第60話「着信十二件」
着信十二件。すべて同じ番号。村瀬課長。
スマホの画面を見て、内田は息を吐いた。十二月の第三週。暁光産業の年末月次に追われている最中だった。連結パッケージの締め切りが迫っている。高橋と二人で子会社の数字を確認している真っ最中に、ポケットの中でスマホが震え続けていた。
折り返していない。出る余裕がなかった。村瀬が何の用件で電話してきたのかは、大体分かっている。吉田からのLINEで察しはついていた。
最初の異変は、入力順序の件だった。
十二月の頭、吉田にLINEで返信した。
『入力順序は必ず売上→仕入→経費→振替の順で。順番変えると消費税の自動計算がズレることがある。戻すときは全部削除してから、最初から入れ直して』
吉田からの返信はすぐに来た。
『全部消して入れ直すんですか……? 十一月分、もう締めちゃったんですけど』
内田は画面を見つめた。締めた? 数字がズレたまま締めたのか。
『仮締めなら解除できる。経理システムの管理画面から「月次ロック解除」を選んで、パスワードは引継書に書いてあるから。解除したら全仕訳を消して、売上から順番に入れ直して』
翌日。吉田から。
『ロック解除しました。入れ直したら数字が合いました。ただ、十一月分の試算表、村瀬課長に出した分と数字が変わっちゃうんですけど……』
『差し替えればいい。差額の理由を添えて。消費税の端数調整って書いておけば大丈夫』
内田は返信を打ちながら、少し後ろめたさを感じた。入力順序のルール。引き継ぎのとき「この順番で」とは言った。だが「なぜこの順番なのか」は言わなかった。「順番を変えたらどうなるか」も。吉田は効率を考えて仕入から入力したのだろう。三年目の経理として、合理的な判断だ。仕入の件数が多いから先に片付けたかったのだろう。自分も十年前なら同じことをしたかもしれない。ただ、そこに落とし穴があることを、内田は経験で知っていた。知っていたのに、伝えなかった。伝えるべきだと思わなかったが、伝えておくのが正しかっただろう。
*
十二月の第二週。四半期消費税申告の問題が出た。
吉田からのLINEが長かった。
『四半期の消費税申告なんですけど、引継書には「会計ソフトから自動集計→e-Taxで申告」って書いてあるんですけど、免税事業者の仕入税額控除の調整って自動でやってくれるんですか? 数字をそのまま出していいのか分からなくて』
内田は仕事帰りの電車でメッセージを読んだ。揺れる車内で画面を見つめた。
免税事業者の調整。自動ではやってくれない。五社分の仕入を手動で抜き出して、経過措置の八割控除を計算して、税額を修正する。内田は毎四半期、自分でやっていた。頭の中のリストを見て、仕訳を一件ずつ確認して。
引継書には書いていない。四半期申告の項目に「自動集計」としか書かなかった。十月の引き継ぎ期間中に四半期申告はなかった。やって見せる機会がなかった。
記憶を頼りに返信を打った。
『自動では対応してない。免税事業者は丸城建材、鷹匠商事、小田原プレス、北藤サービス、ハセダ工業の五社。この五社の仕入仕訳を抽出して、税区分を「経過八割」に変更してから集計して。詳しい手順は税理士の先生に確認したほうがいい』
送信してから、吉田への申し訳なさと、引継書に書かなかった自分への苛立ちが混ざった。書くべきだった。だが——あの引継書を書いていたとき、この手順を「書くべき項目」だと思えなかった。自分がいつもやっていることだから。四半期になれば自動的にやること。免税事業者のリストなんて、五社の名前を覚えていればいいだけだ。そう思っていた。
吉田は三年目だ。簿記二級を持っている。消費税申告の仕組みは理解しているはずだ。だがインボイス制度の経過措置で、どの取引先が免税事業者なのかは、制度の知識だけでは分からない。取引先に確認するか、過去の処理を見るか、誰かに聞くしかない。その「誰か」が、もういない。
*
十二月第三週。村瀬から電話が来た。
昼休み。暁光産業の社員食堂で日替わり定食を食べ終わったところだった。味噌汁の椀を片付けようとした瞬間だった。着信十二件の最後の一件に、ようやく出た。
「内田くん、困ってるんだ」
村瀬の声はいつもより低く、疲れていた。
「吉田が参っててね。引き継ぎ資料に書いてないことが多すぎるんだけど」
「引き継ぎは済んでます。書類も渡しましたし、一ヶ月かけて説明もしました」
反射的に口から出た言葉だった。防御だと自分でも分かっていた。
「……書いてあることはできてるんだよ。レクチャーしてもらったことも、ちゃんとやれてる。ただ、書いてないこと、教えてもらってないことが次々出てきてるんだ」
村瀬は具体的に並べた。入力順序のバグ。免税事業者の手動調整。銀行の早川さんから「最近の月次資料の出し方が変わりましたね」と言われたこと。
「銀行の件は……」
「早川さんがね、前は月次の数字を表にまとめて持ってきてくれたのに、今は生の試算表だけだって。見方が分からないから説明してほしいって言われたよ」
それは内田が毎月やっていたことだ。月次の数字をExcelで表にまとめて、銀行用に要点だけ抜き出す。引継書には「銀行訪問は月一回」としか書いていない。資料の作り方は「いつもやっていること」すぎて、項目にすらしなかった。
「それと、丸川化学から連絡があったんだけど」
内田の指が止まった。
「『最近、二十五日の前払いがなくなった。値引きの適用が外れている』って言われたんだ。吉田に聞いたら、引継書には月末振込としか書いてないって」
丸川化学。二十五日前払い。月十五万円の値引き。十一月と十二月の二ヶ月分で約三十万円。
書いていなかった。引き継ぎ期間中も自分で処理した。吉田には月末の振込処理しか見せなかった。
隠したわけではない。忘れたわけでもない。当たり前すぎて、引き継ぐべき項目だと認識していなかった。
「……すみません。丸川化学の件は、確かに引継書に入れてなかったです」
「内田くんを責めてるわけじゃないんだ。ただ、吉田一人で回すのは厳しい状態でね。年末調整も控えてるし。外国人社員の租税条約の扱いとか、引継書には何も書いてないだろう」
外国人社員。二人いる。租税条約の適用で、源泉徴収の税率が通常と違う。内田が毎年十二月に処理していたことだ。引継書には「年末調整は税理士と連携」としか書いていない。個別のケースまでは書かなかった。
「分かりました。吉田に連絡します」
電話を切った。食堂のトレイを片付けて、席に戻った。隣のデスクで高橋が画面を見ていた。
*
帰りの電車。吉田からの長いLINEが来ていた。
『内田さんが当たり前にやってたことが、全然当たり前じゃなかったです。引継書に書いてあることは全部できてるんです。レクチャーしてもらったことも、そのとおりにやれてます。でも書いてないことが次々出てきて、私には何が分からないのかも分からなくて』
内田はスマホを見つめた。吉田の文面には怒りがなかった。責めてもいなかった。ただ途方に暮れている。返信の言葉が出てこない。
手を抜いたわけじゃない。一ヶ月かけてレクチャーした。引継書も十五枚書いた。でも——書いたのは「やり方」だけだった。なぜそうするか。いつ例外があるか。誰に何を確認するか。手順の裏にある判断を、何一つ渡していなかった。
車窓の外は暗い。十二月の夜だ。暁光産業のビルの明かりが遠ざかっていく。瑞和精工の工業団地の暗さを思い出した。あのオレンジ色の外灯。十年間歩いた道。あの道を、今は吉田が一人で歩いている。年末の経理は一年で最も忙しい。月次決算と年末調整と四半期申告が重なる。内田は十年間それを一人でやってきた。今、吉田が同じことをやっている。引継書と、一ヶ月のレクチャーの記憶だけを頼りに。




