第5話「いつもの」
目が覚めたとき、最初に思ったのは「何時だろう」ではなかった。
何も、思わなかった。
辞めてから二週間。この感覚に慣れてきている自分がいた。受注メールの確認も、納期回答の優先順位付けも、得意先への折り返しリストの作成も、もう私の朝ではない。
カーテンの隙間から光が漏れている。
十二月の朝にしては明るい。起き上がって、カーテンを開けた。向かいの駐車場に霜が降りていた。冷たそうだな、と思った。それだけだった。
時計を見ると、八時半を過ぎていた。
会社にいた頃なら、もう十件近く電話を取っている。朝イチの受注確認、在庫の引き当て、昨日の出荷分の着荷確認。始業から三十分で、私のデスクの付箋は五枚を超えるのが普通だった。
今日の付箋は、ゼロだ。
顔を洗って、お湯を沸かした。
棚の奥にあった紅茶のティーバッグを見つけて、マグカップに入れた。会社にいた頃は、朝にお茶を飲む余裕なんてなかった。始業前の十五分は、受注システムの立ち上げと、前日の出荷データの突き合わせに使っていたから。
窓際の椅子に座って、マグカップを持った。
湯気が立っている。静かだった。
*
その日の昼過ぎに、スマホが鳴った。
知っている番号だった。会社の後輩——というか、私の後任として受注業務を引き継いだ子だ。引き継ぎ期間は二週間あった。マニュアルも作った。得意先リストも、各社の発注パターンも、注意事項も、全部まとめて渡してある。
「すみません、山下さん、今ちょっといいですか」
声が焦っていた。
「先週処理した発注で、型番違いの商品が届いたって得意先から連絡来てて……」
どこの得意先か聞く前に、だいたい見当がついた。
あそこは型番の末尾が紛らわしい。AとA2で別商品になる。カタログ上は同じシリーズだから、システムの品番検索では隣同士に並ぶ。私は発注が入るたびに、前回の注文履歴と照合してから処理していた。
「システムに入力されてる型番そのまま通しちゃったんですけど……」
「引き継ぎ資料に書いてあると思う。得意先別の注意事項のところ」
「あ、はい、見てみます。すみません、ありがとうございます」
電話が切れた。
紅茶はすっかり冷めていた。
*
数日後の午前中に、またスマホが鳴った。
同じ番号だった。
「山下さん、すみません、また聞いていいですか」
「うん」
「急ぎで明日届けてほしいって得意先に言われたんですけど、システム上だと最短が三営業日になってて……。前はどうしてたんですか」
前はどうしてたか。
倉庫に直接電話して、在庫を確認して、配送ルートに空きがあるか聞いて、あれば翌日便に載せてもらっていた。システムを通さない、私と倉庫担当の間だけの段取りだった。
「倉庫の田中さんに直接電話してみて。番号は引き継ぎ資料の——」
「あ、田中さん、先月異動になったみたいで……」
「……そう」
少し黙った。田中さんがいなくなったら、あのルートはもう使えない。
「とりあえず、得意先に三営業日って伝えるしかないかもしれない」
「でも、前は翌日で届いてたのにって言われて……」
「……うん。ごめん、もう私にはどうにもできない」
電話を切ってから、マグカップを洗った。
手を動かしていると、考えなくて済む。
*
翌週、今度はメールだった。
後任の子からではなく、営業の誰かが私の個人アドレスに送ってきたらしい。名前に見覚えはあるが、直接やりとりしたことはほとんどない。
「お疲れ様です。突然のご連絡失礼します。得意先から見積書のフォーマットが前と違うと指摘がありまして、以前のテンプレートがどこにあるか教えていただけないでしょうか」
テンプレートはサーバーの共有フォルダにある。引き継ぎ資料にパスを書いた。
ただ、あのフォーマットは会社の公式テンプレートではなかった。得意先ごとに微妙に体裁を変えていた。ここは税抜き表示、ここは税込み表示。ここは品番を入れる、ここは品名だけ。言われたことはなかったけれど、長年のやりとりで分かった好みだった。
フォルダのパスだけ返信した。
それ以上は、説明しようがなかった。
*
年末が近づいた十二月の終わり。
朝から三件、着信が入っていた。
後任の子からが二件。知らない番号が一件。
折り返さずに、着信履歴だけ見ていたら、メッセージが届いた。
「山下さん、得意先の丸和産業さんから電話があって、『いつもの』って言われたんですけど、何のことか分からなくて……。聞き返したら怒られちゃって」
丸和産業。月に二回、決まったタイミングで同じ商品を同じ数量で発注してくる。もう五年以上ずっとそうだった。担当の鈴木さんは電話口で型番も数量も言わない。「いつものお願いね」の一言で済ませる人だった。
それで通じていたのは、私が覚えていたからだ。
続けてもう一件。
「あと、別の得意先からも電話があって、『前の担当さんに戻してほしい』って言われました。これで三社目です……」
三社。
ひと月足らずで三社から、同じことを言われている。
全部「発注を受けるだけ」の仕事だ。システムに入力して、処理して、出荷する。それだけのはずだった。
でもシステムは、型番の末尾の違いに気づかない。
システムは、倉庫に電話して翌日便を頼まない。
システムは、得意先ごとの見積書の好みを知らない。
システムは、「いつもの」が何を指すのか分からない。
スマホを裏返して、テーブルに置いた。
画面が見えなくなると、少しだけ楽になった。
紅茶を淹れ直した。ティーバッグの箱はもう二箱目になっている。会社を辞めてから、紅茶の消費量だけが増えた。
窓の外は暗くなり始めていた。十二月は日が短い。
四時半で、もう空がオレンジ色だった。
急ぐ場所がない夕暮れを、ぼんやり眺めた。
会社にいた頃の今ごろは、翌日の出荷指示を最終確認している時間だった。五時の定時まで手を止める瞬間がなかった。定時を過ぎても、急ぎの納期調整が残っていれば帰れなかった。
今は、夕暮れを見ていていい。
スマホが震えた。裏返したままの画面が、微かに光った。
表に返さなかった。
もう一度震えた。
着信だった。バイブレーションが途切れない。
(……また後任の子かな)
そう思いながら、表に返した。
画面に表示されていたのは、課長の名前だった。




