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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『引き継ぎは済んでます』

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第59話「有給消化」

 目覚ましが鳴らない朝。平日なのに。

 十一月一日。有給消化の初日。内田は布団の中で天井を見た。八時を回っている。この時間に寝ていたのは、いつ以来だろう。

 十年間、毎朝六時半に起きて、七時二十分の電車に乗って、八時半に会社に着いて、九時には仕事をしていた。そのルーティンが、昨日で終わった。身体はまだ覚えている。


 起き上がって、コーヒーを淹れた。キッチンの窓から十一月の曇り空が見える。マグカップを持ってソファに座り、スマホを開いた。

 まもなく昼になるが、瑞和精工からの連絡はない。吉田も村瀬も、何も言ってこない。初日から質問の電話が来るかと思っていたが、静かだった。

 引き継ぎがうまくいっている証拠だろう。



 有給消化の一ヶ月は、あっという間に過ぎた。

 最初の三日間は何もしなかった。平日の昼間にテレビを見て、近所のスーパーで総菜を買って、夜は十時前に布団に入った。朝はアラームなしで目が覚める。身体が休むことを思い出すまでに三日かかった。

 四日目から動き始めた。暁光産業の入社手続きの書類を揃えた。年金手帳とマイナンバーカードは手元にある。雇用保険被保険者証と源泉徴収票は退職日を過ぎてから届く。届いたらすぐ提出できるよう、書類一式を封筒にまとめておいた。経理だから、こういう手続きは迷わない。

 五日目。一人で箱根に行った。平日の温泉は空いていた。脱衣所のロッカーに鍵をかけて、石畳の通路を歩く。露天風呂に浸かると、湯気の向こうに山の稜線が見えた。肩まで湯に沈んで、目を閉じる。硫黄の匂いが鼻に染みる。十年間の疲れが溶けていくような気がした。大げさだと自分でも思ったが、実際に肩が軽くなった。旅館の部屋に戻って、窓を開けたまま畳に寝転がった。天井の木目を見ていたら、いつの間にか眠っていた。こんなに何も考えずに眠ったのは久しぶりだった。


 一週間目。吉田からLINEが来た。


 『請求書のフォーマットってどのフォルダでしたっけ? Gドライブの経理フォルダの中だと思うんですけど』


 内田はすぐに返した。


 『経理フォルダの中の「帳票テンプレート」ってフォルダ。その中の「請求書_v3」ってやつ』


 『ありました! ありがとうございます!』


 フォルダの場所を聞いただけだ。問題というほどのことではない。


 二週間目。また吉田からLINE。


 『銀行届出の印鑑って、第二引き出しの右ですか左ですか? 引継書に引き出しとしか書いてなくて』


 『右。奥のほう。朱肉も一緒に入ってるよ』


 『ありました。すみません、細かいことばっかり聞いて』


 『全然いいよ。こういう場所とかは書ききれないからね』


 二件とも、手順的な質問だった。業務の内容ではなく、物の場所を聞いているだけだ。月次決算も、振込処理も、引継書通りにできているのだろう。

 三週目以降は、吉田からの連絡が途絶えた。そのまま最終週まで静かだった。日常の伝票処理も振込も、一人で回せている証拠だ。あの引継書があれば十分だったということだ。吉田は優秀だ。三年目で基礎ができている上に、一ヶ月のレクチャーを受けた。内田が入社したとき、前任者のレクチャーは二週間だった。それでも回せた。吉田ならもっとうまくやれるだろう。


 十一月三十日。正式退職日。といっても、もう出社しない。瑞和精工の社員証は最終出勤日に返却してある。この日を境に、内田靖は瑞和精工株式会社の社員ではなくなった。

 特に感慨はなかった。引き継ぎは済んでいる。吉田は回せている。一ヶ月間、業務の質問は一件も来なかった。連絡がないのがその証拠だ。もう心配することはない。前の週末に暁光産業用のスーツを一着買った。新しい会社に着ていく服くらいは新調しておきたかった。



 十二月一日。暁光産業株式会社、初出勤。

 都心のオフィスビル。ガラス張りのエントランスを抜けて、エレベーターで八階に上がる。ドアが開くと、広いフロアが目に入った。瑞和精工の三倍はある。デスクの間隔が広い。窓が大きくて、ビルの谷間から空が見える。コーヒーマシンが二台。空調の音が静かだ。瑞和精工ではプレス機の振動が床から伝わってきたが、ここにはそれがない。

 人事部で手続きを済ませて、経理部に案内された。部長に挨拶して、先輩社員の高橋に紹介された。


「高橋です。面倒見るんで、分かんないことは何でも聞いて」


「内田です。よろしくお願いします」


 高橋は四十歳。気さくで声が大きい。握手の力が強かった。内田のデスクは高橋の隣で、窓に近いほうだった。


「前の会社、経理は何人だった?」


「三人です。課長と、後輩と、自分と」


「三人? 月次どのくらいで締めてた?」


「三営業日です」


「三日で? 一人で?」


「ほぼ一人で」


 高橋が少し目を見開いた。


「すごいな。うちは十二人で五営業日だぞ。まあ連結あるから単純比較はできないけど」


 内田は曖昧に笑った。すごくはない。十年やっていれば、三日で回せるようになるだけだ。やり方を覚えれば誰でもできる。ただ、覚えるまでに時間がかかる。内田も最初の三年は五営業日かかっていた。四年目に三日で回せるようになって、以来ずっとそのペースだった。


 最初の数週間は研修に近かった。暁光産業の会計システムは瑞和精工と違うメーカーのもので、操作を覚えるのに時間がかかった。連結決算の仕組みも初めてだった。子会社が三社あり、それぞれの数字を合算して相殺する。開示資料のフォーマットも独自のルールがある。

 だが、覚えること自体は苦ではなかった。むしろ楽しかった。新しいことを学ぶのは十年ぶりだ。瑞和精工では最後の三年間、新しい知識を使う場面がなかった。毎月同じ手順で同じ決算をやり、同じ書類を出していた。ここでは毎日が勉強だ。昼休みにIFRSの解説書を読んだりもした。

 高橋は教え方がうまかった。手順だけでなく、理由を添える。


「この取引先は月末に寄せると嫌がるから、二十日くらいに振り込んどいて。昔トラブルがあったんだよ」


「分かりました」


 内田はメモを取った。取引先の事情、振込のタイミング、社内の慣習。引継書には載っていない種類の情報。瑞和精工でも同じようなことがあった。丸川化学の二十五日前払い。あれも引継書には書かなかった。高橋は口頭で教えてくれた。自分は吉田に、口頭でも教えなかった。

 ふと考えかけたが、それ以上は追わなかった。振込処理の基本は引き継いだ。あとはやりながら覚えるものだ。



 二週目に入ると、暁光産業の年末月次を手伝い始めた。連結パッケージの作成、セグメント情報の集計、開示資料のドラフト。どれも初めての経験で、高橋に教わりながら一つずつ覚えた。忙しいが充実していた。暁光産業のコーヒーマシンは豆から挽くタイプで、瑞和精工のインスタントとは香りが違った。

 通勤路も少しずつ体に馴染んできた。乗り換えが一回減って、朝の余裕が少し増えた。瑞和精工のことを考える暇もなくなっていた。


 十二月第二週の金曜日。昼休みにスマホを見ると、吉田からのLINEが三件溜まっていた。


 『四半期の消費税申告のことで相談したいんですけど』

 『免税事業者の仕入税額控除の調整って、引継書に書いてなくて』

 『すみません、急ぎです。お手すきのときに見てもらえますか』


 タイムスタンプを見ると、最初のメッセージは二日前だった。気づかなかった。暁光産業の仕事に集中していて、通知を見落としていた。

 四半期の消費税申告。免税事業者の調整。引継書に書いていない。内田は画面を見つめた。あれは——十月の引き継ぎ期間中に四半期申告はなかった。やって見せる機会がなかった。免税事業者のリストは自分の頭の中にしかない。五社分の名前と税区分。書かなかった。書くべきだとは思わなかった。失敗した。

 あとで返そう。午後の打ち合わせが控えている。暁光産業の連結パッケージの確認会議だ。内田はスマホをポケットに戻した。吉田への返信は、今日の夜、家に帰ってからにしよう。

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