍光灯のうち一本が切れたままで、誰も交換しなかった部屋。
藤崎は短く息を吸った。
自分の声から、表情を抜く。八年間、内線電話で身につけた習慣だった。
「——どちら様ですか?」
受話器の向こうで、息を呑む音がした。
ガラスの仕切りの向こうで、湊がコーヒーカップを二つ持って戻ってくるのが見えた。
こちらの様子に気づいて、足を止めている。
藤崎の頭の中で、別の音が鳴り始めていた。
受話器の向こうの声でも、湊のスニーカーがフロアを踏む音でもない。
もっと古い、もっと薄暗い場所の——内線電話の、あの安っぽい呼び出し音だった。
***
----八ヶ月前
その日、薄暗い情シスの部屋で、内線電話が鳴っていた。
少し第一章と第二章の流れが似すぎたかな、と思い、人間ドラマを深く描いてみます。
今回の情シスは5話編成です。楽しみにしていただけたら嬉しい限りです。




