第6話「届かなかったお礼」
スマホの画面を見た。
課長の名前が光っている。
テーブルの上で、裏返したままだった。バイブレーションがテーブルを叩く音だけが、静かな部屋に響いていた。
三回鳴らした。
出る理由はない。
もう社員ではないし、引き継ぎ資料は四十ページ分渡してある。あの資料を読めば、大抵のことは分かるはずだ。読んでいればの話だけれど。
四回目で、手が動いた。
なぜ出たのか、自分でもよく分からなかった。
「——もしもし」
「山下さん、今ちょっといいかな」
久しぶりに聞く課長の声は、思っていたより穏やかだった。
用件を切り出す前の、あの一拍の間。社内にいた頃と同じだ。何か面倒なことを頼む前に、必ずこの間を置く人だった。見積書の修正を持っていくときも、得意先のクレーム対応を振るときも、いつもこの「いいかな」から始まった。
「得意先からね、苦情が来ているんだ」
やっぱりそこからか、と思った。
お元気ですかでも、急に辞めてすまなかったでもない。苦情。この人にとって電話とは、問題を誰かに渡すための道具なのだろう。在職中からそうだった。
「A社にね、違う型番の商品が届いたらしくて。先方がかなり怒っていて」
「田中さんの発注、末尾の確認をしなかったんですか」
「……え?」
「田中さんはいつも旧型番で発注されるんです。引き継ぎ資料の七ページに書きました」
沈黙が落ちた。
受話器の向こうで、課長の呼吸がかすかに聞こえた。資料を読んでいないのだ。読んでいれば「七ページ」と聞いてすぐにピンとくる。あのページには付箋までつけておいた。黄色い付箋に「要注意:型番誤り頻発」と書いて。
「……それはその、システムの方で自動処理される想定だったんだが、型番のマッチングが上手くいかなくて」
当たり前だ。
田中さんが間違えるのは型番の「末尾一桁」だ。旧型番と新型番は末尾しか違わない。システムは存在しない型番ならエラーを出すけれど、存在する別の型番なら、そのまま通す。旧型番はまだカタログに残っている。だからエラーにならない。だから私が毎回確認していた。
「他にもあるんだ」
課長の声から、最初の穏やかさが消えていた。
焦り、というほど露骨ではない。でも言葉の間が詰まってきている。社内にいた頃、月末の締め切り前に同じ話し方をしていた。
「B社が、在庫を確保しておいてくれる約束だったのに反映されていないと言っている。月末の予算調整で今月中に入れたかったらしいんだが——」
引き継ぎ資料の十二ページ。B社の項目にはっきり書いた。「月末は在庫の事前確保が必要。二十五日前後に先方から相談あり」と。
「C社にも問題があってね。午前中に連絡しなきゃいけなかったのに、システムからの自動通知が夕方に飛んで、担当者がもう帰っていて。翌朝に先方から怒りの電話が来て」
C社の担当者は午後に現場に出る。だから急ぎの確認は必ず午前中。資料の十四ページ。赤字で注意書きをつけたはずだ。
「——正直に言うとね」
課長が言葉を切った。
短い沈黙があった。
「システムでは対応できない案件があるんだ。得意先ごとに事情が違いすぎて、全部イレギュラーみたいなもので」
知っている。
五年かけて覚えたことだ。五十社それぞれの暗黙のルール、担当者の癖、連絡がつく時間帯、過去のトラブル。それを全部頭に入れて、毎日矢印と矢印の間を埋めていた。
「山下さん」
名前を呼ぶ声が、変わっていた。
さっきまでの、状況を報告するような調子ではない。語尾が少し上がって、そこで止まった。あのパンフレットを自信満々にテーブルに置いた人の声とは思えなかった。
「……戻ってきてくれないか」
静かな声だった。
事務的でも、横柄でもない。ただ困っている人の声だった。
「条件は相談する。給与のことも、ポジションのことも。一度白紙に戻して——」
ポジション。
「来期からこのポジションはなくなります」と言ったのはこの人だ。なくなるはずのポジションを、今、目の前にぶら下げている。
間を置いた。
二秒か、三秒。課長にはもっと長く感じただろう。
「課長」
遮った。
声は震えなかった。
「"発注受けるだけの仕事"なんですよね? システムにやらせてください」
課長が息を吸う音がした。
何か言いかけた。その前に、通話終了のボタンを押した。
*
スマホをテーブルに置いた。
画面が暗くなるまで、じっと見ていた。
胸の奥が騒いでいるかと思ったけれど、不思議と静かだった。怒りでもなく、痛快さでもない。ただ、長い長い仕事が一つ終わった、という感覚だった。
窓の外を見た。
十二月の空が、白く高かった。
ふと、一人の得意先の担当者のことを思い出した。
毎月、決まった時期に電話をくれる女性がいた。名前は——思い出せない。発注書の担当者欄に印字されていたはずだが、もう手元にない。
でも声は覚えている。「いつもお世話になっております」から始まる、柔らかくて丁寧な声。型番も数量も毎回正確で、こちらから確認の電話を入れる必要がなかった。五十社の中で、あの人だけだった。
「いつもの」と言えば通じた。それだけで、この仕事が少し好きだった。
あの人にだけは、辞めるときに一言お礼を言いたかった。でも連絡先を知らない。会社の電話でしか、話したことがなかった。
もう届かないお礼を、胸の中でだけ言った。
コートを取って、玄関のドアを開けた。
十二月の風が冷たかった。
歩き出した。振り返らなかった。
第二章完結いたしました。
いかがだったでしょうか?
優秀な人が完ぺきにこなしているからこそ、システムに置き換えることができると思われてしまう。
お互いの仕事を理解しようと努める心が大事ですね。
第一章と同じ流れとなってしまいました。
第三章は構成を変えて描いてみましたのでお読みいただけたらと思います。
次回は、4/9(木)投稿予定です。
よろしくお願いします。




